シーン2 あの日の夕方——「ほんの少し」の寄り道
(登場人物)
青井由太(19)
江戸から京都へ流れ着き、静に拾われた青年。働くことは嫌いだが、料理・洗濯・掃除は得意。年上女性に可愛がられる才能と、本人に自覚のない情報収集能力を持つ。
神無月静(26)
由太の「飼い主」。表向きは花街で生きる女性だが、裏では倒幕派に関係する女間者。剣の腕も立つ。
男・桂小五郎(31)
長州藩士。京で活動する尊王攘夷派の中心人物の一人。
池田屋事件のあった、その夕方。
由太は、いつも通り「ヒモ男児の仕事」に精を出していた。
すなわち、買い出しと、噂話の仕入れと、ちょっとした寄り道である。
■ 寄り道その1:犬から救った男
鴨川沿いの小道を歩いていると、
一匹の犬が、どこかの男の袂にしがみついて吠えていた。
犬:
「ワンッ! ワンワンッ!」
男:
「こ、こら、離れろっ。私は急いでいるのだ!」
由太:
「あっ、待った!」
由太はとっさに飛び出し、犬の首根っこに手を伸ばした。
由太:
「はいはい、だめだよ。そんなに噛みついちゃ」
手慣れた様子で犬を抱き上げると、犬はぴたりと静かになった。
男は裾を払いつつ、肩で息をしている。
痩せぎすで、どこか神経質そうな顔。けれど、衣の質は良い。
男:
「助かった……。あのままでは、袴が犬まみれになっていた」
由太:
「すみません、この子、たぶん誰かが放したんだと思うんです。
どこか噛まれてません?」
男:
「いや……怪我はない。だが時間を食ってしまったな」
男はふと、由太の顔を見た。
男:
「どこかで見た顔だな。……芸者の出入りしている置屋の?」
由太:
「え? ああ、静さんのところの部屋子です。青井由太」
男:
「静……神無月か?」
由太:
「そうです。知り合い?」
男:
「いや……まぁ、少しな」
男は言葉を濁しながら、道の先を見やった。
男:
「急ぎの用がある。助かった、少年」
由太:
「あ、ちょっと待って!」
男:
「まだ何か?」
由太:
「犬に追いかけられた後って、足が震えて転びやすいんですよ。
ちょっとそこで、深呼吸してから行った方がいいです」
男:
「……そんなものか」
由太:
「そういうものなんです。
俺、昔から追いかけられる側だったんで」
男は思わず吹き出した。
男:
「追う側ではなく?」
由太:
「追うほど足も根性もないんで」
男:
「正直な奴だ」
男は、ほんのしばし、川べりの石に腰を下ろした。
そして数息、深く呼吸を整える。
その「ほんのしばし」の間に——
夕陽は、わずかに傾いた。
■ 寄り道その2:鼻緒が切れた客
その男と別れた後、由太は豆腐屋の娘に呼び止められた。
娘:
「由太くん! 静さんのところに冷奴持ってってって、お母さんが!」
由太:
「今から? うち、豆腐買うなんて言ってたっけ?」
娘:
「“暑い日は冷たいのがいい”って。あんた、また静さんに
“あったかい汁物ばっかり作ってる”でしょ?」
由太:
「ばれてる……」
渋々、豆腐屋に寄ると、店先で鼻緒の切れた男が立ち尽くしていた。
男:
「……困ったな。今切れるか」
由太:
「あれ、さっきの人?」
犬に吠えられていた男だった。
履物屋に行こうとして、途中で豆腐屋の前で完全に千切れてしまったらしい。
由太:
「わ、歩けます? そのままだと危ないですよ」
男:
「歩けぬことはないが、どうしても走れん」
娘:
「お父さーん、鼻緒直せる?」
豆腐屋の親父が顔を出す。
親父:
「おお、桂先生じゃねえか。こんなとこで何してはりますのや」
由太:
「……桂先生?」
桂:
「声が大きい。頼むから“先生”呼ばわりは控えてくれ」
親父:
「へぇへぇ、こりゃ失礼。
ほな、うちでちょいと直しましょ。由太、手ぇ貸してやり」
由太:
「はーい」
半ば強引に店内へ連れ込まれ、桂の下駄は修理されることになった。
鼻緒の具合を確かめたりなんだかんだしているうちに、
時間は、また静かに過ぎていく。
桂:
「……すまないな。急いでいるのだが」
由太:
「急ぎの時こそ足元大事ですよ。
途中でまた切れたら、もっと遅れるでしょ?」
桂:
「理屈はそうだが……」
由太:
「それに、豆腐屋の冷奴、うまいですよ。
一口食べて行ったらどうです? 冷たくて頭が冴えますよ」
桂:
「私は今でも充分に冴えているつもりなのだが」
そう言いながらも、桂は小さくため息をつき、
出された冷奴を一口だけ口に運んだ。
桂:
「……うまい」
由太:
「でしょ。
身体が“今日はあんま無茶すんな”って言ってるのかもしれないですよ?」
桂は、箸を止めて、由太を見た。
桂:
「そこもと」
由太:
「はい?」
桂:
「君は、何も知らずにものを言う。
だがその無邪気さが——人を動かすことがあるぞ」
由太:
「え、なんか褒められてる?」
桂:
「さあな」
鼻緒が直り、桂は礼を言って店を出た。
空はもう、すっかり夕闇に染まり始めていた。
■ 寄り道その3:道を塞ぐ、味噌汁
豆腐屋を出た由太は、静の好物になりつつある味噌を買うため、
通い慣れた味噌屋に向かって走った。
由太:
「今日はちょっと奮発しよ。だし用の昆布も欲しいし……」
味噌屋の前で、桶が一つ、店先から転がり出た。
慌てて避けた由太は、右へそれる——そのタイミングで、
反対側から来た桂と、危うくぶつかりそうになる。
由太:
「わっ!」
桂:
「っと」
二人はギリギリですれ違った。
そこで一瞬、桂が足を止めた。
桂:
「……さっきの」
由太:
「あ、桂先生。また会いましたね。さっきはどうも」
桂:
「君こそ。危ないところだったな」
味噌屋の店先では、店員がこぼれた味噌汁を慌てて拭いている。
店員:
「すんまへん、すんまへん! 道、汚してしもて!」
桂:
「いや……こちらこそ、不注意だった」
足元の味噌で滑らないよう、桂は慎重に歩を進めた。
ほんの数歩、ほんの数秒の遠回り。
それでも、道は少しだけねじれる。
その先にあるはずの池田屋へ向かう道は——
わずかに、しかし確実に、桂を“遅刻”へと導いていった。




