表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷酷令嬢は、もう働かない。  作者: カワカン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/5

第4話 帰ってくる

前編  穏やかな朝 


 アルヴェイン公爵領の朝は、王都より少しだけゆっくり始まる。


 窓から差し込む柔らかな陽射しに目を覚ましたクラウディアは、しばらく天井を見つめたまま動かなかった。


 耳を澄ませても、誰かが扉を叩く音はしない。


 急ぎの書類を抱えた文官も来ない。


 予定を読み上げる侍女の声も聞こえない。


 静かだった。


 それだけのことが、どこか新鮮だった。


 やがて身支度を整え、部屋を出る。


 廊下では侍女たちが軽く頭を下げた。


「おはようございます、お嬢様。」


「おはようございます。」


 王宮では朝の挨拶を交わす余裕などほとんどなかった。


 皆が時間に追われ、次の仕事へ急ぐ。


 だが、この屋敷では違う。


 誰も急がない。


 穏やかな空気が流れていた。


 朝食を終えたあと、クラウディアは庭へ出た。


 初夏の風が花壇を揺らし、小鳥が枝から枝へ飛び移っていく。


 色とりどりの花が咲き誇る庭は、幼い頃によく遊んだ場所だった。


 ふと足を止め、一輪の白い花へ手を伸ばす。


 花びらに触れるのは、いつ以来だろう。


 思い出せない。


「そんなところにいたのか。」


 振り向くと、兄のレオンが歩いてきた。


 片手には書類の束を抱えている。


「兄上。」


「少し領内を回ってくる。」


 レオンは苦笑した。


「今年は麦の出来がいいらしい。」


「農民たちが張り切ってるそうだ。」


 クラウディアも小さく微笑む。


「それは良い知らせですね。」


「お前なら収穫量を計算し始めそうだな。」


 からかうような口調だった。


 クラウディアは少し考え込み、真面目な顔で答える。


「……少しだけ、気になります。」


 レオンは思わず吹き出した。


「ははっ、そこは変わらないな。」


 その笑い声につられ、クラウディアも小さく笑った。


 そんなふうに笑ったのは、いつ以来だっただろう。


 兄は手を振る。


「じゃあ行ってくる。」


「気を付けて。」


 馬の蹄の音が遠ざかっていく。


 庭には再び静けさが戻った。


 その頃、公爵アルヴェインは執務室で領地の報告書へ目を通していた。


 王都とは違い、公爵家の政務は領地の管理が中心だ。


 農地。


 街道。


 領民の暮らし。


 どれも重要ではあるが、王宮のように国中の案件が一度に押し寄せることはない。


 執事が静かに茶を置く。


「お嬢様は庭園に。」


「そうか。」


 アルヴェインは報告書から顔を上げ、窓の外へ目を向けた。


 庭を歩く娘の姿が見える。


 婚約が決まってから十数年。


 あの子は、ああして何も考えず庭を歩く時間すら持てなかった。


 胸の奥が少しだけ痛んだ。


 せめて今だけは。


 何も背負わせたくない。


 そんな思いを振り払うように、再び書類へ視線を戻す。


 一方、庭園ではクラウディアが東屋の椅子に腰掛けていた。


 木漏れ日がテーブルへ落ちる。


 侍女が淹れてくれた紅茶から、湯気がゆっくり立ち上っていた。


 仕事をしながら飲む冷めた茶ではない。


 香りを楽しむための紅茶だった。


 カップを手に取り、一口含む。


「……美味しい。」


 自然と漏れたその言葉に、侍女は嬉しそうに微笑んだ。


「お口に合いましたか。」


「ええ。」


「こんなふうに温かいうちにいただくのは、久しぶりです。」


 侍女は何も言わなかった。


 ただ静かに頭を下げる。


 クラウディアは庭を眺める。


 風が木々を揺らす。


 鳥がさえずる。


 遠くでは庭師が花壇の手入れをしていた。


 王都では聞こえなかった音ばかりだった。


 この時間が、ずっと続けばいい。


 そんなことを思った、そのときだった。


 慌ただしい足音が庭へ近づいてくる。


 執事だった。


 普段は決して走らない男が、息を整えながら一礼する。


「旦那様。」


 アルヴェインも執務室から姿を現す。


「どうした。」


 執事は一度だけクラウディアへ視線を向け、それから静かに告げた。


「王都より使者が参りました。」


 庭を吹き抜ける風が、不意に冷たく感じられた。



中編① 王命


 アルヴェイン公爵家の応接室には、静かな緊張が漂っていた。


 先ほどまで庭園を吹き抜けていた穏やかな風は、厚い扉の向こうへ置き去りにされたようだった。


