菊名の見え方
李子が機嫌を損ねているのは、王子の前ではいつものことだった。
あいつは、きっと今でも許せないのだろう。あの日、自分たちを置いて去っていった王子のことを。
中学時代、福岡第二基地明光隊の七人と、あと一人の同期は同じ部活に所属していた。
中高合同で稽古を行う環境だったが、王子が入部してきた頃、高校生の女子部員はゼロだった。そのため、必然的に私たちが練習の指揮を執っていた。
初心者として入ってきた王子は、明るく人懐っこくて、何より一生懸命な努力家だった。
だが……細すぎる身体は筋肉が付きにくく、練習を重ねるにつれ、残酷なまでに「才能のなさ」が露見していった。
根性論だけで上り詰めてきた私たちの中でも、特に李子は純粋な泥臭さだけでやってきた自負があった。だからこそ、どれほど練習しても上手くなれない王子から、次第に心を離していった。
要領よく何でもこなす南野は、雑用をすべて王子に押し付け、私たち先輩との関係をうまく築いていった。真面目な王子は、言いたいことがあっても何も言わず、黙々と雑用を引き受けていた。
だが——王子の心がポッキリと折れてしまったのは、あの夏だった。
私たちの県総体が、個人・団体ともに悲惨な結果で終わり、新人戦へ向けて背水の陣を敷いていた時期。よりにもよって王子は大怪我を負った。
日頃の疲労が限界に達していたのだろう。不注意から車に跳ねられ、全治一ヶ月の重傷を負ったのだ。
練習ができない焦りと苛立ち。試合までの日数を数えては、「一番弱い自分がこんなところで何をやっているんだ」と、柄にもなく一人でボロボロと泣くようになった。
そんな王子の弱さを、私と同期の二人(李子たち)は苦々しく思っていた。桜花だけは寄り添おうとしたが、部内の意見は割れたままだった。
怪我で動けない王子の代わりに南野も雑用をするようになったが、李子は南野との稽古時間が減ることに苛立ちを隠さなかった。
やがて怪我から復帰した王子は、急激に落ちた体力のまま過酷な練習へ引き戻された。だが、体は限界悲鳴を上げていた。練習の激しさに耐えかね、王子は毎日のように吐くようになった。
元々細かった身体は激しい嘔吐でさらに削られ、日に日に痩せ細っていった。いくら食べても太らない、痛々しい姿。
それでもどうにか新人戦を迎え、全員が善戦したものの、結果は思うようなものではなかった。
新人戦が終わり、一週間のオフ期間に入った時のことだ。桜花の元に、王子が訪ねてきたという。
「……部活を、休部させてほしい」
王子の頻繁な嘔吐と、大会後の精神状態を考慮し、桜花は一ヶ月の休部を許可した。
だが、それを面白く思わなかった李子たちは、たまたま南野と備品を運びに部室へやってきた王子を呼び止め、詰問したらしい。
それから約二週間。南野以外の誰一人として、王子の姿を見かけなくなった。
どれほど身体が辛くても、部活の仕事だけは絶対に投げ出さなかった子なのに。
休部期間が終わる直前、私の元に王子から連絡が入った。
『……菊名先輩。部活を、辞めさせてください』
電話の向こうで聞こえた理由は、「もう逃げていると言われてもいい。これ以上、部活の足引っ張りになりたくないし、私がここにいても自分も部活も誰も得をしないから」という、どこか捉えどころのない、けれど切実なものだった。
だが……私には分かっていた。それが、追い詰められたあの子の本心なのだと。
特進コースで勉強も忙しそうだった王子が、久しぶりに見せたその目は、部活にいた頃の死んだ目とは違い、どこか生き生きとしていた。私はその目を信じ、退部を許可した。
王子は桜花とも事前に話していたらしく、「他の部員全員に自分の口から説明する」と言った。数ヶ月かけて反対する部員たちを一人ずつ説得し、最後に頭を下げて、王子は部活を去っていった。
李子は、それが許せなかったのだ。
「戻ってくる」と言って休部したくせに裏切ったこと。桜花があれほど気にかけてやったのに、それを捨てて逃げ出したことが。
高校に進学し、新しく夏純が入ってきた。
私たちの意識から王子の存在は次第に薄れ、圧倒的なセンスと才能の塊である夏純の入部を歓迎した。そしてそのまま、私たちは卒業を迎えた。
……実は、夏純と王子には一度だけ面会があった。
王子が退部反対派を説得して回っていた頃、休部中でありながら雑用をしに顔を出していた時期があった。
一方、推薦で合格した夏純は、すぐに私たちの部活へ稽古を頼みにやってきたのだ。
その日、部室にいたのは紫陽と南野、そして王子だけだった。奇数での練習を避けるため、王子も久々に竹刀を握った。
だが……久しぶりの練習だった王子は、退部への背中を強く押されるかのように、夏純に惨敗した。
夏純は、目の前にいる弱々しい先輩が部活を辞めるために来ていることなど知る由もない。手を出さずに本気でぶつかることこそがスポーツマンシップだった。
