第2話 婚約破棄
王立学院の卒業式は、王都でも屈指の華やかな催しだった。
大広間には幾つものシャンデリアが輝き、磨き上げられた大理石の床には、色鮮やかなドレスと礼装が映り込んでいる。
四年間を共に過ごした若き貴族たちは、それぞれの未来を語り合い、杯を掲げ、笑い声を響かせていた。
今日という日は別れの日であると同時に、新たな人生への門出でもある。
誰もが肩の力を抜き、この一日だけは政務や領地のことを忘れていた。
「卒業したら北部へ戻るんだ。」
「私は王都で官職に就く予定よ。」
「しばらく会えなくなるな。」
あちらこちらで交わされる会話には、期待と希望が満ちていた。
その賑わいから少し離れた窓際だけが、不思議なほど静かだった。
「東港の倉庫増設計画ですが、木材価格が上昇しております。当初の予算では不足するかと。」
そう報告する秘書官リディアへ、クラウディアは一枚の資料を受け取りながら頷いた。
「予備費では足りませんか。」
「二か月後までは対応できます。しかし、それ以降は……。」
「ならば港湾税の改定を前倒しにしましょう。商会への通知も今日中に。」
リディアは思わず苦笑する。
「クラウディア様。本日は卒業式でございます。」
「ええ。」
「皆様、お祝いのお話をされております。」
「存じています。」
「……少しだけ、お休みになってはいかがでしょう。」
クラウディアは手元の資料から顔を上げた。
銀色の髪が照明を受けて淡く輝く。
整った美貌は誰もが認めるものだったが、その青い瞳には感情の揺らぎがほとんど見えない。
「今日で学院を卒業すれば、それぞれが領地や役所へ戻ります。」
静かな声だった。
「今この場で確認できることは、今日済ませるべきです。」
ただ、それだけを言う。
仕事を優先する理由を、彼女は当然のように口にした。
近くを通りかかった若い伯爵令息が、その様子を見て肩をすくめる。
「また仕事か。」
「卒業式だぞ。」
「本当に休まない人だな。」
令嬢たちも小さく笑う。
「さすが冷酷令嬢ね。」
「婚約者が可哀想。」
「少しくらい笑えばいいのに。」
囁き声は小さい。
それでもクラウディアには聞こえていた。
しかし彼女は何も答えない。
昔は気になった。
いつからか、聞き流すことを覚えた。
感情を説明する時間があるなら、一枚でも多く書類を片付けた方が国のためになる。
そう考えるようになって久しかった。
「クラウディア。」
穏やかな声が聞こえた。
振り向くと、王太子レオナルドが歩み寄ってくる。
その隣には、純白のドレスに身を包んだ聖女セシリア。
二人は自然に肩を並べ、同じ歩幅で歩いていた。
その姿を見つけた貴族たちは、どこか微笑ましそうに視線を送る。
「殿下。」
クラウディアは一礼した。
「今日は卒業式だ。少しは楽しめているか。」
「問題ございません。」
「それは楽しんでいるようには聞こえないな。」
レオナルドは苦笑する。
昔から、彼女はこうだった。
責任感が強く、何事にも妥協しない。
それが長所であり、短所でもある。
「書類は明日でもいいだろう。」
「明日には担当者が王都を離れます。」
「一日くらい遅れても困らない。」
「その一日が積み重なれば、一か月後には大きな遅れになります。」
即答だった。
迷いがない。
レオナルドは困ったように息を吐く。
「君は、本当に真面目だ。」
「当然の務めです。」
「もっと人を信じてもいい。」
その言葉に、クラウディアは少しだけ視線を上げた。
「信じております。」
「ならば、なぜ全て自分で確認する。」
「確認することも職務です。」
静かな返答だった。
「国は感情では動きません。制度と契約、そして責任によって動きます。」
あまりにも理路整然とした答えだった。
レオナルドは苦笑を浮かべるしかない。
「君らしい答えだ。」
隣で聞いていたセシリアが、小さく微笑んだ。
「クラウディア様は、本当に国を大切になさっているのですね。」
「当然です。」
その一言だけ返すと、クラウディアは再び書類へ視線を落とした。
会話は終わった。
それ以上続けようとはしない。
レオナルドは何か言いたげだったが、やがて諦めたように笑う。
「行こう、セシリア。」
「はい。」
二人は談笑しながら人混みへ戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、若い貴族たちは囁き合った。
