第1話 冷酷令嬢
王都では、一人の令嬢の名を知らぬ者はいなかった。
クラウディア・アイゼンベルク。
アイゼンベルク公爵家の令嬢にして、王太子フレデリックの婚約者。
そして――。
誰もが恐れる『冷酷令嬢』である。
「見ろ、クラウディア様だ。」
石畳の廊下を歩く彼女を見つけると、貴族たちは自然と道を開けた。
年若い貴族令嬢は慌てて視線を逸らし、若い文官は抱えた書類を胸に抱き直す。
「今日は誰が叱られるんだろうな。」
「昨日は会計局の役人だったそうだ。」
「書類の数字を一つ間違えただけで、全部やり直しになったとか。」
「怖い方だ。」
小さな囁きが廊下を流れる。
だが、クラウディアは一度も振り返らなかった。
銀色の長い髪。
深い蒼の瞳。
整った顔立ちは人形のように美しい。
それなのに、そこには笑みがない。
怒りもない。
喜びもない。
ただ静かな表情のまま、一定の歩幅で王宮の奥へ進んでいく。
彼女が通り過ぎると、それだけで空気が張り詰めた。
「クラウディア様、お待ちしておりました。」
財務局長が頭を下げる。
「本日の会議ですが、港湾税について一部の貴族より延期の要望が――」
「認めません。」
返答は即座だった。
迷いも、考える間もない。
「しかし、今年は不作で……。」
「だからこそです。」
クラウディアは静かに資料へ目を落とした。
「税を延期すれば、冬の備蓄計画が崩れます。」
「備蓄が不足すれば春の種籾を配れません。」
「来年の収穫はさらに減ります。」
「その責任を、あなたは負えますか。」
財務局長は言葉を失った。
「……いえ。」
「ならば延期は認められません。」
それだけ言うと、クラウディアは次の書類へ手を伸ばす。
「次を。」
「は、はい。」
側近が慌てて別の書類を差し出した。
「南部商会より契約条件の変更願いです。」
クラウディアは一枚目を流し読みし、二枚目をめくる。
そして、小さくため息をついた。
「第七条。」
「違約金条項が削除されています。」
「……え?」
担当官が青ざめる。
数十枚ある契約書の中から、たった一行の変更を見抜いたのだ。
「こちらは先方が……。」
「承認できません。」
クラウディアは契約書を閉じる。
「契約は双方を守るためのものです。」
「片方だけが得をする契約は契約ではありません。」
「差し戻してください。」
「かしこまりました。」
担当官は深く頭を下げるしかなかった。
廊下へ戻ると、待機していた文官たちが小さく息を吐く。
「まただ。」
「誰も反論できない。」
「数字も法律も全部頭に入っている。」
「だから冷酷令嬢なんて呼ばれるんだ。」
「いや、冷酷だからじゃない。」
「正しすぎるんだ。」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
正しい。
だからこそ苦しい。
彼女の前では、言い訳が通用しない。
情に訴えても、涙を見せても、判断は変わらない。
王国にとって最善か。
それだけが、彼女の基準だった。
昼を過ぎても会議は終わらない。
財務。
商務。
治水。
港湾。
地方領主との調整。
次々と書類が積まれ、次々と決裁が下されていく。
昼食は机の端に置かれたまま、湯気を失っていた。
「クラウディア様。」
秘書官が控えめに声を掛ける。
「お食事を……。」
「後で。」
短い返事。
視線は書類から動かない。
秘書官は何か言いたげだったが、結局、小さく頭を下げて部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、年配の文官がぽつりと呟く。
「昔は、あんな方ではなかったと聞くが。」
「本当ですか。」
「私も噂で聞いただけだ。」
「今では信じられんな。」
誰も答えを知らない。
知っている者がいたとしても、もう語ろうとはしなかった。
王都では、それが当たり前だった。
冷酷令嬢クラウディア。
誰もが恐れ、誰もが頼り、そして誰も彼女には近づこうとしない。
それが、王国の日常だった。
