第10話 アメジスト
僕は、キッチンの前で険しい顔をしていた。
包丁もまともに握ったことのない僕が、料理を飛び越えてお菓子作りをしようとしているのだ。
(決して料理の方が簡単というわけではない。)
二月十四日。
俗にいうバレンタインデー。
中学校とは違い、お菓子の持ち込みが許されている高校では、女子たちが手作りのお菓子を配っていた。
基本は女の子同士で渡し合っているが、優しい女子は男子にも恵んでくれる。
僕たち男子は、おこぼれであっても一個としてカウントした。
今まではこの最高で最悪なイベントにソワソワしながら、机の奥を探ったり、家に帰ってカバンの底を確認したりしていた。
成果は、もちろんゼロだった。
でも今回は違う。
花菜は「苦手だけど手作りしてみる」と宣言してくれていた。
「手作りって食べられる?」と気遣ってくれたけれど、花菜の手作りなら喜んで食べると高らかに宣言した。
僕は難易度なんて考えず、「チョコブラウニーが食べてみたい」と言った。
今でもブラウニーの難易度は分からない。
このやり取りが嬉しくて、ソワソワよりワクワクが勝っていた。
部活終わりに会う約束だったので、授業も部活もいつも以上に長く感じた。
いつもの公園で待ち合わせると、今日は僕の方が早かった。
ほどなくして花菜がやってきた。
紙袋を大事そうに抱えて、小走りで。
二月の空気は、十二月よりも冷たい気がする。
「寒いね」と鼻の頭を赤くしながら、へらっと笑う花菜。
思わず僕のマフラーを巻いてあげると、「匂いがして落ち着く」と言うので、逆に僕が気になってしまった。
ベンチに座ると、花菜は紙袋の中から「これは違う」と言って、フリーザーパックのクッキーをどけた。
友達に渡した余りだろう。
その奥から、可愛いラッピング袋を取り出す。
「バレンタインです。はい、どうぞ」
僕は「ありがとう」と受け取ったが、女子からのプレゼントに舞い上がって少し固まってしまった。
「どうしたの?」と覗き込まれ、「ごめん、浸ってた」と返す。
「今食べてもいい?」と聞くと、花菜は少し恥ずかしそうに言った。
「家で食べて何かあっても嫌だから……今食べてほしい」
仮に口に合わなくても、僕は嬉しいし、美味しいと思うだろう。
でも実際は普通に美味しくて、思わず普通のリアクションで「美味しい」と言ってしまった。
その素直な反応が良かったのか、花菜は大きく息を吐いていた。
「美味しい。ありがとう」
花菜がお腹いっぱいになるまで伝え続けたあと、「やっぱり作るのって難しい?」と聞く。
「難しいとかじゃないけど……
人に食べてもらうのは緊張するし、
それが好きな人だったら……」
後半はゴニョゴニョ言うので、嬉しくなって聞き返すと、横腹にパンチを食らった。
ふと、どけられたクッキーが目に入る。
「そっちのクッキー、まだ誰かにあげるの?」
「いや、あげた余りだから持って帰って食べるつもり」
「もらってもいい?」
「そんなにお腹減ってるの?」
「うん、美味しそうだから」
クッキーはクッキーでサクッとしていて美味しかった。
花菜は嬉しそうにしていた。
お腹が減っていたのもあるけれど、
「他の誰かが食べてるのに、僕が食べてないのが嫌だった」
というのが本音だった。
恥ずかしくて言えなかったけど。
ある程度いただいたところで、
これだけ手間をかけてくれたことが嬉しくなった。
「僕もホワイトデー作ってみるかー」
そう呟いたら、
「ほんと!? たのしみ!」
と花菜が目を輝かせてしまい、僕は引くに引けなくなった。
口は災いの元だ。
そして今、キッチンの前で険しい顔をしているのである。
何をしたらいいのか、さっぱり分からない。
そこに母親が現れた。
「険しい顔してどうしたの。お腹減ったの」
「母さんは料理とか出来るよな」
「いつもしてるからね」
「お菓子も作れたりする?」
「アンタが小さい頃は作ってあげたでしょ」
「簡単で、あまり見ない、そして美味しい。
そんなお菓子はあるのだろうか」
母親とこんな会話をしたことがないので、
いつものトーンでは喋れなかった。
「なんで急にお菓子なんか作りたくなったの」と聞かれ、
隠しようもないので、
彼女がいること、ホワイトデーに手作りを渡すと約束したことを正直に話した。
母親のニンマリした表情が、今も忘れられない。
母親の助言で、スノーボールクッキーを作ることになった。
材料を買い、言われたとおりに作り、
「ちょっと」という名のかなりの手伝いをしてもらった。
出来立てを食べてみると、自分でも驚くほど美味しかった。
母親が丸めたものは可愛らしいサイズだったが、
僕が丸めたものは雪だるまのようだった。
最初は雪だるまサイズをラッピングしていたが、
自信がなくなり、小さいサイズも包んで、どちらも持っていくことにした。
翌日、ホワイトデーがやってくる。
同じように部活終わりに待ち合わせる。
少し足取りの重い僕は、
−花菜もこんな気持ちだったのかな−
なんて考えていた。
バレンタインとは逆で、花菜が先に待っていた。
離れたところからでも、ウキウキが伝わってくる。
隣に座ると、カバンからラッピングを取り出す。
母親お手製の方を出そうとしたら、勢い余って二つとも出てしまった。
慌てて手元に寄せる。
「なんで二つあるの?」と聞かれ、
ことのあらましを白状した。
「完全な手作りじゃなくてごめん」と謝る。
少しの沈黙のあと、花菜が言った。
「その大きい方、今食べてもいい?」
「え? こっちの方が食べやすいし綺麗だよ」と母親のを見せる。
「お母様のも、良ければありがたくもらうよ。
せっかく作ってくれたんだもの。
でも今ここではこっちが食べたいの。
気持ちが伝わってくるよ。ありがとう」
僕は恐る恐る雪だるまサイズのクッキーを渡した。
花菜は大きいにもかかわらず、一口で食べてみせた。
飲み込むのに少し時間がかかる。
「美味しいよ!」
満面の笑みだった。
僕は大きく息を吐いた。
ホッとした。
クッキーを食べながら少し話して、バイバイすることにした。
花菜の帰る駅に着く。
「そうだ、ちょっと耳貸して」と言われ、
少しかがんで耳を寄せた。
一瞬の間。
「あのね。大好きだよ。
なんか言いたくなっちゃった。
じゃあね」
そう言って、小走りで駅に消えていった。
花菜が乗ったであろう電車が見えなくなるまで、
僕はその場から動けなかった。




