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冷酷令嬢は、もう働かない。  作者: カワカン


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第5話 薔薇 

 前編 穏やかな朝 


それから、数年の歳月が流れた。


 アルヴェイン公爵家が所有する国外の別荘は、小高い丘の上に建っている。


 春になれば色とりどりの花が咲き誇り、夏には爽やかな風が湖を渡る。


 王都の喧騒とは無縁の、静かな場所だった。


 朝日が窓辺を優しく照らす。


 クラウディアはゆっくりと目を覚ました。


 もう、誰かに起こされることはない。


 「至急の案件です」と扉を叩かれることもなければ、「本日の予定はこちらです」と分刻みの予定表を渡されることもない。


 窓を開けると、冷たい朝の空気が部屋へ流れ込んできた。


 花の香りを含んだ風が頬を撫でる。


 クラウディアは小さく息を吸い込み、静かに微笑んだ。


「今日も、いい天気ですね。」


 誰に聞かせるでもない独り言だった。


 それだけで、胸が少し温かくなる。


 朝食を終えると、いつものように庭へ向かう。


 広い庭園の一角には、色とりどりの薔薇が植えられていた。


 赤。


 白。


 淡い桃色。


 深い紫。


 季節ごとに咲く品種が少しずつ違い、毎年同じ景色にはならない。


 その変化を見るのが、今のクラウディアの楽しみだった。


 庭師のエドワードが帽子を取って一礼する。


「おはようございます、お嬢様。」


「おはようございます。」


 穏やかな挨拶が交わされる。


 急ぐ者はいない。


 誰も時計を気にしていない。


 王宮では考えられなかった朝だった。


 庭師は手元の帳面を開いた。


「本日はどちらからお手入れなさいますか。」


 クラウディアは庭をゆっくり見渡した。


 朝露をまとった薔薇が、朝日に照らされて小さく輝いている。


 しばらく眺めたあと、柔らかな笑みを浮かべた。


「今日は西側の花壇にしましょう。」


「西側ですか。」


「ええ。」


 クラウディアは一輪の花へ視線を向ける。


「昨日は東側によく日が当たっていましたから。」


「今日は西側を見てあげたいのです。」


 庭師も嬉しそうにうなずいた。


「承知しました。」


 二人は並んで歩き始める。


 足元の砂利が小さく音を立てた。


 西側の花壇には、今年植え替えたばかりの若い薔薇が並んでいた。


 まだ枝は細い。


 それでも、小さな蕾をいくつも付けている。


 クラウディアはしゃがみ込み、葉を一枚一枚確かめていく。


「虫はついていませんね。」


「はい。今年は寒暖差が少なかったおかげでしょう。」


「よかった。」


 ほっとしたように微笑む。


 その表情は、かつて王宮で「氷の令嬢」と囁かれていた女性と同じ人物とは思えないほど穏やかだった。


 庭師は剪定ばさみを差し出す。


「こちらを。」


「ありがとうございます。」


 クラウディアは慣れた手つきで枝を見極める。


 伸びすぎた枝を少しだけ切る。


 風通しを良くし、来年も元気に咲くように。


 ほんの少し整えるだけだった。


「今年は去年より花付きがいいですね。」


 庭師の言葉に、クラウディアは嬉しそうにうなずいた。


「冬の間に肥料を変えていただいたおかげでしょう。」


「私一人では思いつきませんでした。」


「いえいえ、お嬢様が毎日様子をご覧になるからですよ。」


 クラウディアは照れたように笑う。


「私は見ているだけです。」


「そんなことはありません。」


 庭師は首を横に振った。


「花は、不思議と世話をしてくれる人が分かるものです。」


 クラウディアは一本の薔薇へそっと手を伸ばす。


 花びらは柔らかく、朝露が光を受けて宝石のように輝いていた。


「本当に綺麗ですね。」


「ええ。」


 庭師も同じ花を見る。


「来年はもっと咲きますよ。」


「楽しみですね。」


 その何気ない会話に、仕事の話は一つもない。


 税も。


 外交も。


 港も。


 契約も。


 誰も口にしない。


 ただ、今年の花が綺麗に咲いたことを喜び、来年はもっと咲くだろうと笑い合う。


 それだけの朝だった。


 やがて別荘の使用人が、小さな籠を抱えて歩いてきた。


「お嬢様。」


「紅茶のご用意ができました。」


「ありがとうございます。」


 クラウディアは籠の中を覗き込み、小さく目を細める。


「あら、この焼き菓子は。」


「料理長が、朝採れの木苺で焼いたそうです。」


「それは楽しみですね。」


 使用人も自然と笑顔になる。


「庭をご覧になりながら召し上がってください。」


「そうします。」


 クラウディアは籠を受け取り、東屋へ向かった。


 振り返ると、色とりどりの薔薇が風に揺れている。


 花びらが朝日に照らされ、庭全体が柔らかな光に包まれていた。


 クラウディアは静かに目を細める。


