3 旅芸人のテント小屋
「お嬢ちゃん、良く見えるところを案内してあげよう」
いやらしい笑いと一緒に、酒の匂いがふっと鼻を刺した。
そう言うと男はサッと私の手を取ろうとしたので、急いで後ろに下がった。
「1人で大丈夫です!」
「ウダウダいうんじゃねえ」
分厚い大きな手で私の肩をがっしり掴んだ。
その瞬間、呼吸が止まり、全身に鳥肌が立つ。
——まずい。
肩に食い込む指が、思ったより強い。逃げようとしても、足が動かない。
「は、離してっ!」
「エンジェル。遅れてごめん」
落ち着いた声が響き渡る。心地よく通る声だった。場違いなほど落ち着いていて、空気が一瞬で変わる。
一瞬、誰のことかと思った。
テントの入り口から、二つの影が駆け寄って来る。
ど、どなた?
助かった……の?
大きな男の人が、私の肩を掴んでいた男の手をがしっと掴んだ。その横で、マント姿の少年がフードを深くかぶったまま、そっと私の手を取る。
「うちの子に何か用ですかな」
低く響く声に男は慌てて手を引っ込めた。
「お嬢ちゃんが一人じゃ嫌だって言うからな。お相手してただけだぜ」
いつの間にか少年が私の前にすっと出てきた。
「おい! ヤン! 油売ってないで荷物を運べ!」
「いけねぇ団長だ。へっ、助かったぜ」
おじさんはあっという間に奥の方へ姿を消した。それを見て一気に体の力が抜ける。
「良かったぁ~」
思わずほっとして声が出た。
「お嬢ちゃん。こんなところに1人で来たら危ないって、教わらなかったのかな?」
お坊ちゃま風の少年が言う。
「そうですよ。で、あっ、いや、ロヴィお坊ちゃまも帰りましょう」
背の高い大きな男の人がせかすように口を開いた。やっぱりお坊ちゃまね。
2人ともお揃いの深緑色のマントに身を包んでいた。洗練された身のこなしは、旅芸人というよりは騎士みたいだった。
どこかの身分の高い貴族なのかしら……。
特に大柄な男性の方は、マントのせいでただの太っちょに見えるけれど、隙のない立ち姿は只者じゃない。対照的なシルエットの2人だわ。
「ありがとうございます。助かりました」
私がお礼を言うと、彼は片手を上げた。
護衛の人は20代後半くらいかしら。
前世なら間違いなく好みのタイプだわ。
そんなことより、少しこの世界を甘く見ていたかもしれない。大きく息を吸った。油断しちゃったわね。
それにしても、ますますここは怪しい。絶対に何かあるって確信したわ。
「はい、一通り見たら帰りますね」
嘘だけれど。
私はぺこりとお辞儀をすると、周りを見渡してから、さっきの男が姿を消した奥の方へと、進むことにした。後ろから「ちょっと、そっちじゃない!」って声が聞こえた気がした。
——ここで止まったら、来た意味がない。
足はもう奥へ向かっていた。
いくつもの厚い布で仕切られた、通路のような場所を進んでいく。外から見るよりずっと広いテントの中は、まるで迷路のようだ。いくつか並ぶ部屋の入り口を通り過ぎていくと、向こう側に荷物を運び入れている人々が見えてきた。
あそこだわ。祈祷を行ったのはあの部屋よ。いくつも重ねられた木箱の横にしゃがみこんで隠れる。
入っていく人と出ていく人を数える。最後に出ていった人が部屋の中を確かめていた。たぶんあれが最後ね。
私が立ち上がろうとした時にふいに後ろから声がした。
「なるほど、あそこは怪しいな」
ギョッとして振り返れば、さっきのお坊ちゃま君だ。
「つ、ついてきたの……」
「面白そうだったからな」
「面白そうって……。もう一人の人は?」
「まっ、見張りかな」
「見張りね……」
そうね、ここは私一人じゃどうなるわけでもなく、助けてくれる人がいれば越したことはないわ。でも、味方とは限らない。
私が迷っていると見透かしたようにお坊ちゃま君が言った。
「迷っているね。でも、僕しかいないんじゃないかな?ここには」
彼の視線は、私ではなく周囲の動きを静かに追っていた。
……選択肢はない、ってこと? 仕方ないわ。
少しだけ迷って、息を飲み込む。
——ここで引いたら、終わる。
「……誰にも言わないでほしいの」
お坊ちゃま君は黙ってうなずいた。
「あの部屋で、怪しい祈祷が行われるの。それを止めたい。……失敗させたいの」
彼は一瞬驚いたように目を見開いた。
「君は、何故それを知ったんだ」
彼の声が、わずかに低くなる。私が知ったのは夢で見たからだわ。でも、信じてもらえるかしら……。
「夢で見たの」
「夢?」
「七日後。この場所で祈祷が行われる」
私は唇を噛んだ。
「そして誰かが死ぬの」
「誰だかわかるか?」
「知らないわ」
私は首を振った。
いくら何でも王太子殿下だなんて言えない。——言っても、誰も信じない。誰も暗殺だなんて知らない。病死だと思ったまま、ずっと。
「……時間がないの。行くから」
迷いを振り切るように言い切って、私は踏み出した。
カーテンの隙間から中をうかがう。——人の気配は、ない。
一瞬だけ耳を澄ませてから、そっと中に滑り込んだ。後ろからお坊ちゃま君も入ってきた。
……ついてきたの? 怖いもの知らずね。
「危険だから、ついてこないで」
「さすがに、子供を放っておくわけにはいかないからね。それに、何があるのか興味もある」
彼は部屋に入るなり、一瞬で全体を見渡した。視線が、入り口・窓・荷物の順に動く。配置を、覚えているんだわ。
私の狙いは一つ。祈祷に使われる灰の入った壺——あれの中身を使えなくするか、すり替えちゃえばいいのよ。
できれば、あの骨も見つけたい。夢の中で、呪いに使う骨が無造作に転がされていた。
その時……2人一緒に振り返って入り口を確認した。聞こえる……。
——コツ、コツ。
外から足音が近づいてくる。
思わず息を呑んだ瞬間、ぐいっと腕を引かれた。
「っ……!」
声を上げそうになった口を、後ろから手で塞がれる。
「静かに」
耳元で、低く囁く声。さっきまでの軽さが嘘みたいに、温度のない声だった。
そのまま背中を引かれて、積み上げられた木箱の影に押し込まれる。
「呼吸、合わせて」
短く言われる。彼の手が、私の口元からゆっくりと離れる。
——近い。
けれど、変な緊張とは違う。ただ、ひたすらに張り詰めた空気。
足音が、木の床をゆっくりと踏みしめる音に変わった。
外の足音が、すぐそこまで来ている。
――部屋の扉がゆっくりと開いた。




