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冷酷令嬢は、もう働かない。  作者: カワカン


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第3話 止まった王都 

前編   いつもの朝


 婚約破棄の翌朝。


 王宮は、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。


 中庭では近衛騎士たちが剣を交え、侍女たちは忙しそうに廊下を行き交う。


 鐘の音が一日の始まりを告げ、政務官たちは抱えきれないほどの書類を手に、それぞれの持ち場へ急いでいた。


 誰もが口にする。


「いつもどおりだ。」


 昨日、王太子の婚約が破棄されたという大事件があったにもかかわらず、王宮は何事もなかったかのように動き始めていた。


 王太子執務室。


 レオナルドは机に着くと、いつものように茶を一口飲み、側近のアーノルドへ視線を向けた。


「今日の予定を。」


「はい。」


 アーノルドは手帳を開く。


「午前は財務局との予算確認。その後、港湾整備計画の最終決裁。午後は東部諸侯から届いた外交文書への返書確認、続いて商会代表との契約更新会議となっております。」


「ずいぶん多いな。」


 レオナルドは苦笑した。


「昨日は卒業式だったから、その分が積み上がっているのだろう。」


「そのようです。」


 アーノルドも頷く。


 どれも急ぎの案件ではあるが、一つずつ片づければ問題はない。


 いつもの仕事だ。


 そう思っていた。


 そのとき、財務局の役人が慌ただしく入室する。


「失礼いたします。」


「どうした。」


「予算案が提出できません。」


 レオナルドは眉をひそめた。


「何か不備でもあったのか。」


「いえ……決裁が下りておりません。」


「ならば担当者へ回せばいい。」


 役人は困ったように視線を落とす。


「担当者がおりません。」


「どういうことだ。」


「最終確認は、これまでクラウディア様が担当されておりました。」


 部屋が静かになる。


 レオナルドはすぐに言った。


「代わりの者を立てよう。」


「承知いたしました。」


 役人は一礼して退出する。


「一件だ。」


 レオナルドはそう言って気持ちを切り替えた。


「次へ。」


 しかし次に入ってきたのは、港湾局の責任者だった。


「殿下。」


「東港の増築工事ですが、資材価格が急騰しております。」


「代替案は。」


「三案ございます。」


「ならば、その中から選べばよい。」


 責任者は苦い顔をした。


「選定基準がございません。」


「……何?」


「これまではクラウディア様が市場価格と税収予測を照らし合わせ、最適案を選定されておりました。」


 レオナルドは言葉を失う。


「それほどのことを、一人で?」


「はい。」


 責任者は当然のように答えた。


「毎月の業務でございます。」


 退出する背中を見送りながら、レオナルドは腕を組む。


「偶然が重なっただけだ。」


 そう自分に言い聞かせる。


 だが、その考えは長く続かなかった。


 今度は外交局の文官が駆け込んでくる。


「東部諸侯への返書が作成できません。」


「文面を整えれば済む話ではないのか。」


「どの表現を用いるか判断できる者がおりません。」


「前任者は。」


「クラウディア様です。」


 商務局。


 法務局。


 王立銀行。


 午前だけで、次々と人が執務室を訪れた。


「契約書の最終確認が止まっております。」


「税制改正案の承認が保留です。」


「各領地への通達文が発送できません。」


「担当者は。」


 レオナルドは半ば反射的に問いかける。


 返ってくる答えは、すべて同じだった。


「クラウディア様でございます。」


 昼が近づく頃には、執務室の机は未処理の書類で埋め尽くされていた。


 昨日まで見たことのない光景だった。


 レオナルドは一枚の決裁書を手に取り、静かに呟く。


「……彼女は、いったい何をしていたんだ。」


 その問いに答えられる者は、誰もいなかった。


 ただ一つ確かなのは、誰もが「クラウディアが処理してくれる」と信じて仕事を進めていたという事実だけだった。