「やっぱり聖女様の方が殿下にはお似合いだ。」
「一緒にいるだけで空気が明るくなるもの。」
「クラウディア様は優秀だけど、王妃というより宰相向きだよな。」
その言葉に、誰も反論しなかった。
クラウディア自身も。
やがて演奏が静かに止み、会場全体が自然と壇上へ視線を向ける。
卒業式を締めくくる王太子の挨拶が始まる時間だった。
レオナルドはゆっくりと壇上へ上がる。
その隣には、セシリアの姿があった。
卒業生たちは静かに耳を傾ける。
未来への祝辞。
王族からの激励。
誰もが、そのような言葉を予想していた。
レオナルドは会場をゆっくりと見渡す。
そして一人の令嬢へ視線を向けた。
クラウディア・フォン・アルヴェイン。
その名を呼ぶ声は、大広間の隅々まで静かに響いた。
「本日、この場で皆に伝えたいことがある。」
ざわめきが消える。
誰もが王太子の次の言葉を待った。
そしてレオナルドは、迷いなく口を開いた。
「私は、本日をもって――クラウディアとの婚約を破棄する。」
王太子レオナルドの宣言は、卒業を祝う大広間から一切の音を奪った。
「私は、本日をもってクラウディア・フォン・アルヴェインとの婚約を破棄する。」
誰も言葉を発しない。
磨き上げられた大理石の床に、静寂だけが広がっていく。
やがて、その静寂を破るように、小さなどよめきが会場を駆け巡った。
「婚約破棄……?」
「この場で?」
「まさか、本気なのか。」
貴族たちは互いに顔を見合わせる。
学院の卒業式で婚約破棄など、前代未聞だった。
レオナルドはざわめきを制するように一歩前へ出る。
「まず伝えておきたい。私はクラウディアの能力を疑っているわけではない。」
王子は静かな声で続けた。
「彼女は誰よりも勤勉で、この国の未来を真剣に考えてきた。財務、法、外交、領地経営――どれを取っても、同世代で彼女に及ぶ者はいない。」
その言葉に異論を挟む者はいなかった。
それは紛れもない事実だったからだ。
「だが……私はようやく気づいた。」
レオナルドはゆっくりと振り返る。
その視線の先に立っていたのは、一人の令嬢だった。
淡い水色のドレスをまとった公爵令嬢、ソフィア・フォン・エーデルハイト。
学院でも人気の高い令嬢で、誰に対しても分け隔てなく接する穏やかな人柄で知られている。
突然向けられた視線に、ソフィアは驚いたように目を見開いた。
「殿下……?」
「私はソフィアと共に歩みたい。」
その一言に、大広間は再びざわめいた。
「エーデルハイト公爵家の令嬢だ。」
「いつの間に……。」
「だから最近、お二人でいることが多かったのか。」
ソフィアは困ったように首を振る。
「殿下、このような場所でお話しになることでは……。」
「いや、だからこそ皆の前で伝えたかった。」
レオナルドは穏やかな笑みを浮かべた。
「私は王太子としてではなく、一人の男として、自分の人生を選びたい。」
その言葉に、多くの若い貴族は頷いた。
恋愛の末に結ばれる。
それは誰もが憧れる未来だった。
だが、クラウディアだけは静かに王子を見つめていた。
怒りもない。
悲しみもない。
ただ、その言葉を受け止めている。
王子はそんな彼女を見つめ返す。
「クラウディア。」
「君には申し訳ないと思っている。」
「だが、このまま互いに義務だけで結ばれていても、幸せにはなれない。」
その言葉に、クラウディアは小さく息をついた。
「殿下。」
澄んだ声が、静かな会場に響く。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」
「ああ。」
「殿下は、私との婚約を、私自身が望んだものだとお考えでしたか。」
思いもよらぬ問いに、レオナルドはわずかに眉をひそめた。
「違うのか?」
クラウディアは静かに首を横へ振る。
「私が五歳の頃、国王陛下と父がこの婚約をお決めになりました。」
「私は、その決定に従っただけでございます。」
誰も口を挟まない。
彼女は感情を交えず、ただ事実だけを語る。
「未来の王妃として学び、未来の王妃として振る舞い、未来の王妃として働く。それが私に与えられた役目でした。」
「ですから、婚約そのものについて、私が望むか望まないかを考えたことはございません。」
レオナルドは言葉を失った。
彼は初めて知ったのだ。