「今年も、綺麗に咲きましたね。」


 その言葉を聞いた庭師は穏やかに笑った。


「来年は、もっと綺麗になりますよ。」


「ええ。」


 クラウディアはゆっくりとうなずく。


「来年も、一緒に育てましょう。」


 その笑顔には、王宮で誰も近寄れなかった冷たさは、もうどこにも残っていなかった。


中編  父からの手紙


 朝の庭仕事を終えたクラウディアは、東屋で一息ついていた。


 焼きたての焼き菓子と、香り高い紅茶。


 庭いっぱいに咲く薔薇を眺めながら過ごす時間は、いつしか彼女の日課になっていた。


 王都にいた頃なら考えられないほど、穏やかな朝だった。


 やがて、小道の向こうから使用人が歩いてくる。


 銀の盆には、一通の封書が載せられていた。


「お嬢様、お手紙が届いております。」


「ありがとう。」


 封筒を見るまでもなく、誰からの手紙か分かった。


 端正な筆跡。


 アルヴェイン公爵――父からだった。


 クラウディアは自然と頬を緩める。


 昔の父から届く書状は、公爵家の報告や王都の情勢ばかりだった。


 けれど最近は違う。


 庭の花はどうか。


 体調は変わりないか。


 そんな何気ない言葉が増えていた。


 封を切り、ゆっくりと便箋を広げる。


 そこには、父らしい真っ直ぐな文字が並んでいた。


『クラウディアへ。


 そちらは変わりなく過ごしているだろうか。


 今年は領地でも春の訪れが少し早く、庭の花々が例年より早く咲き始めた。


 お前の育てている薔薇も、きっと見頃を迎えている頃だろう。』


 思わず笑みがこぼれる。


 以前の父なら、花の話から手紙を書き始めることなど考えられなかった。


 公爵としての責務に追われ、家族との会話も必要最小限だった人である。


 そんな父が、薔薇の季節を気に掛けてくれるようになった。


 それだけで胸が温かくなった。


 クラウディアは続きを読み進める。


『レオンは元気に領地を治めている。


 最初は領民も不安だったようだが、今ではすっかり信頼を集めている。


 畑の収穫も安定し、新しい水路の整備も終わった。


 先日も領民から「立派な領主になられましたな」と声を掛けられ、本人は照れ隠しに笑っていた。』


 兄らしい姿が目に浮かぶ。


 昔から真っ直ぐで、人付き合いの上手な人だった。


 きっと今も、領民たちと笑い合いながら領地を歩いているのだろう。


 ページをめくる。


 今度は王都の様子が綴られていた。


『王都も少しずつ変わってきた。


 お前が去った直後は混乱が続いた。


 役所は止まり、誰もが「お前が戻れば解決する」と口にしていた。


 だが、その考えが間違っていたのだと、多くの者がようやく理解した。』


 クラウディアは静かに息をつく。


 あの日、自分がいなくなって初めて見えたものがあったのだ。


 父は続ける。


『今では、一人に仕事が集中しないよう制度が見直されている。


 決裁は各局で分担し、責任も複数人で負う仕組みへ改められた。


 若い役人を育てるための研修も始まり、先輩が後輩を指導することが当然になりつつある。


 最初は反発も多かった。


 時間も掛かった。


 それでも皆が口をそろえて言う。


 「二度と、同じ過ちは繰り返してはならない」と。』


 クラウディアは便箋を持つ手に、そっと力を込めた。


 誰か一人が優秀だから成り立つ国ではなく。


 皆で支え合う国へ。


 それは、かつて彼女が願いながらも実現できなかった姿だった。


 父の文字は、どこか穏やかだった。


『私も以前ほど王都へ通うことは少なくなった。


 役所は役所で動くようになり、公爵が毎日のように顔を出さずとも仕事は回る。


 それが本来あるべき姿なのだろう。』


 クラウディアは思わず笑った。


「お父様らしいですね。」


 公爵である父が、ようやく肩の力を抜けるようになった。


 それが嬉しかった。


 便箋は最後の一枚になっていた。


 そこには、これまでとは少しだけ違う文字が並んでいる。


『追伸。


 先日、お前が幼い頃に描いた絵を見つけた。


 庭いっぱいに花を描いた、拙い絵だった。


 その頃のお前は、公爵令嬢でもなければ、未来の王妃でもなかった。


 ただ、花が好きな、私の娘だった。


 私は長い間、公爵としてお前を見ていた。


 王妃となる娘として。


 優秀な政務官として。


 家を支える者として。


 だが今は違う。


 ようやく、お前を娘として迎えられた気がする。


 身体を大切にしなさい。


 父より。』


 読み終えたクラウディアは、便箋を静かに膝へ置いた。


 庭では風に揺られた薔薇が、陽の光を受けて穏やかに咲いている。


 あの日、父は「休め」と言ってくれた。


 その言葉は、一時の慰めではなかった。


 数年という歳月をかけて守られ続けた約束だったのだ。


 クラウディアは空を見上げ、小さく微笑む。


「……ありがとうございます、お父様。」


 その声は春風に乗り、咲き誇る薔薇の香りとともに静かに空へ溶けていった。


 後編 未来