 王宮の歯車は、まだ動いている。


 だが、その中心にあった一本の軸が失われたことに、ようやく人々は気づき始めていた。



 中編①  止まる


 昼の鐘が鳴る頃には、王太子執務室の前に長い列ができていた。


 財務局。


 港湾局。


 法務局。


 外交局。


 商務局。


 それぞれの責任者が分厚い書類を抱え、順番を待っている。


 昨日まで見られなかった光景だった。


「次を。」


 レオナルドの声に応じ、財務局長が一歩前へ出る。


「殿下。来季予算案でございます。」


 書類を受け取ったレオナルドは、眉をひそめた。


「数字が二種類あるが、どちらが正しい。」


「……判断できません。」


「なぜだ。」


「例年であれば、クラウディア様が税収予測と照らし合わせ、最終案を作成しておられました。」


 レオナルドは資料を閉じた。


「では、その計算を行える者は。」


 財務局長は静かに首を横へ振る。


「おりません。」


 短い返答だった。


 次に呼ばれたのは港湾局の責任者だった。


「東港増築工事の件です。」


「資材価格が急騰しております。」


「工期を優先するか、予算を優先するか、ご判断を。」


「これまでの前例は。」


「ございません。」


「クラウディア様は、その都度、市場価格と商会との契約内容を照合し、判断されておりました。」


 また同じ名前だった。


 レオナルドは黙って書類を机へ置く。


 続いて外交局。


「東部諸侯より返書が届いております。」


「返答は。」


「文面は完成しております。」


「ならば送ればよい。」


 文官は困ったように目を伏せた。


「最後の一文を決められる者がおりません。」


「最後の一文?」


「はい。」


「相手国との力関係、過去の交渉記録、現在の交易状況、それらを踏まえた表現は、これまでクラウディア様がお決めになっておりました。」


 法務局。


 商務局。


 治水局。


 午後になっても報告は終わらない。


「河川工事の優先順位が決められません。」


「新税制の施行日が確定できません。」


「商会との契約更新が保留になっております。」


「港の入港許可証も発行できません。」


 執務室の机は、未決裁の書類で山のようになっていく。


 誰も怠けているわけではない。


 誰も仕事を放棄しているわけでもない。


 判断する者がいない。


 それだけだった。


 レオナルドは椅子から立ち上がる。


「なぜ、こんなことになっている。」


 その問いに答えられる者はいない。


 静かな沈黙だけが部屋を包む。


「一人抜けただけではないか。」


 思わず口をついて出た言葉だった。


「役所には優秀な者が大勢いる。」


「仕事は分担されていたはずだ。」


 誰も顔を上げない。


 その沈黙が、何よりの答えだった。


 やがてレオナルドは、周囲をゆっくり見回す。


「代理はいないのか。」


 誰か一人でもいればいい。


 財務だけでも。


 外交だけでも。


 港湾だけでも。


 誰かが「私が引き継ぎます」と名乗り出るはずだった。


 しかし、誰も動かない。


 長い沈黙が流れる。


 時計の針が進む音だけが、執務室に響いた。


 やがて、財務局長が重い口を開く。


「……いません。」


 その一言で、空気が変わった。


 レオナルドは信じられないというように目を見開く。


「どういう意味だ。」


 答えたのは、今度は外交局長だった。


「クラウディア様は、財務だけをご担当ではありませんでした。」


 港湾局長が続ける。


「港の整備計画も。」


 法務局長が口を開く。


「契約書の最終確認も。」


 治水局長が俯いたまま言う。


「河川工事の優先順位も。」


 商務局長が苦い表情で締めくくる。


「すべて、クラウディア様ご自身が最終判断をなさっておりました。」


 レオナルドは言葉を失う。


 昨日まで、それは当たり前だった。


 誰も疑問に思わなかった。


 だからこそ、代わりを育てる者もいなかった。


 執務室の窓から見える王都は、今日も人々で賑わっている。


 市場には笑い声が響き、荷馬車は行き交い、鐘はいつもどおりの時を刻んでいた。


 だが、その見えない場所で。


 王都を支える歯車は、一つ、また一つと静かに止まり始めていた。


