狂気と対峙せよ
苦しげな呼吸の合間で、何かを必死に伝えようとする小早の頭をなで、優しく制し、「少し待っていてくれ、大丈夫だ」と短く告げてから、その体をそっと地面に降ろす。
今ここで、目の前の狂気を完全に止めなければ、小早の命すら救うことはできない。
「関内の最期は、どこまで知っている?」
「上の兄さんは即死でしょ。下の兄さんは、息があるうちに霊安室に運ばれたわよ……!」
血にまみれたナイフを握り締めながら、少女が吐き捨てるように叫ぶ。軍が書き残した冷酷な報告書など、所詮はそんな薄っぺらなものだろう。遺族がその日の真実の細部まで知る機会など、本来あるはずもないのだから。
「兄は即死だ。だが、弟の方は即死を免れた。最後まで、戦って亡くなったんだ」
「そんなの聞き飽きたわ、助けてもらえなかったから死んだのよ……!」
激情に任せて振りかざされたナイフを、最小限の動きで紙一重にかわす。その身のこなしは、かつて対人訓練で手合わせをした関内(兄)の姿と不気味なほどに重なっていた。
「弟の方は、あの日、俺と一緒に戦った。自分も激しく被弾し、肺に血が混じったような水音を響かせながらも、倒れ込む最後まで後輩たちへ指示を出し続けていた……!」
「だから何よ……そんなの、何の意味があるっていうの……っ!」
激昂して突進してくる攻撃を鮮やかにいなしながら、俺は躊躇なくその脇腹へと重い回し蹴りを叩き込んだ。鈍く、しかし確実に骨の折れる嫌な音が夜の駐車場に響く。
「ぐっ……!」
まともに息もできないほどの激痛の筈だ。本来なら、とうに動けるような状態ではないというのに。それでもなお、敵意を剥き出しにして泥臭く這い上がってこようとするその執念を見て、俺は低い声で告げた。
「ふたりとも、最期まで立派だった。……だからこそ、たまたま生き残ってしまった俺たちに言えることは、ただ一つしかない」
この狂気と絶望の最中で、「お前の兄貴たちはこんな復讐を望んではいない」などという綺麗ごとを並べ立てても、今の彼女の耳に届くはずがない。
「――助けられなくて、本当にすまなかった」
「あぁっ……!」
狂乱の声を上げる少女の手首を狙い澄まして掴み、一気にひねり上げる。嫌な骨の軋み音とともに、彼女の指先からナイフが地面へと滑り落ちた。激痛で膝から崩れ落ちたところをすかさず背後から押さえ込み、完全に地面へと制圧する。
どれほど優れた運動神経や身のこなしを持っていようとも、鍛え抜かれた現役の軍人である俺の制圧から逃れる術など最初からない。
遠くの敷地から、異変を聞きつけた病院の警備員たちが慌てて走ってくる足音が聞こえてきた。
「おい、すぐに警察を呼べ! ここで人が刺された、重傷だ!」
駆け寄ってきた警備員に関内の妹を引き渡し、俺は一目散に小早の元へとって返すと、その血まみれの体を再び腕の中に抱き起こした。
意識はまだ辛うじて繋がっているようだが、呼吸の音は先ほどよりもあきらかに弱々しくなっている。
口元から零れる血が混じった、あの絶望的な気管の呼吸音。
――あの日の地獄で、部下たちの命をみすみす見殺しにしたのと同じ悪夢を、二度と繰り返すわけにはいかない。
血塗れの小早をしっかりと腕に抱え、病院の入口へ向かって狂ったように走り出しながら、俺は枯れた声を絞り出した。
「小早……! 俺たちより先に、勝手に逝くことは許さないからな……っ!」