あの日以来、王子はまるで何かに追われるように反対を押し切り、部活を去っていったのだ。
あの時、李子たちは吐き捨てるように言っていた。
「王子は負けたんだよ。……自分にも、な」
——あれから月日が流れた。
私と桜花は高校卒業後に民兵として入隊し、大学へ進んだ李子も数ヶ月で退学して隊へ合流した。後輩たちも次々と入隊してきた。
夏純が入隊して一ヶ月が経った頃、隊の戦力補給のため、戦闘補佐隊から一人の士官が臨時派遣されるという話が舞い込んできた。
「中尉」という階級を聞き、相当な猛者だと期待を膨らませていた私たちの前に、世田大佐に連れられて現れたのは——あの王子だった。
昔より少しだけガッチリとした体躯。泣き虫だったあの頃とは別人のように、キリッと引き締まった凛々しい顔つき。
静かに響く自己紹介の声は、「私はもう、昔の泣き虫だった王子ではない」と告げているようだった。
目は昔のまみなのに、纏う雰囲気がまったくの別人だった。
南野でさえ王子の進路を知らず、「別の高校へ進学したのだろう」と思っていた王子が、あろうことか「士官学校」へ行っていたという事実。それは、私たちが知っていた過去の王子が、もうどこにも存在しないことを突きつけていた。
しかも、あの「立川士官学校」出身。
全国から精鋭を集めたエリート集団であり、神力使い全員の憧れの聖地。
だが……あの場所は襲撃され、特に卒業間際の三年生は、実力のない下級生を守るために前線へ立ち、多くが帰らぬ人となった。
「基地は安全」という神話が崩壊した軍では民兵の辞職が相次ぎ、深刻な人手不足に陥った場所だ。
王子は、あの立川の「三年生の生き残り」だったのだ。
見た目では分からないが、あの立川に合格し、生き残るだけの凄まじい神力を持ち合わせていたということになる。
あの晩、桜花は大佐から見せてもらった王子の軍歴に興奮していた。だが、李子だけは下を向いたまま、冷たく吐き捨てた。
「……神力があるだけで、運良く生き残っただけかもしれないでしょ。……飛んでもらわないと、分からないわ」
——だが、その疑念はすぐに打ち砕かれた。
対人訓練で見せたこともない凄絶な技術を使い、桜花をあっけなく撃ち落とした王子は、やはり私たちの知らない「怪物」だった。
赤くなった顔でどこか体調がなさそうにしながらも、思うように動けない自分に悔しそうに歯噛みする姿。
何においても、王子に勝てる隊員はいなかった。追いつくことすらできなかった。
桜花や紫陽、夏純が「すごい」と目を輝かせる中、李子はその話題から露骨に目を背け、南野は苦笑いでうまく受け流していた。
私たちがヘトヘトになる猛訓練の後、王子はよく一人で空へ飛び立っていく。
何か嫌な記憶を振り払おうとしているのか、ただひたすらに、孤独に空を舞うのだ。
私と桜花は月に一度、軽い神力の副作用が出る程度で済むが……王子の副作用は見ていて恐ろしいほど重酷だった。
一日目、食事にも顔を出さず、生きているのかすら分からない状態。部屋を訪ねた時、呼吸をすることすら苦しそうだった。
「きく……な……せんぱ……い……っ」
息を荒らげ、目の焦点も合わず、全身から溢れ出る異常な汗。名前を呼ぶのが精一杯のその姿に、私たちは嫌でも王子の抱える「神力の圧倒的な質量」を思い知らされた。
二日目はほぼ昏睡状態で横たわり、「ほっておいてくれ」という本人の言葉通りにするしかなかった。
三日目、ようやく意識は戻ったものの、頻繁に胃液を吐いていた。
そして四日目——何事もなかったかのように平然と起きてくるあの子を見て、私たちは神力というものの本当の恐ろしさを知ったのだ。
あの子は、私たちの知らない地獄で生きている。それを痛感させられる。
あの日、王子が辞めなければ訪れていたはずの「明光隊」というチーム。
運命の悪戯か、今こうしてほぼ同じメンバーで再現されているというのに……どこかであの子と私たちが、決して交わらない異次元にいるような感覚に陥る。
一度離れてしまった人は、もう元には戻らないのだろうか。
あの頃の人懐っこかったあの子は、もうどこにもいない。
ご飯を食べ終えると、さっさと食堂を後にし、自室へ引きこもってしまう。
気になって部屋を訪ねると、いつも膨大な報告書と記録と向き合っていた。戦闘補佐隊は記録業務が多いと聞く。きっとそれだろう。
「菊名先輩、どうしましたか?」
ノックして部屋に入ると、あの子は素早く手を止め、こちらを振り返る。
その瞬間にだけ、ほんの一瞬だけ、昔のあの子に戻ったような気がするのだ。
けれど……そんな温かい空気はすぐに消え去り、壁が立ちはだかる。
結局、私はあの子の伸ばしかけた手を、強く引き戻してあげることすらできないままだった。




