第21話 ミモザ
いつもと変わらない日常を過ごす。
1月の間はいっとき、花菜のことを思い出したり、
話した日のことを反芻しては、胸の奥が少しだけ疼いた。
それでも、隣に花菜が来ることも、
花菜から連絡が届くこともない。
そんな日常にも、少しずつ慣れ始めていた。
部活前のストレッチ中、
大きなネットに隔てられたバスケ部が見える。
花菜もすっかり練習に参加していた。
心底、良かったと思う。
ショウや他の男バスの子に絡まれている花菜。
その中にはワタルくんの姿もあった。
もちろんモヤモヤするし、胸も痛む。
でも、距離を置いているからか、
それとも痛みに麻痺しているからか、
前ほど苦しくはない。
少しホッとする気持ちもあれば、
それがさみしくもある。
心にぽっかりと空白ができたようだった。
花菜が、少しこっちを見ている気がした。
ネット越しだし、僕は目がいいわけでもない。
気のせいだと結論づけたけれど、
どこか凛として、清々しい顔をしているように見えた。
元気そうなら、それでいい。
2月に入り、嫌な嫌な席替え。
楽園のようだった席とも別れる。
東さんが「残念だね」と言う。
「本当だよ、ずっとこの席が良かった」
僕もそう答えた。
今度の席は最悪も最悪だった。
教室の対角線、廊下側の一番前。
前の席というだけでも嫌なのに、廊下側は寒い。
僕は落胆した。
東さんとも別れを告げ、僕は旅立つ。
当分は寝れそうにもないな、とため息をついた。
休み時間。
パタパタと走ってくる音が廊下から聞こえる。
「いずみー!」
聞き覚えのある声に、
僕は教室へ入ってくる女の子を見る。
その女の子も、同じ瞬間にこちらを見た。
色白で、ボブくらいの髪。
黒髪に、ベリーっぽい甘い制汗剤の香り。
あまりにも目がバチッと合いすぎて、
その子は「わっ」と小さく叫んだ。
チリンッ、と小さな鈴の音が鳴る。
携帯のアクセサリーか何かだろう。
僕もどうしていいか分からず、
ヨッ!とだけジェスチャーする。
驚いたのか、ペコっと軽く会釈したその子は
友達のところへ向かった。
久しぶりに至近距離で彼女を見た僕は、
何も考えられず、ただ寝たフリをするしかなかった。
その夜。
家でご飯を食べていると、携帯が震えた。メールだ。
激しい動悸に襲われる。
約2か月、一度も光らなかった濃いピンクの通知色。
嬉しさと不安が入り混じった感覚に押され、
ご飯をかき込むように食べて部屋へ戻る。
何度も深呼吸をし、
わざわざ遠回りをしてメールを開く。
宛先は花菜だった。
少し泣きそうな気持ちで、
おそるおそる本文を開く。
──明日、あの公園で会ってくれませんか。
僕は「分かった。部活終わりに。」
それだけを打つのに5分かかった。
もうお風呂に入っていたが、
嫌な汗を流したくて
僕はもう一度お風呂に入った。
翌日。
いつも通りの日常を過ごす。
違うのは、部活終わりに花菜と会うということだけ。
花菜が何を思っているのか、
今日の話が何なのか、見当もつかない。
別れるのかどうか。
とりあえず今日、決まるのだと思った。
部活終わり。
お日柄も悪く、とても寒い。
この寒さが、2人の関係に伝播しないことを祈った。
僕はまた、ミルクティーとココアを準備する。
手袋越しでも、じんわり温かい。
花菜が来る。
「お待たせ、久しぶりだね」
花菜も寒そうで、部活用のジャージを羽織っていた。
ココアとミルクティーを差し出す。
花菜はミルクティーに手を伸ばしかけて、
あの時と同じようにココアを選んだ。
「ありがとう」
そう言って受け取る。
「お返しにもならないけど」と
花菜はカイロを取り出し、一つ差し出してくれた。
「ありがとう」
僕はカイロを受け取り、手を温める。
そのままカイロごと手をポケットに入れた。
花菜は何となくこちらを見つめている気がしたが、
僕は気にせず座り直す。
少し沈黙が続く。
この時間が終わるかもしれないと思うと、
何も話せなかった。
花菜も、どう話すか迷っているようで
言葉を出せずにいた。
「部活どう? ケガは?」
気になっていたことを口にする。
「ケガは大丈夫。部活ももう完全に復帰したよ。
手紙もタカヤくんから貰った。嬉しかったし元気も出た。ありがとう」
「そっか」
読んでくれた。それだけで嬉しかった。
「それと、怪我した時も保健室来てくれてありがとう。
最後バタバタしてちゃんと言えなかった」
「いや、距離置いてんのに行っちゃダメだよなーって反省してた。
でも嫌じゃないなら良かった」
「嫌になんてならないよ」
また沈黙が落ちる。
「あのっ……」「あのさ」
いつかみたいに、また被ってしまう。
「僕からでもいいかな?」
僕は立ち上がり、ベンチに座る花菜の前にひざまずく。
「嫌じゃなきゃ、手を握らせてほしい」
そう伝える。
花菜は黙って、うん、と頷いた。