財務局を出たクラウディアを待っていたのは、次の会議だった。
「クラウディア様。港湾局の皆様がお待ちです。」
「分かりました。」
足を止めることなく歩き続ける。
その後ろを秘書官が慌ただしく追いかける。
「午後の予定ですが、港湾会議の後に商業組合との契約確認、その後、北部領主との境界問題の調停、夕刻には外交使節との会談が入っております。」
「変更は。」
「ございません。」
「では予定どおり。」
クラウディアは表情一つ変えなかった。
王宮の会議室では、既に港湾局の役人たちが席についていた。
机いっぱいに広げられた地図。
港ごとの荷揚げ量。
税収の一覧。
輸送路の報告書。
「失礼いたします。」
クラウディアが席に着くと、それまでざわついていた室内が静まり返る。
港湾局長が咳払いを一つした。
「東港ですが、商船の増加に伴い倉庫の増設を――」
「却下です。」
一瞬で答えが返る。
「え?」
「倉庫ではなく荷役人員が不足しています。」
クラウディアは地図の一点を指した。
「こちらをご覧ください。」
「倉庫の稼働率は七割。」
「対して荷揚げ待ち時間は昨年比で二倍になっています。」
「原因は保管場所ではありません。」
「荷を運ぶ人員です。」
役人たちは資料を見返した。
確かに数字はその通りだった。
「人員を増やせば倉庫を建てる費用も不要です。」
「先に人手を確保してください。」
「……承知いたしました。」
港湾局長は深く頭を下げた。
別の役人が恐る恐る口を開く。
「ですが、北港については新しい桟橋が――」
「必要ありません。」
再び即答だった。
「現在の利用率は四割です。」
「まず南港との振り分けを見直してください。」
「施設を増やす前に運用を改善します。」
「それでも不足するなら建設を検討しましょう。」
誰も反論しない。
いや、できない。
数字を前にしては、反論する材料が見つからなかった。
会議は三十分で終わった。
本来なら半日はかかる内容だった。
「次へ参ります。」
秘書官が扉を開く。
廊下へ出ると、別の文官が駆け寄ってきた。
「クラウディア様!」
「商業組合の代表がお待ちです。」
「予定より早く到着されました。」
「通してください。」
応接室では、王都最大の商業組合長が立ち上がった。
「お忙しいところ恐れ入ります。」
「契約内容について一点、ご相談が。」
差し出された契約書を受け取り、クラウディアは静かに読み始める。
部屋には紙をめくる音だけが響いた。
やがて彼女は顔を上げる。
「輸送保証を半年から三か月へ変更されていますね。」
組合長が肩を震わせた。
「お気付きになられましたか。」
「王都近郊の治安が改善しておりますので……。」
「現在は、です。」
クラウディアは契約書を閉じる。
「来年も保証されますか。」
「それは……。」
「保証できない以上、この変更は認められません。」
商業組合長は苦笑した。
「やはり敵いませんな。」
「交渉とは、お互いが納得して結ぶものです。」
クラウディアは穏やかな声で続ける。
「一方だけが利益を得る契約は、いずれ双方に損失を生みます。」
「条件は現状維持といたします。」
「……承知いたしました。」
組合長は潔く頭を下げた。
応接室を出る頃には、窓から差し込む陽射しが少し傾いていた。
「クラウディア様。」
秘書官がおずおずと声を掛ける。
「昼食のご用意ができております。」
机の上には温かなスープと焼きたてのパンが並べられていた。
クラウディアは一瞬だけ視線を向ける。
しかし、その時だった。
「失礼いたします!」
一人の若い文官が息を切らして飛び込んできた。
「北部領より急使です!」
「河川が氾濫し、このままでは収穫への影響が――」
クラウディアは椅子に座ることなく立ち上がった。
「資料は。」
「こちらです。」
「昼食は下げないでください。」
「戻りましたらいただきます。」
そう言い残し、再び足早に部屋を出ていく。
残された秘書官は、まだ湯気の立つスープを見つめ、小さくため息をついた。
