君は……
桜木教官が車を降りていく気配は、うっすらと感じていた。
だけど、瞼の裏はどこまでも重く、指一本動かすことすらできない。中山教官は無事だろうか。桜木教官が起こさないということは、まだ眠っていていいということだ。思考は途切れ途切れになり、まとまらない。
――あぁ、大阪での任務の報告書、まだ最後まで書き終えていなかったな。提出先は本来なら中山教官だけど、いまは桜木教官に回すべきなのだろうか……。
そんな、いま考えなくてもいいような取り留めのない思考が浮かんでは、抗いがたい眠気と共に消えていく。
どれくらい時間が経ったのか。
不意に、私がいる車の扉が重々しく開く音がした。
「……さくらぎ……きょうかん……?」
そろそろ起きなければいけない、そう思って体を起こそうとした瞬間、不自然な気配とともに、上から覆いかぶさってくる重みがあった。
教官じゃない……?
必死に濁る視界の中で目を開けると、暗がりの中で冷たく光る鋭い刃物が目に入った。
「っ……!」
反射的に、咄嗟に右手でその光るものを掴み取る。
刃先は私の胸元にわずかに触れており、すでにそこから熱を帯びた血が流れ始めていた。心臓を貫かれかけた? いや、傷は浅いはずだ――。素手で刃を握りしめた右手の掌から、鮮血がぽたぽたとシートに滴り落ちていく。
「あなたは、だれ……です……」
うつむき加減で影になっていた相手の顔が、ゆっくりと持ち上がった。その口元には、悍ましい笑みが張り付いている。
「知らなくていいですよ。どうせ、今ここで死ぬのだから」
絞り出すような声とともに、女はさらに全体重を乗せてナイフを押し込んできた。
「くっ……!」
刃の鋭利な部分を素手で掴んでいるせいで、握力が急速に奪われていく。少しでも気を抜けば、今度こそこの胸を深く抉られる。
冷や汗が吹き出す中、相手がわずかに顔を上げた瞬間、その顔の造作が月明かりに照り出された。
「……関内くんの……」
その子は、他ならぬ関内くんの妹だった。面影が変わるほど大きくなっていたから一瞬分からなかったが、不意に名前を呼んだ私に驚き、見開かれたその瞳は、あの日失われた兄弟の面影そのものだった。
「中山教官は、私の顔を見ても分からなかったのに……あなたは、私が誰だか分かるのですね」
「なっ……なんで、こんなことを……っ」
「兄たちの復讐、とだけ言えば分かるでしょう?」
「復讐……? どうして……」
「あなたたちは知っていますか。あなたと同じ班だった私の兄は、まだ息があるうちに、霊安室代わりにされたあの体育館へ放り込まれて運ばれたんですよ」
そんな……。知るはずもなかった。安宅くん以外の死者たちの詳細について、中山教官は「これ以上知らなくていい」と私たちに多くを語らなかった。誰も、そんな残酷な真実を知る者はいなかったはずだ。
「安宅さんは『悲劇の犠牲者』としてマスコミに持て囃され、あなたや関さんも生き残りとして時の人だったものね。……ふざけないで。あなたたちは平然と日常に戻り、兄たちのことなど忘れてすやすやと眠れる。私は、あの日から一度だって夜に眠れたことなんかない! 兄たちの復讐をするために、ずっとこの刃を研いできたのよ!」
狂気に満ちた声とともに、ナイフに込められた殺意の重さが増していく。
一般人に危害を加えてはならない――頭の片隅でそんな理性が警鐘を鳴らすが、命の瀬戸際で体が勝手に動いた。私は渾身の力を振り絞り、相手の腹部へと両足で強烈な蹴りを見舞った。
「ぐっ……!」
その衝撃で、女の体は車外へと弾き出される。今だ、取り押さえなければ――そう身じろぎした瞬間、左肩に異様なほどの熱い感覚が広がった。
すぐに体勢を立て直され、刃物で切り裂かれたのだと理解するまでに、酷く時間がかかった。
すでにナイフは引き抜かれており、激痛に耐えかねて、喉の奥から声にならない悲鳴が漏れ出る。実戦で神力による負傷は何度も経験してきたけれど、こんな風に、生身の刃物で刺されたのは人生で初めてだった。
生暖かい血がみるみるうちに広がり、制服の生地を濡らしていく感覚が、嫌なほどハッキリと伝わってきた。