花菜の手を握る。
「距離を置いたあの日も、その前も、そして今も。
僕の気持ちは何も変わらないです。
何も変わらず、花菜のことが大好きです。
どうかもう一度、僕と0.5%の恋を始めてくれませんか?」
少しの間をおいて、
「もちろん花菜の気持ち次第だし、断ってくれていい。
手紙にも書いたけど、これとは関係なく、
僕は花菜の味方だから」
言い切った。
握っていた花菜の手はずっと震えている。
僕の手も、寒さと緊張と花菜の震えで震えていた。
見なくても分かる。
花菜はあの日と同じように泣いている。
「ゆっくりでいいよ。全部聞くから」
そう伝えた。
「ごめんね……ごめんなさい……わたし、わたし……」
僕は静かに目を閉じる。
こればかりはどうしようもない話だから。
静かに「うん、いいよ」と相槌を打つ。
「ごめんね。本当にごめんなさい。
たくさん傷つけちゃってた。
きっと私の知らないところでも、たくさん傷つけた。
許されちゃいけないくらい、傷つけた」
「そんなことはないよ。大丈夫だよ」
「距離を置くって決めたあの日、
エスカレーターで降りるまで見送ってくれてたこと、思い出したの。
ワタルくんのこと知っていながら、
ずっとそんなこと見せず、優しく楽しくそばにいてくれた。
たくさん愛をくれてた。
好きって、可愛いって言ってくれてた。
何も気づけてなかった。
ずっと優しさに甘えてた。
優しさに守られてたの」
「距離を置いた後、私、何度も見かけたの。
東さん? 仲良く話してるとこも見た。
すごく胸が苦しくなった。
でもね、私、同じことしてたって気づいたの。
しかももっと酷いことしてた。
だからごめんなさいって、ちゃんと謝らなきゃって」
「それはいいんだよ。仕方のないことだから」
「怪我した時に保健室に来てくれたことも、
手紙も、本当に嬉しかった。
本当に追い詰められてて、すごく救われた」
「それなら良かったよ」
「ワタルくんのことはね、高校入ってからも引きずってた。
でも、引きずっても仕方ないなって思ってた時に出会ったの。
授業が一緒になって、最初は顔がちょっと好きかもってくらいだった。
英語で自己紹介するってなった時、
好きな食べ物のことばっか話してるの。
なんか面白くて、バカだなーって思って、気になったの。
バレー部だっていうから、シンタロウくんにメアド聞いて、
すごく緊張した。
その後、文化祭で仲良く喋ってる子がいて、
彼女かなって思ったり、緊張もあってうまく話せなかった。
そしたら告白してくれて、毎日毎日幸せをくれた。
私のこと好きなんだなって、ずっと思わせてくれてた」
「ワタルくんとはね、引きずってるのかな、まだ好きなのかなって
思ってたんだけど、違うって分かった。
嫌な別れ方をしたことを後悔してただけだった。
今失ってしまった“好き”の方が、圧倒的に重かった。
ワタルくんとも話をして、
ワタルくんも何となくモヤモヤしてたみたい。
だからお互いスッキリはできた。
それも、距離を置いて時間をくれたからなの。
ありがとう」
「そっか。それは良かったよ」
花菜はカバンから何かを取り出した。
細い鎖が二本、絡まるように揺れている。
「誕生日にもらったネックレス。
大事にしてたのに、ちぎれたの。
ちぎってしまってごめんなさい。
これを見た時に、申し訳なさと……
別れたくないって気持ちがよみがえってきたの」
「いっぱいいっぱい傷つけて、
都合のいいことばっかりしてて、
ワガママで……こんな女、嫌かもしれない。
やっぱ嫌いになったかもしれない。
直すから、頑張るから……
好きです。
また私と付き合ってくれませんか?」
大粒の涙を流す花菜を、僕は抱きしめた。
「いいよ。いいに決まってる」
僕も涙が溢れた。
好きな子の涙には勝てない。
少し長めに抱き合い、
お互いの涙が落ち着いていく。
「これ使って」
花菜が、僕が渡したハンカチを差し出す。
「持ってたんだ」
そう言って受け取る。
お互い見つめ合って、笑い合った。
いつぶりだろう。
心から笑い合えたのは。
そこから、いろんな話をした。
衝撃的だったのは、
花菜がワタルくんと会わないように電車を変えていたこと。
メールを見た瞬間や、
いろんなところで花菜とワタルくんを見た時の気持ちも、
今となれば懐かしい。
花菜の声や匂いが、ずっとしていたこと。
体育館で目が合った時、
花菜も「目が合った」と思ったらしい。
そして花菜は携帯を出し、
つけているストラップを見せてきた。
僕があげた恋愛成就のお守りだった。
チリンッ、と小さく鳴る。
「鈴ついてたんだ。何も知らずに買ったから……
ヤケになって」
「叶っちゃったな」と花菜がつぶやく。
それで思い出したように、
僕は財布からおみくじを取り出す。
あの時引いたおみくじは大吉だった。
──待人、必ずきたる。準備すべし。