クラウディアは自分との未来を夢見ていたのではない。
ただ、課せられた責務を果たし続けていただけだったことを。
大広間にも重い沈黙が落ちる。
貴族たちもまた、その事実に息を呑んでいた。
クラウディアはゆっくりと左手へ視線を落とす。
薬指にはめられた白銀の婚約指輪。
幼い日に贈られたその指輪を、静かに外した。
一歩、また一歩。
王子の前まで歩み寄り、両手で丁寧に差し出す。
「お預かりしておりました婚約の証、お返しいたします。」
レオナルドは無言のまま指輪を受け取った。
金属が触れ合う小さな音だけが、大広間に静かに響く。
それは十数年続いた婚約が終わる音だった。
クラウディアは深く一礼する。
そして顔を上げると、いつもと変わらぬ落ち着いた声で、ただ一言だけ告げた。
「承知いたしました。」
婚約破棄の宣言から一時間。
王宮の一室は、不思議なほど静かだった。
クラウディアはいつもと変わらぬ手つきで机の引き出しを開け、一枚ずつ書類を仕分けていく。
左は引き継ぎが必要なもの。
右は処分して構わないもの。
迷いはなかった。
机の上に積まれていた書類は、みるみる整理されていく。
「クラウディア様……。」
秘書官リディアが、戸口で立ち尽くしていた。
「こちらは港湾局への報告書です。」
「こちらは北部街道の予算案。来月には再検討が必要になります。」
「税制改正案は、第三案を採用してください。」
クラウディアは淡々と説明を続ける。
まるで明日も仕事へ来るかのようだった。
リディアは何度も口を開こうとした。
だが、そのたびに言葉が詰まる。
今日、この人は婚約を破棄された。
それなのに最初に考えることが、仕事の引き継ぎなのか。
胸が締めつけられた。
「……もう結構です。」
思わず声が漏れる。
「クラウディア様。」
「今日は、お休みください。」
クラウディアは小さく首を横へ振った。
「今日だからこそ終わらせます。」
「明日から私はここにはおりません。」
その言葉だけで十分だった。
リディアはそれ以上何も言えなくなる。
クラウディアは最後の引き出しを閉じた。
机の上には、もう何も残っていない。
部屋を見回す。
そこは王太子妃の執務室として与えられた部屋だった。
しかし、改めて見渡しても生活の跡はほとんどない。
本棚を埋めるのは法典と会計帳簿。
外交記録。
各領の報告書。
趣味の本は一冊もない。
棚に飾られているのも王国地図と統計資料だけ。
花も。
絵画も。
思い出の品もなかった。
衣装箱を開けても同じだった。
王妃教育用の礼装。
儀礼服。
式典用のドレス。
それだけ。
色鮮やかな私服は数えるほどしかなく、どれもほとんど袖を通した形跡がない。
クラウディアは静かに蓋を閉じた。
持ち帰る荷物は驚くほど少なかった。
一人の人生とは思えないほどに。
リディアは唇を噛む。
この部屋には仕事しかなかった。
この人には、仕事しか与えられてこなかったのだ。
荷物をまとめ終えたクラウディアは、最後に机へ向かって一礼した。
「お世話になりました。」
誰へ向けた言葉でもない。
それでも自然に口をついて出た。
廊下へ出る。
使用人たちが道の両側へ並び、静かに頭を下げていた。
誰も声を掛けない。
掛けられない。
毎朝、一番早く執務室へ入り。
毎晩、一番最後まで灯りをともしていた姿を、皆が知っていた。
「……ありがとうございました。」
一人の侍女が震える声で呟く。
その一言をきっかけに、次々と頭が下がる。
「ありがとうございました。」
「どうか、お元気で。」
クラウディアは立ち止まり、一人ひとりへ丁寧に一礼した。
「こちらこそ、お世話になりました。」
短い言葉だった。
それ以上は続かなかった。
長い廊下を歩く。
窓から差し込む夕日が、磨かれた床へ細長い影を落としている。
この廊下を、何度歩いただろう。
財務局へ。
国王の執務室へ。
会議室へ。
急ぎ足で歩き続けた日々ばかりが思い出される。
気づけば、景色を見る余裕など一度もなかった。
大きな門が開く。
王宮の外には公爵家の馬車が待っていた。
御者が静かに頭を下げる。
「お迎えに参りました、お嬢様。」
その呼び方に、クラウディアは一瞬だけ目を瞬かせた。
――お嬢様。
王宮では、もう何年もそう呼ばれていなかった。
クラウディアは小さく頷き、馬車へ乗り込む。
扉が静かに閉まる。
車輪がゆっくりと動き始めた。