「今日も……お召し上がりになれないかもしれませんね。」
誰もその言葉に返事をしなかった。
王宮では、それが当たり前になっていた。
北部領からの急報を受けたクラウディアは、そのまま災害対策室へ向かった。
室内では、既に地図が広げられ、数人の文官が慌ただしく意見を交わしている。
「クラウディア様。」
「北部のレイン川が増水しております。」
「このままでは農地への浸水は避けられません。」
担当官が報告書を差し出す。
クラウディアは一読すると、机の上の地図へ視線を落とした。
「堤防は。」
「一か所、決壊の恐れがあります。」
「補修班は。」
「まだ到着しておりません。」
「理由は。」
「南部街道の橋が損傷し、足止めを……。」
「迂回路があります。」
担当官は首を横に振る。
「荷車では通れません。」
クラウディアは地図の一点を指先で示した。
「荷車ではなく、小隊で向かわせてください。」
「資材は現地調達。」
「周辺村落の備蓄材を使用し、後日王都が補填します。」
「それなら日没前には着けます。」
部屋の空気が変わる。
「……確かに。」
「その方法なら。」
担当官たちは急いで命令書を書き始めた。
その最中、一人の若い役人が口を開く。
「ですが、現地の村では反発も考えられます。」
「備蓄を勝手に使えば……。」
「命が優先です。」
クラウディアの声は静かだった。
「失った備蓄は補えます。」
「失った命は戻りません。」
誰も反論しなかった。
命令書に印章が押され、早馬が王宮を飛び出していく。
ようやく一息ついた室内だったが、休む間もなく扉が叩かれた。
「失礼いたします。」
「西部伯爵がお見えです。」
伯爵は部屋へ入るなり、不満げな表情を浮かべた。
「クラウディア殿。」
「今年の献上穀物について相談がある。」
「不作ゆえ、半分ほど減らしていただきたい。」
周囲の文官が息をのむ。
相手は王国でも有力な伯爵家だ。
普通なら慎重に言葉を選ぶ。
しかしクラウディアは資料を開き、淡々と尋ねた。
「西部領の収穫量は昨年比で九六%。」
「家畜数は増加。」
「市場への出荷量も前年を上回っています。」
「不作という報告とは一致しません。」
伯爵の顔が引きつる。
「それは……。」
「一部地域だけの話だ。」
「領地全体では苦しい。」
「承知しております。」
クラウディアは頷いた。
「ですので、被害地域への支援金は既に承認しております。」
「ですが、献上穀物を減らす理由にはなりません。」
「支援と義務は別です。」
伯爵は声を荒らげた。
「融通というものがないのか!」
「あります。」
クラウディアは静かに答えた。
「だからこそ支援金を出しました。」
「ですが、公平性は崩せません。」
「一つの領だけを特別扱いすれば、他領にも同じ理由が生まれます。」
「それでは制度が崩れます。」
伯爵は唇を噛み締めたまま立ち上がる。
「……冷たい方だ。」
「そう思われても構いません。」
クラウディアは頭を下げることもなく、静かに答えた。
「私は王国全体を見て判断しております。」
伯爵は荒々しく部屋を出ていった。
残された文官たちは、重苦しい空気の中で顔を見合わせる。
「また怒らせてしまいましたね。」
一人が小さく漏らす。
年配の官吏は苦笑した。
「だが、間違ったことは言っておらん。」
「だから困るんだ。」
若い文官が肩を落とす。
「正論しか言わない。」
「だから誰も勝てない。」
その言葉に、誰も否定しなかった。
夕暮れが王宮の窓を赤く染め始める頃、クラウディアはようやく執務室へ戻った。
机の上には昼食だったはずのスープが置かれたままになっている。
もちろん、もう冷め切っていた。
秘書官が申し訳なさそうに頭を下げる。
「新しいものをお持ちいたします。」
「結構です。」
クラウディアは冷えたスープを一口飲み、静かにパンを口へ運ぶ。
それだけで食事を終えると、机の端に積まれた新たな書類へ手を伸ばした。
