3.
「で? で? 相馬ちゃん? 下のお名前は?」
正体を明かした瞬間、旧知の仲かと思えるほどにフランクに声をかけてきた彼女は、いつの間にか隣に美凪を座らせて迫っている。
「ぽひぃ」
一方の美凪は完全に脳がフリーズしてしまい、エラー音を吐くだけになっている。
「お前性格悪いぞマジで」
「あら。自分のファンにファンサービスして何が悪いの?」
彼女の性格を知り尽くしている梓は、後悔よりも反省を先にしている。不用意に美凪を彼女に近付けるべきではなかったし、言葉ではなく手で制するべきだった。
「碧生優乃。相馬が誰より知ってるyu-no本人で、俺らと同じ九井出身」
優乃はさらにウインクを飛ばし、美凪の顔面を紅潮させる。もはやファンサービスで殺そうとしているのではないかと疑うが、自身のファンには絶対に悪いところを見せないことをモットーに生きている優乃にとってはまだ手ぬるい。
「こんな可愛い子がファンだなんて光栄よね。んっふっふ、梓じゃあ相馬ちゃんにこんな顔させられないんじゃない?」
「俺がこんな顔させてどうするんだ。ほら相馬、いっぱいいっぱいになってるとこ悪いが、少しだけ元に戻ってくれ」
梓の声でようやく意識を戻すが、その直後に優乃が眼前に迫っている。悲鳴はもう喉元まで出かかっており、昏倒する用意も覚悟も整っていた。
にゃあぉ。
ふと、白猫の声が鮮明に耳を抜けた。すっと熱が引いて、美凪はミィの方を見てしまう。相変わらず梓の隣で自身の毛並を整えているが、まるで何かを話すように視線を美凪と合わせた。
「えっと、と、とりあえず。お話を進めましょ。ね?」
手を叩きながら立ち上がって提案すると、つかつかと梓の隣へ歩み寄る。分かっていると言わんばかりに、ミィはソファの背もたれへ飛び乗ってスペースを空ける。案内されるがまま、美凪はそちらへ腰を下ろした。
「じゃああらためて。本題……の前に」
小さなハンドバッグから、優乃は一つの白い封筒を取り出してきた。
「はい、約束のチケット。いつも通りの関係者席。梓、熱狂するファンに囲まれるの申し訳ないからっていつも関係者席なのよ」
「自分でチケット取ってるわけじゃないからな。お前の歌は好きだけど、熱量が違い過ぎる。見てみろ、失神しかけてた相馬を」
居た堪れなくなる美凪だが、それよりも意識は梓が受け取ったチケットに引かれてしまう。
「一応相馬の分ももらったんだけど、行くか?」
「ぜひ!」
封筒を開いて中を確認すると、梓は鋭い視線を優乃に向けた。
「おい、何で一枚だけなんだ?」
駄々をこねているわけではない。頼んだことに関して拒否しなければ、必ずその通りにやる人間が碧生優乃なのだと知っているからだ。
つまり、ここには彼女なりの意図が含まれているのだと、梓はすぐに気付いた。
「電話で言ったでしょ昨日。今日は私、依頼人として来たの」
怯むことなく、挑戦的な笑みを返す優乃。顎にあてがったしなやかな指が、その顔に少しだけ色気を含ませる。
「梓には今回、関係者としてじゃなく、警護として来てほしいの」
その指を梓に突き付け、笑顔を消してみせる。真剣な眼差しの彼女に、さらに眉間の皺を深めて尋ねる。
「今回のライブに関して、何かあったんだな?」
深堀りせずとも理解してくれたことに満足し、優乃はまた笑みを取り戻して頷く。
「そうよ。これを見てちょうだい」
突き出してきた茶封筒を受け取ると、中を恐る恐る確認する。一枚の紙が入っており、開いてみるとそこには呆れてしまう文面が印刷されていた。
「これ、警察には?」
「言ったら中止しろってなるでしょ。もちろん事務所にも言ってないわ」
めいっぱい吸い込んで、深々と溜め息として全て吐き出した。
「お前な……順番が違うだろ。相談所に来るより、警察に相談して警備の強化を考えてもらえよ、素人の俺じゃなく」
わざとらしく梓の肩に頭を乗せて、無理矢理美凪はその文面を覗く。
来たる8月6日(土) 九井花火大会にて
開催されるyu-no凱旋ライブ
即刻中止を求める
要求に応じなければ、yu-no自身が
大きな傷を負うことになる
「梓先輩、これ脅迫状じゃないですか!」
冷静に諭している梓に、美凪は怒りを隠せずその腕を掴んで揺さぶる。想定内の行動に呆れながらも、梓は身を任せて揺られることにした。
「俺が言ってるのはこいつに対しての心配じゃなくて、見に来るお客さんの心配だよ」
その言葉に腕を止め、じっとその横顔を見つめる。説明することも面倒くさそうで、唇を尖らせて不快感を露にしている。
「もしここに書いてあることを、優乃以外の人間に標的を変えたらどうするんだ。そんなことがないように、ファンを守るのもお前のやるべきことだろ」
仮にもyu-noというアーティストは、新曲を出せば必ずその月はチャート一位に君臨し続けてしまい、コラボレーション商品は即完売。髪型に関しては社会現象を巻き起こす、影響力の権化のような存在である。
今回のような脅迫状が、yu-no自身だけを標的とする、とは記載されていても鵜呑みにすることは出来ない。どれほどの人間が九井市に集うのか予想出来ないからこそ、非常に危険な状態を助長させてしまうことになるのだ。
「いいえ、断言するわ。この標的は、私だけよ、絶対に」
スパッと言い切る強さに、梓はつい顔をしかめてしまう。それほど強く言うのであれば、それなりの確証のある理由があるのだろう。その理由を、まだ優乃は話してくれていないのだから、不審に思わざるを得ない。
「……お前、何があった?」
故に、梓はそれを掘り出さなければならない。
「だからこそ、私は相談所に来たのよ。樫木先生にも頼らないと、今回はどうにもならない」
ボディーガードを梓に依頼するだけなら、電話口でも済んだだろう。引き受けるか否かは置いておいて。樫木が必要になるというのであれば、およそ想像の埒外に及ぶもののはずだ。
「ちょっと待ってろ。先生呼んでくるから」
梓は立ち上がって、談話室を急いで出て行く。その後に続くのは、白猫ミィと情けない美凪の声だった。
「えっ、待って先輩、私これあの、えっ、ウソでしょ⁉」