 夕暮れの庭は、昼間とは違う表情を見せていた。


 西へ傾いた陽が花壇を茜色に染め、色とりどりの薔薇が柔らかな光を受けて静かに揺れている。


 朝露の代わりに夕風をまとった花びらは、昼よりもどこか落ち着いた美しさをたたえていた。


 クラウディアは剪定ばさみを片づけ、小道をゆっくりと歩く。


 急ぐ理由はない。


 今日やるべき仕事は、もう終わっていた。


 足を止め、一輪の薔薇へ目を向ける。


 花は今日も変わらず咲いている。


 それでも昨日とは少し違う。


 昨日より花びらが開き、昨日まで蕾だった枝にも新しい色が見え始めていた。


 植物は、誰にも急かされることなく季節を重ねていく。


 その穏やかな時間の流れが、クラウディアは好きだった。


「今日は風が優しいですね。」


 独り言のようにつぶやくと、近くで片づけをしていた使用人が笑顔を向けた。


「ええ、お嬢様。昼間より過ごしやすくなりました。」


 庭を渡る風に、薔薇の香りがふわりと乗る。


 別荘へ移り住んでから、何度迎えただろう。


 それでも、この香りだけは毎年新鮮だった。


 使用人は空になった籠を抱えながら近づいてくる。


「本日もありがとうございました。」


「こちらこそ。」


 クラウディアは穏やかに微笑んだ。


「今年も綺麗に咲いてくれました。」


「お嬢様が毎日手を掛けておられますから。」


 使用人の言葉に、クラウディアは首を横に振る。


「私だけではありません。」


「皆さんが大切に育ててくださるからです。」


「私一人では、この庭は守れません。」


 その言葉に、使用人は少しだけ目を細めた。


 昔のクラウディアなら、「私がやります」と言っていたかもしれない。


 誰かを頼ることより、自分が背負うことを選んでいた。


 けれど今は違う。


 一人ではできないことを認め、それを自然に口にできるようになっていた。


 しばらく二人で花壇を眺める。


 夕焼けはゆっくりと色を変え、空には淡い紫が混じり始めていた。


 鳥たちもねぐらへ帰る時間なのだろう。


 羽ばたく音が遠くから聞こえてくる。


 静かな庭だった。


 その静けさが、心地よかった。


 やがて使用人が、思い出したように口を開く。


「お嬢様。」


「はい。」


「明日のご予定はいかがなさいますか。」


 クラウディアは少しだけ考える。


 明日は薔薇の続きを手入れしてもいい。


 湖まで散歩に出てもいい。


 読みかけの本を開くのもいいだろう。


 どれも悪くない。


 だから、答えは一つだった。


「まだ決めていません。」


 使用人はくすりと笑った。


「でしたら、明日になってから考えましょう。」


「ええ。」


 クラウディアも笑みを返す。


「その方が、きっと楽しいですね。」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。


 明日の予定が決まっていない。


 それは昔なら考えられないことだった。


 王宮では、一日の終わりには翌日の予定が決まり、その翌日も、そのまた先も決まっていた。


 誰かが決めた予定をこなし続ける毎日。


 立ち止まる時間も、空を見上げる余裕もなかった。


 けれど今は違う。


 明日をどう過ごすかは、自分で決められる。


 その当たり前が、何よりも愛おしかった。


 やがて使用人が、何気ない調子で尋ねる。


「お嬢様。」


「今日は、どのような一日でしたか。」


 クラウディアは庭を見渡した。


 夕日に照らされた薔薇が、風に揺れている。


 今日という一日を思い返す。


 誰かに呼ばれることもなかった。


 急ぎの書類もなかった。


 責任に追われることもなかった。


 ただ、花と向き合い、土に触れ、風を感じて過ごした。


 それだけだった。


 それだけで十分だった。


 クラウディアは穏やかに微笑む。


「薔薇を三本、剪定しました。」


 使用人も優しくうなずいた。


「いい一日でしたね。」


「ええ。」


 クラウディアは空を見上げる。


 茜色だった空は少しずつ藍色へと変わり、一番星が静かに輝き始めていた。


 明日は、何をしよう。


 薔薇の続きを手入れしてもいい。


 湖まで歩いてみてもいい。


 まだ決めていない。


 だからこそ、明日が楽しみだった。


 夕風が薔薇の香りを運び、庭いっぱいに穏やかな時間が流れていく。


 クラウディアは静かに微笑み、その空をいつまでも見上げていた。





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国政が一人に依存しているっていう政務状況が破綻していた状態に遅すぎる時期で気づいたけれど、それまで国王何してたんだ? 王太子ってことは国王健在ってことなんだから、いくつものルートで絶対に話上がっていな…
ブラック企業の上司みたいな人の功績に鈍感な王子はどうなったんだろ。
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