窓の向こうで、王宮は少しずつ遠ざかっていく。
そこで初めてクラウディアは気づく。
自分には、王宮を懐かしいと思う思い出が、一つもなかった。
公爵家の馬車は、夕暮れの街道を静かに進んでいた。
窓の外では、王都の灯が一つ、また一つと遠ざかっていく。
クラウディアはその景色を眺めながら、自分でも不思議なくらい何も感じていなかった。
悲しみもない。
怒りもない。
胸にあるのは、長い役目を終えたあとの静けさだけだった。
やがて馬車はアルヴェイン公爵邸の門をくぐる。
玄関には、執事をはじめ使用人たちが一列に並んでいた。
馬車の扉が開く。
クラウディアが降り立つと、全員が深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
その一言に、クラウディアは足を止めた。
――お嬢様。
王宮では長い間、「王太子妃殿下」と呼ばれていた。
政務では「クラウディア様」。
会議では「閣下」。
役目を示す呼び名ばかりだった。
けれど今、目の前にいる者たちは違う。
誰一人として未来の王妃ではなく、公爵家の娘として迎えてくれている。
「……ただいま。」
自然とこぼれたその言葉に、執事は穏やかに微笑んだ。
「はい。お帰りなさいませ。」
屋敷の扉が開く。
広い玄関ホールには、公爵アルヴェインが腕を組んで立っていた。
その隣には兄のレオン。
二人とも普段と変わらぬ服装で、まるで娘の帰宅を待っていただけのようだった。
「帰ったか。」
父はそれだけ言った。
婚約破棄のことには触れない。
王家への怒りも口にしない。
クラウディアは静かに頭を下げた。
「ご心配をお掛けいたしました。」
「そんなことはいい。」
父は娘の顔を見つめる。
少し痩せた。
目の下には疲れが残っている。
その姿を見て、胸の奥が締めつけられた。
「腹は減ってるか。」
思いがけない問いだった。
クラウディアは一瞬だけ言葉を失う。
「……え?」
「昼から何も食ってないだろ。」
兄のレオンが苦笑する。
「父上が厨房にうるさく言ってさ。今日は腕によりをかけろって。」
その言葉に、クラウディアは小さく目を伏せた。
「……はい。」
「少し、お腹が空いております。」
「よし。」
父は満足そうに頷く。
「まず飯だ。」
「話はそのあとでいい。」
食堂には湯気の立つ料理が並んでいた。
焼きたてのパン。
温かなスープ。
香草の香る肉料理。
幼い頃に好んで食べていた献立だった。
侍女が椅子を引く。
「どうぞ、お嬢様。」
クラウディアはゆっくりと腰を下ろした。
その瞬間、不意に手が止まる。
父が首をかしげた。
「どうした。」
クラウディアは食卓を見回した。
家族がいて。
料理が並び。
誰も急かさない。
誰も報告書を持ってこない。
誰も次の予定を告げない。
静かな時間が流れている。
その光景が、あまりにも遠い記憶のようで――。
「……夕食を、座っていただくのは。」
少し考えるように言葉を探し、
かすかに微笑んだ。
「何年ぶりでしょう。」
その場の空気が止まった。
兄は目を見開く。
父は何も言えなかった。
王宮では会議をしながら食事を済ませることもあった。
書類を読みながら、冷めた料理を口へ運ぶ日も少なくなかった。
それを、家族は今になって初めて知った。
父はゆっくりと息を吐く。
「今日は何も考えなくていい。」
低く、それでいて優しい声だった。
「温かいうちに食え。」
クラウディアは静かに頷く。
「いただきます。」
その一言が、幼い頃と同じ響きだった。
食事が終わる頃には、空はすっかり夜になっていた。
クラウディアは席を立ち、いつもの癖で口を開く。
「それでは、明日の予定を――」
「ない。」
父が言葉を遮った。
「明日はもちろん、その先もしばらく仕事はさせん。」
「ですが、公爵家の業務が――」
「それは俺たちがやる。」
兄が笑う。
「妹一人に任せきりだった王宮とは違う。」
クラウディアは返す言葉を失った。
父は娘の肩へ静かに手を置く。
「今日はもう仕事はない。」
「ゆっくり眠れ。」
その言葉は命令ではなかった。
父親が娘へ贈る、ただ一つの願いだった。
クラウディアはゆっくりと頭を下げる。
「……はい、お父様。」
その呼び方を聞いた父は、何も言わずに小さく笑った。
その夜、公爵家の屋敷で、一人の娘は久しぶりに予定のない眠りについた。