窓の外では、王都に夜の帳が下り始めている。
それでも彼女の机の上だけは、まだ一日の終わりを迎えてはいなかった。
西の空が茜色に染まり始める頃、王宮にも一日の終わりが訪れていた。
廊下を行き交う役人たちは書類を抱え、互いに挨拶を交わしながら帰路につく。
「それでは失礼します。」
「お疲れさまでした。」
「明日は午前の会議からですね。」
穏やかな声が廊下に響き、やがて人影は少しずつ消えていく。
だが、王宮の一室だけは違っていた。
クラウディアの執務室。
机の上には、今日処理した書類よりも高く、新たな書類が積み上げられている。
秘書官のリディアは、その山を見つめて小さく息をついた。
「クラウディア様。」
「本日分は、すべて終了しております。」
「ええ。」
「明日の案件です。」
クラウディアは羽根ペンを置くことなく答えた。
「ですが、それは明日でも……。」
「明日は明日の仕事があります。」
静かな口調だった。
叱るわけでもなく、感情を見せるわけでもない。
ただ事実を述べているだけだった。
「今日できることは今日終わらせます。」
リディアはそれ以上何も言えなかった。
このやり取りを何度繰り返しただろう。
気付けば季節は二度巡っていた。
最初の頃は、無理にでも休んでいただこうと食事を勧め、帰宅を促し、書類を隠そうとしたことさえある。
しかし、そのたびに返ってくる言葉は決まっていた。
「誰かがやらなければなりません。」
その「誰か」は、いつもクラウディア自身だった。
窓の外では、最後の陽光が王都を照らしている。
やがて鐘が鳴った。
終業を知らせる鐘。
廊下から聞こえていた足音も、次第に遠ざかっていく。
王宮には静寂が訪れた。
静かな部屋に響くのは、紙をめくる音と羽根ペンが走る音だけ。
リディアは新しい紅茶をそっと机へ置いた。
「冷める前に、お召し上がりください。」
「ありがとう。」
その一言だけで、クラウディアの視線は書類から離れない。
紅茶から立ち上っていた湯気は、やがて細くなり、静かに消えていった。
時計の針は夜を告げる。
それでも机の上の書類は減らない。
処理を終えた分だけ、新しい案件が運び込まれるからだ。
扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。」
夜勤へ交代する文官だった。
「本日最後の決裁書類をお持ちしました。」
「そこへ。」
クラウディアは顔を上げることなく答える。
文官は書類を置き、思わず苦笑した。
「本当に毎日、ご苦労さまです。」
「これほど働かれる方は見たことがありません。」
「仕事ですから。」
返ってきたのは、それだけだった。
文官は何か言いかけたが、結局頭を下げて部屋を後にする。
扉が閉まる音が、静かな執務室に小さく響いた。
リディアは窓へ目を向ける。
王都の明かりが、一つ、また一つと灯り始めていた。
家族の待つ家へ帰る人々。
食卓を囲み、一日の出来事を語り合う人々。
その灯りを眺めながら、リディアは胸の奥に小さな痛みを覚える。
クラウディアには、その時間がない。
帰っても、また翌朝には誰より早く王宮へ来る。
そして今日と同じように、一日中仕事を続ける。
それが当たり前になっていた。
クラウディアはようやく一枚の書類を書き終えると、小さく息を吐いた。
視線を上げる。
窓ガラスには、夜の闇が広がっていた。
その黒いガラスに映る自分の姿を見つめる。
けれど、その瞳に浮かんだものが何だったのかを知る者はいない。
彼女は何も言わず、再び次の書類へ手を伸ばした。
王都では誰もが彼女を「冷酷令嬢」と呼ぶ。
その名がいつから広まり、誰が最初に口にしたのかは分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
翌朝もまた、誰より早く王宮の門をくぐるのは、きっと彼女なのだ。
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