 上座には公爵アルヴェイン。


 その隣にはクラウディア。


 少し離れて兄のレオンが座り、執事が静かに紅茶を運ぶ。


 やがて扉が開いた。


 王家の紋章を胸に刻んだ使者が入室する。


 年の頃は五十を越えた頃だろうか。


 落ち着いた身のこなしから、長年宮廷に仕えてきたことがうかがえる。


 使者は深く一礼した。


「突然のご訪問、失礼いたします。」


「王都より参りました、宮廷書記官のローレンスと申します。」


 アルヴェインも静かにうなずく。


「遠路ご苦労であった。」


 形式どおりの挨拶が終わる。


 短い沈黙のあと、使者は胸元から一通の封書を取り出した。


 赤い封蝋には王家の紋章が刻まれている。


「国王陛下ならびに王太子殿下より、お預かりした書状でございます。」


 執事が受け取り、公爵の前へ置く。


 アルヴェインは封を切り、ゆっくりと目を通した。


 読み終えたあと、書状を静かに机へ置く。


「……読み上げていただこう。」


「かしこまりました。」


 使者は一礼し、書状を開いた。


「アルヴェイン公爵へ。」


「先日の件につきましては、王家としても誠に遺憾に存じます。」


「しかしながら、本書状は婚約の件についてではございません。」


 応接室は静まり返っていた。


 使者の声だけが響く。


「クラウディア嬢には、これまで長きにわたり王宮の政務を支えていただきました。」


「その働きは、王家のみならず、多くの官僚や諸侯も認めるところであります。」


 クラウディアは静かに聞いていた。


 表情は変わらない。


 だが、膝の上で組まれた指先がわずかに力を帯びる。


 使者は続ける。


「婚約は終了いたしました。」


「しかし、それは私的な関係についてのことでございます。」


「臣下としてのお立場まで失われたわけではありません。」


 兄のレオンが小さく眉をひそめた。


「つきましては。」


「これまでどおり王宮へお戻りいただき、政務へのご助力をお願い申し上げます。」


「現在、各部署の調整が滞り、王都の行政に大きな支障が生じております。」


「王国のため、そのお力をお貸しいただきたく存じます。」


 読み終えた使者は、書状を丁寧に閉じた。


 部屋には重い静寂が流れる。


 しばらくして、使者が穏やかな口調で付け加えた。


「王太子殿下も、このように仰せでした。」


 クラウディアは静かに視線を上げる。


「婚約は終わった。」


「だが、君は今も王国にとって必要な人材だ。」


「どうか戻ってきてほしい。」


 その言葉に悪意は感じられなかった。


 むしろ、真摯な願いだった。


 使者もまた、その願いを届けるためにここまで来たのである。


 だからこそ、応接室の誰も彼を責めようとはしなかった。


 アルヴェインも、レオンも、黙ったまま娘の横顔を見つめている。


 クラウディアはゆっくりと息を吐いた。


 王都の様子は、ある程度想像がついていた。


 部署と部署を結び、互いの事情を調整する役目を担っていた自分が抜ければ、一時的に混乱することは避けられない。


 国のため。


 民のため。


 その言葉に偽りはない。


 それならば、自分がすべきことは一つなのだろう。


 クラウディアは姿勢を正し、静かに口を開いた。


「承知――」


「待て。」


 低く、しかし揺るぎない声が、その言葉を遮った。


 部屋の空気が一変する。


 クラウディアは驚いたように父を見る。


 アルヴェイン公爵は、娘ではなく使者を真っ直ぐ見据えていた。


 その眼差しには、公爵家当主としての厳しさが宿っていた。



 中編② 父の後悔


 応接室を満たしていた静寂を破ったのは、公爵アルヴェインだった。


「その返事は、私が聞いてからにしてもらおう。」


 穏やかな声だった。


 だが、その言葉には公爵家当主としての重みがあった。


 使者も異を唱えない。


「……承知いたしました。」


 アルヴェインはゆっくりとクラウディアへ向き直る。


 その目には、当主としてではなく、一人の父親としての迷いが宿っていた。


「クラウディア。」


「お前は、なぜ王太子との婚約を受け入れた。」


 突然の問いに、クラウディアは少し考え、それから静かに答えた。


「父上がお決めになったことでしたから。」


「私は、公爵家の娘として従いました。」


 迷いのない返事だった。


 幼い頃から、そう教えられてきた。


 家のため。


 国のため。


 それが貴族の務めなのだと。


 アルヴェインは静かに目を閉じる。


「そうだ。」


「私が決めた。」


 短い言葉だった。


 しかし、その一言には十数年という歳月の重さがあった。