 中編②  全部あの人だった


「このまま待っていても何も変わらない。」


 王太子レオナルドは立ち上がった。


 執務机には未処理の書類が積み重なり、部屋の外には報告を待つ役人たちの列ができている。


 朝から同じ名前ばかり聞いていた。


 クラウディア。


 本当に一人の人間が、それほど多くの仕事に関わっていたというのか。


「各部署を見て回る。」


 側近のアーノルドを伴い、レオナルドは執務室を後にした。


 最初に訪れたのは財務局だった。


 机の上には帳簿が山のように積まれ、役人たちは数字を前に腕を組んでいる。


 いつもの活気はない。


 誰もが手を止めていた。


「何が問題だ。」


 財務局長は一礼し、帳簿を広げる。


「今年の予算はまとまりました。」


「ですが、このままでは港湾整備と治水工事の両立ができません。」


「どちらを優先すべきか判断がつかないのです。」


 レオナルドは首をかしげた。


「話し合えば済むことではないのか。」


 局長は静かに首を振る。


「毎年、その調整をなさっていたのがクラウディア様でした。」


「財務だけでは判断できません。」


「港湾局や治水局の事情も踏まえたうえで、最終案をまとめてくださっていたのです。」


 レオナルドは何も言わず、次の部署へ向かった。


 港湾局。


 壁一面に港の設計図が貼られている。


 責任者は困った表情で地図を見つめていた。


「工事は進められないのか。」


「進められません。」


「予算の問題か。」


「それだけではございません。」


 責任者は港の模型を指さした。


「工事を始めれば、商船の入港数が一時的に減ります。」


「その間の交易をどう維持するか、商務局との調整が必要です。」


「これまでは。」


「クラウディア様が双方の話をまとめてくださいました。」


「商会とも交渉し、損失が出ないよう日程まで調整してくださっていたのです。」


 また、その名だった。


 商務局でも同じだった。


 商人たちが応接室で待っている。


「契約書は完成しております。」


 局員はそう言って、一冊の契約書を差し出した。


「では締結すればいい。」


「契約内容に問題はありません。」


「しかし、この条件では港湾局が困ります。」


「港湾局へ譲れば、今度は財務局の予算が崩れます。」


「それで。」


 局員は苦笑した。


「毎年、クラウディア様が各部署を回り、全員が納得できる条件を整えてくださいました。」


「私どもは、その結果を受け取って契約を結ぶだけだったのです。」


 外交局も同じだった。


 返書そのものは完成している。


 だが送れない。


「理由は。」


「南方との交易条約です。」


 外交局長は地図を広げた。


「この表現なら相手国は納得します。」


「しかし商務局は反対しております。」


「税率が上がるからか。」


「はい。」


「財務局も税収への影響を懸念しております。」


 局長は静かに続けた。


「そこで各部署の意見を聞き、折衷案をまとめてくださるのがクラウディア様でした。」


 レオナルドはゆっくりと息を吐く。


 どの部署へ行っても同じだった。


 誰も仕事をしていないわけではない。


 財務は財務の仕事をしている。


 港湾は港湾の仕事をしている。


 外交も商務も、それぞれ最善を尽くしていた。


 だが、それぞれが自分たちの立場で正しいからこそ、話がまとまらない。


 その間に立ち、全員の意見を聞き、優先順位を決め、互いに譲れる条件を探し、王太子の前へ一つの案として持ってくる者がいなくなっていた。


 王宮へ戻る廊下で、レオナルドは立ち止まる。


「……全部なのか。」


 静かな問いだった。


 アーノルドは一拍置いてから答える。


「はい。」


「財務と港湾。」


「商務と外交。」


「治水と各領地。」


「各部署の調整は、すべてクラウディア様が引き受けておられました。」


 レオナルドは思わず振り返る。


「そんな役目を、一人で?」


「誰かが命じたわけではありません。」


 アーノルドは静かに目を伏せる。


「気づけば皆が頼るようになり、それが当たり前になっていたのです。」


 昨日まで、それを疑う者はいなかった。


 誰もが書類を渡せば、明日には話がまとまっていると信じていた。


 誰も、その裏側を見ようとはしなかった。


