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契約が決まってからの榛名蓮の集中力と仕事の精度は、社内の誰もが目を見張るほどだった。
「榛名くん、先日の提案書、クライアントの役員陣に大絶賛されたよ。久保田さんの教えが良いのもあるだろうけど、君の分析の深さはもう一人前どころじゃないね」
他部署の部長からかけられた言葉に、蓮は「ありがとうございます。久保田さんにご指導いただいているおかげです」と、完璧な笑みと角度でお辞儀を返した。
隙のない、洗練されたビジネスマナー。かつての右も左も分からず、久保田の背中を慌ただしく追いかけていたおどおどした面影は、今の蓮には一切ない。
(もっと……もっと完璧にならなきゃ)
自席に戻った蓮は、パソコンの画面に集中しながら唇を噛みしめた。
あの一件以来、蓮は自分の中で暴れ出す見苦しい独占欲を殺すため、仕事という鎧を身にまとっていた。
久保田に認められたい。久保田の隣に並びたい。
誰にでも優しい彼にとって、単なる「可愛い後輩」ではなく、誰よりも信頼される「唯一無二のパートナー」になりたい。
その一心で、蓮は久保田から振られた仕事だけでなく、彼の負担を減らすための事前準備やデータ解析まで、先回りして完璧にこなしてみせた。久保田の背中に追いつくために、寝る間も惜しんで知識を詰め込んだ。
だが――皮肉にも、蓮が成果を出せば出すほど、二人を包む空気は冷ややかさを増していった。
「久保田さん、来期のマーケティングプランの修正版です。懸念されていたコストの推移と、他社比較のデータも追加しておきました」
「……あ、ああ。ありがとう、榛名」
デスクで資料を受け取った久保田は、差し出された厚みのあるファイルをめくり、目を見開いた。
久保田が指示を出そうと考えていた以上の内容が、完璧なロジックでまとめられている。指摘するスキすらどこにもない。
「すごいな……完璧だ。正直、私が手を加える部分はどこにもないよ」
久保田は力なく笑い、資料から目を上げて蓮を見た。
「本当に、君はもう私の手を離れも安心して仕事を任せられる。……たくましくなったよ」
褒めているはずの声はどこか掠れていて、その瞳には深々とした寂しさが滲んでいた。
(――違う)
蓮の胸がぎゅっと締め付けられた。
「手を離れた」なんて思ってほしいわけじゃない。突き放したいわけでもない。ただ、あなたの隣に立つ価値のある人間だと証明したかっただけなのに。
「……チームの為に効率化を進めているだけです。これなら、久保田さんも他の部署の方との調整に時間を使えますから」
「他の部署……?」
「ええ。久保田さんはお忙しいでしょうから。僕は自分の仕事を進めます」
嫉妬と悲しみが混ざり合った感情を隠すため、蓮は無表情を装って素っ気なく言い捨て、くるりと背を向けた。
その冷淡な態度に、久保田は差し出しかけた手を宙で止め、静かに引いた。
(……そうか)
久保田は、去っていく蓮の細い背中を見つめながら、自嘲気味に息を吐いた。
蓮の仕事ぶりは完璧だった。以前のように「ここが分かりません」と上目遣いで尋ねてくることもなければ、「久保田さん、コーヒー淹れました」と無邪気な笑顔を見せてくれることもなくなった。
打ち合わせでのやり取りは必要最低限。提出される資料は完璧で、久保田がアドバイスをする余地すら残されていない。
久保田の目に映る蓮は――上司のとしての自分の助力を必要としなくなり、静かに心を離していっているようにしか見えなかった。
『仕事なんで』と突っぱねられたあの夜から、蓮の心はもうここにはないのだと。
(俺が……甘えていたのかな)
「指導」という名目のもと、蓮を自分の手元に留め置き、彼が頼ってくれることに優越感と安心感を覚えていたのは自分の方だ。
成長した蓮が自分の力で立ち前へ進む、上司としては喜ぶべきことのはずなのに。胸を刺すこの痛みを、久保田はどうすることもできなかった。
その日の夜。フロアには、残業をする久保田と蓮の二人だけが残っていた。
静かな室内にはカタカタとキーボードの打鍵音だけが響く。かつてなら「ちょっと休憩にしませんか」とどちらからともなく声をかけ、缶コーヒーを飲みながら笑い合っていた時間だ。
しかし今、二人の間を埋めているのは、重苦しく痛烈な沈黙だけだった。
蓮はパソコンの画面を見つめながら、視界の端で久保田の影を追う。
久保田はどこか疲れた顔で、自分のデスクの書類を整理していた。引き出しを片付け、デスクの上を綺麗に清掃している。
その動作が、まるで「引き継ぎ」の準備をしているかのように見えて、蓮の手がピタリと止まった。
(まさか……僕を外すつもり……?)