「王家から婚約の話が届いたとき、断るという選択肢はなかった。」


 使者も黙って耳を傾けている。


「これは王太子の恋愛ではない。」


「王家と公爵家を結ぶ、国のための婚約だった。」


 クラウディアは何も言わない。


 父の言葉を静かに聞いている。


「お前が王妃となれば、公爵家と王家は血縁になる。」


「そうなれば、王宮の政務も今よりずっと支えやすくなる。」


 アルヴェインは窓の外へ目を向けた。


 庭では風が木々を揺らしている。


 つい先ほどまで娘が歩いていた場所だった。


「王宮でお前の仕事が増えていることは知っていた。」


「報告も受けていた。」


「財務だけではない。」


「各部署の調整役となり、毎日遅くまで働いていることも。」


 レオンが驚いたように父を見る。


「父上……ご存じだったのですか。」


「ああ。」


 アルヴェインは静かにうなずく。


「知っていた。」


「だからこそ、あと少しだと思っていた。」


 クラウディアが初めて小さく眉を動かす。


「あと少し……ですか。」


「婚姻さえ済めば、公爵家から文官を送り込める。」


「財務に強い者。」


「商務に詳しい者。」


「領地経営を経験した者。」


「お前一人が抱えている仕事を、公爵家で支えられる。」


 アルヴェインは苦く笑う。


「王家と血縁になれば、それができる。」


「だから私は思った。」


「もう少しだけ耐えてくれ、と。」


 応接室が静まり返る。


 クラウディアは何も言わない。


 責めることもない。


 ただ、父の言葉を受け止めていた。


 アルヴェインは拳を強く握る。


「私は、公爵として考えた。」


「どうすれば国が安定するか。」


「どうすれば王家と公爵家が力を合わせられるか。」


「どうすれば、お前の負担を将来減らせるか。」


 そのすべてを考えた。


 そして、自分は正しい判断をしたと信じていた。


 王国のため。


 家のため。


 娘の未来のため。


 そのつもりだった。


 長い沈黙が流れる。


 誰も言葉を挟まない。


 窓の外から聞こえる風の音だけが、静かに部屋を満たしていた。


 アルヴェインはゆっくりと顔を上げる。


 その目は、まっすぐ娘だけを見つめていた。


「私は、公爵としては正しいと思った。」


 その声は、どこまでも静かだった。


 そして、ほんのわずかに震えていた。


 もう一度、長い沈黙が流れる。


 父は息を整え、言葉を選ぶように口を開く。


「だが――」


 その一言だけで、クラウディアの肩が小さく震えた。


 アルヴェインは深く頭を下げる。


 公爵としてではない。


 一人の父親として。


「父としては、間違えた。」


 その言葉が部屋に落ちた瞬間、誰も声を発することができなかった。


 王命を届けに来た使者でさえ、静かに目を伏せる。


 レオンは拳を握り締めたまま唇を噛む。


 そしてクラウディアは、父の下げた頭を見つめながら、初めて自分の胸の奥に溜まり続けていた何かが、静かにほどけていくのを感じていた。


 責めたいと思ったことは、一度もなかった。


 ただ――。


 父は、自分を見ていてくれたのだ。


 間違った形だったとしても、未来のことを考え続けてくれていた。


 その事実だけで、十数年間閉じ込めていた感情が、ゆっくりとあふれ始めていた。


# 第4話 帰ってくるな 中編③ ――家族


 応接室には、しばらく誰も言葉を発しなかった。


 アルヴェインが下げた頭は、なおもそのままだった。


 クラウディアは立ち上がりかける。


「お父様、お顔をお上げください。」


 だが、父はすぐには動かなかった。


 代わりに口を開いたのは、兄のレオンだった。


「父上だけじゃない。」


 穏やかな声だった。


「悪かったのは、俺もだ。」


 クラウディアは兄を見る。


 レオンは照れ隠しのように頭をかき、小さく笑った。


「お前が王都で忙しいって話は聞いてた。」


「帰ってきても、いつも疲れた顔をしてた。」


「それでも俺は、『王宮って大変なんだな』くらいにしか思ってなかった。」


 苦笑が消える。


「違ったんだよな。」


「大変だったんじゃない。」


「お前一人に背負わせてたんだ。」


 クラウディアは首を横に振る。


「兄上、それは違います。」


「私が望んで――」


「望んでない。」


 レオンは優しく言い切った。


「お前は、『自分しかやる人がいない』と思っていただけだ。」


 図星だった。


 クラウディアは言葉を失う。


 誰かに頼るという選択肢が、いつの間にか自分の中から消えていた。


「俺も甘えてた。」


 レオンはゆっくりと言葉を続ける。