 レオナルドの脳裏に、卒業式の日の光景が浮かぶ。


 書類を抱えたまま立っていた婚約者。


 自分は笑って言った。


「今日は休め。」


 彼女は答えた。


「今日中に終わらせます。」


 あの言葉は、真面目だからではなかった。


 彼女が終わらせなければ、誰も次へ進めなかったのだ。


 その事実だけが、今になって静かに胸へ突き刺さっていた。


後編   呼び戻そう


 夕暮れの光が、王太子執務室の窓から差し込んでいた。


 一日中積み上がった書類は、朝よりもさらに高く積まれている。


 処理された書類より、保留になった書類の方が多い。


 王宮が、こんな一日を迎えたことは今までなかった。


 レオナルドは椅子にもたれ、ゆっくりと目を閉じる。


 頭の中では、今日一日で聞いた言葉が何度も繰り返されていた。


 ――クラウディア様が。


 ――クラウディア様なら。


 ――クラウディア様がお決めになっていました。


 それは一つの部署だけではない。


 財務。


 港湾。


 商務。


 外交。


 法務。


 治水。


 すべてが、彼女という一人の人間を中心に動いていた。


「……理解した。」


 静かな声だった。


 部屋にいた重臣たちが顔を上げる。


「確かに、彼女がいなければ政務は滞る。」


 誰も反論しない。


 今日、その事実を全員が見せつけられた。


 レオナルドは続ける。


「だが。」


 その一言で空気が少し和らぐ。


「婚約は終わった。」


「それと政務は別の話だ。」


 重臣たちは互いに顔を見合わせる。


「クラウディアは王妃候補ではなくなった。」


「しかし、公爵家の令嬢である前に、この国の臣下でもある。」


 その言葉に、一人の老臣がゆっくりとうなずいた。


「おっしゃる通りかと。」


「婚約と職務は別でございます。」


 別の大臣も続く。


「公爵家より通っていただければ、政務は再開できます。」


「必要であれば、専用の馬車を毎日用意いたしましょう。」


「王宮の執務室も、そのまま残しております。」


 次々と案が出される。


 誰も悪意はなかった。


 むしろ、この国を立て直そうという真剣な議論だった。


 レオナルドは静かにうなずく。


「そうだ。」


「彼女に戻ってきてもらえばいい。」


 それだけのことではないか。


 婚約は終わった。


 ならば仕事だけ続けてもらえばいい。


 誰もが、その考えに納得していた。


 アーノルドだけが、わずかに視線を伏せる。


「殿下。」


「どうした。」


「……いえ。」


 口を開きかけたものの、言葉は続かなかった。


 昨日、公爵家へ帰るクラウディアを見送った。


 あの疲れ切った横顔を思い出す。


 だが、それを口にすることはできなかった。


 王宮は止まりかけている。


 それもまた事実だったからだ。


 レオナルドは立ち上がる。


「使者を出そう。」


 その声には迷いがなかった。


「公爵アルヴェインへ書状を書く。」


「婚約の件とは切り離し、政務への復帰をお願いしたい。」


 老臣たちもうなずく。


「それが最善かと。」


「国のためにも必要です。」


「早い方がよろしいでしょう。」


 決定は早かった。


 すぐに書記官が呼ばれ、王太子名義の書状がしたためられる。


 文面は丁寧だった。


 婚約について責める言葉は一つもない。


 ただ、


 王国のため。


 民のため。


 その力を貸してほしい。


 そう綴られていた。


 封蝋が押される。


 王家の紋章が刻まれたその書状を、近衛騎士が大切そうに受け取った。


「急ぎ、公爵領へ。」


「はっ。」


 騎士は深く一礼する。


 王宮の門が開いた。


 一台の馬車がゆっくりと走り出す。


 夕日に照らされた白い車体には、王家の紋章が刻まれていた。


 城門を抜ける。


 石畳を離れ、街道へ出る。


 馬は速度を上げ、西へ向かって駆け始めた。


 その行き先は一つ。


 アルヴェイン公爵家。


 ようやく「お嬢様」と呼ばれ、静かな眠りを取り戻した一人の令嬢のもとへ。


 王都からの使者は、まだそのことを知らなかった。



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