成果を出せば出すほど、久保田の笑顔が減っていった。
優しかった瞳はどこか遠くを見るようになり、今や視線すら合わない。
(追いつきたかっただけなのに。認めてほしかっただけなのに……僕が生意気になったから、もう邪魔になったの……?)
必死で作った頑丈な鎧の隙間から、ドロドロとした不安と悲しみが溢れ出していく。
「……榛名」
突然名前を呼ばれ、蓮は跳ね起きるように顔を上げた。
久保田が、デスクの端に腰をかけ、どこか諦めたような、痛々しいほど優しい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「今受けているプロジェクトが一段落したら、来期からは君は担当を外れて……いや、君が主担当としてチームを引っ張っていく形に改編しようと思う。部長にもそう話しておくよ」
「……え?」
「君はもう、私のサポートなんて必要ない。私に付いているより、一人で動いた方がずっと君の才能を発揮できる」
久保田の言葉は、蓮にとって「お前はいらない」という宣告と同じだった。
「……嫌です」
かすれた声が出た。
「榛名?」
「嫌です……っ! なんで、そんなこと言うんですか……!」
蓮は椅子を蹴るようにして立ち上がった。固く結んでいた唇が震え、押し殺していた感情が、ボロボロと溢れ出していく。
「僕が……僕が何か失敗しましたか!? 成果が足りなかったですか!? だから、僕を切り離すんですか……!?」
「ち、違う! 違うんだ榛名、逆だよ!」
久保田は驚いて立ち上がり、取り乱す蓮へ歩み寄った。
「君が完璧すぎるからだ! 成長して、私が教えることなんて何一つなくなって……君はもう、私と一緒に仕事をするのが苦痛なんだろう? 私から離れたがっていると思っていたから……!」
「そんなわけないだろ!!」
蓮の叫びが、静まり返ったオフィスに響き渡った。
目には、今にも溢れ出しそうな涙が溜まっている。
「離れたがってるわけないじゃないですか……! 僕がどれだけ……どれだけ必死で久保田さんの背中を追ってたか、何も分かってない……っ!」
久保田は息をのんだ。
目の前で肩を震わせ、子供のように泣きじゃくる蓮の姿に、固まっていた思考が激しく揺さぶられる。
「久保田さんが誰にでも優しくするから……他の誰かじゃなくて、僕だけを見てほしいから……っ! 頼りない後輩じゃなくて、隣に立てる人間になりたくて……っ!!」
ポロポロと涙をこぼしながら、蓮は両手を握り締
「仕事なんか……成果なんか……久保田さんに認められないなら、意味ないのに……っ」
久保田の瞳が、衝撃で見開かれた。
すれ違っていたピースが、一気に噛み合っていく。
冷たい態度も、凄まじい成果も、自分から離れるためではなく――自分を引き留め、自分に振り向いてほしい一心だったのだと。
「榛名……君は……」
久保田の手が、ゆっくりと伸びる。
握り締める蓮の拳に久保田の大きな手が重なった。