「王宮のことは、お前が何とかしてくれる。」


「公爵家の娘だから。」


「未来の王妃だから。」


「そんなふうに思ってた。」


 兄は静かに息を吐く。


「兄失格だな。」


 その一言に、クラウディアは思わず目を潤ませる。


「そんなことは……。」


「あるさ。」


 レオンは笑った。


「だから、これからは俺の仕事をする。」


 その言葉に、アルヴェインもゆっくり顔を上げる。


 レオンは父を見る。


「領地は俺が守ります。」


「今年の収穫も、街道も、領民のことも。」


「全部任せてください。」


 アルヴェインは静かにうなずいた。


「任せる。」


 短い言葉だった。


 だが、そこには親子の信頼があった。


 そしてアルヴェインは、今度は使者へ向き直る。


「王都へは私が行く。」


 使者は目を見開く。


「閣下ご自身が、ですか。」


「ああ。」


 アルヴェインは迷いなく答えた。


「王家へ事情を説明する。」


「娘ではなく、公爵としてな。」


 クラウディアが思わず立ち上がる。


「ですが、お父様。」


「王都では責任を問われるかもしれません。」


「婚約の件もございます。」


「政務が止まっている責任まで、公爵家へ向けられる可能性もあります。」


 アルヴェインは小さく笑った。


「だから私が行く。」


「私は公爵だ。」


 その声には揺るぎがなかった。


「嫌味の一つや二つ、受けて立とう。」


「責任を問われるなら、それも受けよう。」


「それが当主の仕事だ。」


 クラウディアは何か言おうとして、言葉が出てこない。


 いつもなら、自分が前へ出ていた。


 誰かが責められるくらいなら、自分が引き受ける。


 それが当たり前だった。


 その肩へ、ぽん、と軽く手が置かれる。


 レオンだった。


「お前さ。」


「はい。」


「腹芸、苦手だろ。」


 思いがけない一言だった。


 クラウディアはきょとんとする。


「……腹芸、ですか。」


「ああ。」


 レオンは肩をすくめる。


「考えてること、すぐ顔に出るし。」


「交渉してても、『それは違います』って正面から言うし。」


「遠回しに断るのも下手だし。」


 クラウディアは少し考え込む。


「その方が正確に伝わるかと。」


「ほら、そういうところ。」


 レオンが苦笑すると、アルヴェインも思わず笑みを浮かべた。


 張りつめていた空気が、少しだけ和らぐ。


 クラウディアも困ったように笑う。


「……努力は、しております。」


「知ってる。」


 レオンは笑いながら頷いた。


「でも、公爵ってのはな。」


「正しいことを言うだけじゃ務まらない。」


「相手の機嫌も取りながら、笑顔で嫌味を飲み込まなきゃいけない時もある。」


「それなら父上の方が向いてる。」


 アルヴェインは苦笑する。


「褒められているのか、貶されているのか分からんな。」


「もちろん褒めてます。」


 レオンは即答した。


「父上ほど笑顔で嫌味を聞き流せる人、見たことありません。」


 応接室に、小さな笑いが広がる。


 クラウディアも、声を立てて笑った。


 本当に久しぶりの、肩の力を抜いた笑顔だった。


 その笑顔を見た父と兄は、互いに目を合わせ、小さくうなずく。


 もう、この子を一人で戦わせることはしない。


 言葉にはしなかった。


 だが、その想いは家族三人の胸に、静かに同じ形で刻まれていた。


 後編 解放


 応接室には、静かな空気が流れていた。


 先ほどまで交わされていた家族の言葉も止み、聞こえるのは庭を渡る風の音だけだった。


 アルヴェイン公爵はゆっくりと立ち上がる。


 その動きに合わせるように、王都からの使者も姿勢を正した。


「お返事を、お聞かせ願えますでしょうか。」


 穏やかな問いだった。


 責める響きはない。


 ただ、王命を預かる者としての務めを果たそうとしているだけだった。


 アルヴェインは使者を真っ直ぐ見つめる。


「帰って伝えよ。」


 一言だけで、応接室の空気が張り詰める。


「娘は戻らん。」


 使者は息をのんだ。


「……閣下。」


「それが、お返事でしょうか。」


「ああ。」


 アルヴェインの声は落ち着いていた。


 怒りもない。


 感情をぶつける様子もない。


 ただ、一つの決意だけがあった。


「クラウディアは、もう王都へは戻さない。」


 使者はゆっくりと首を振る。


「しかし、公爵閣下。」


「現在、王都では政務が滞っております。」


「財務局も。」


「港湾局も。」


「外交も。」


「各部署が調整できず、多くの案件が止まっております。」


 一度言葉を切り、深く頭を下げた。


「王国には、クラウディア様が必要なのです。」


 その声には嘘がなかった。


 使者もまた、国を思っている。


 だからこそ、この屋敷まで来たのだ。


 アルヴェインは静かにうなずいた。


「そのことは理解している。」


「ならば――」


「だからこそだ。」


 父は静かに言葉を重ねる。


「一人の娘がおらねば止まる王国ならば、それは娘の責任ではない。」


 使者は言葉を失った。


「王国を立て直す責任は王家にある。」


「その責任を、この子一人に背負わせるわけにはいかん。」


 静かな声だった。


 しかし、その一言一言には、公爵として国を支えてきた男の重みがあった。


「責任を問うなら私を問え。」


「説明が必要なら私が王都へ赴こう。」


「嫌味も非難も受けよう。」


「だが、この子だけは戻さない。」


 その言葉に、クラウディアは父を見る。


 初めてだった。


 誰かが自分の代わりに矢面へ立とうとしている。


 使者は目を伏せ、静かに息を吐いた。


「……承知いたしました。」


「そのまま陛下と殿下へ、お伝えいたします。」


「頼む。」


 使者は深く一礼した。


 そして、もう一度だけクラウディアへ向き直る。


「クラウディア様。」


「王宮には、あなたへ感謝している者もおります。」


「どうか、そのことだけはお忘れになりませぬよう。」


 クラウディアは小さく頭を下げた。


「ありがとうございます。」


 使者は応接室を後にする。


 やがて玄関の扉が閉まり、馬車の音が遠ざかっていった。


 その音が完全に聞こえなくなるまで、誰も口を開かなかった。


 静寂を破ったのは、アルヴェインだった。


「クラウディア。」


「はい。」


「しばらく国外の別荘へ行きなさい。」


 思いがけない言葉だった。


 クラウディアは目を丸くする。


「国外……ですか。」


「ああ。」


「王都から一番遠い場所だ。」


「湖も森もある。」


「空気もいい。」


 少しだけ笑みを浮かべる。


「誰も、お前を仕事で呼びには来られん。」


 クラウディアは戸惑う。


「ですが……。」


「私は公爵家の人間です。」


「領地の仕事もございます。」


「それに王都も――」


 言い終える前に、兄のレオンが笑って肩をすくめた。


「領地は俺が守る。」


 その一言には迷いがなかった。


「今年の収穫も。」


「街道も。」


「領民のことも。」


「全部任せろ。」


 クラウディアは兄を見る。


「兄上……。」


「今まで、お前に甘えすぎた。」


「これくらいは兄の仕事だ。」


 アルヴェインも続ける。


「王都は私が行く。」


「必要なら陛下にも会おう。」


「重臣たちとも話そう。」


「公爵として、やるべきことは私がやる。」


 クラウディアは唇を噛んだ。


「ですが……。」


「私が行けば。」


「私なら。」


 その言葉を、父はゆっくり首を振って止めた。


「もう、その言葉は聞き飽きた。」


 クラウディアは息をのむ。


 アルヴェインは娘の前まで歩み寄る。


 幼い頃、転んで泣いていた娘の頭を撫でたように。


 そっと肩へ手を置いた。


「お前は。」


 少しだけ間があく。


 父は静かに微笑んだ。


「休め。」


 たった二文字だった。


 それだけだった。


 けれど、その一言は十数年という歳月を包み込むには十分だった。


 クラウディアは何か言おうとした。


 「ですが」と。


 「私には仕事が」と。


 いつものように答えようとした。


 しかし、声にならない。


 喉の奥が詰まり、唇だけが震えた。


 婚約を命じられた日も。


 王宮で夜明けまで書類を書き続けた夜も。


 婚約を破棄された、あの日も。


 泣かなかった。


 泣いてはいけないと思っていた。


 自分が泣けば、誰かが困る。


 そう信じていた。


 だから、泣かなかった。


 けれど今は違う。


 一筋の涙が頬を伝う。


 それが始まりだった。


 止めようとしても止まらない。


 次から次へと涙があふれ、視界が滲んでいく。


 アルヴェインは何も言わなかった。


 レオンも何も言わない。


 二人はただ、娘の涙が止まるのを静かに待っていた。


 窓の外では、春の風が庭の木々を優しく揺らしている。


 王都では今も、多くの者が慌ただしく走り回っているのだろう。


 それでも、この屋敷だけは穏やかな時間が流れていた。


 クラウディアはその日初めて、自分には帰る場所があり、守ってくれる家族がいるのだと知った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