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「榛名、今度の日曜、予定はあるか?」
翌週の金曜、残業も終わりに差し掛かったオフィスで、久保田は蓮のデスクの端にそっと手を置き、低く落ち着いた声で話しかけた。
蓮はパソコンのキーボードを叩く手を止め、顔を上げる。久保田の表情には、ここ数日見せていたどこか遠慮がちな影はなく、まっすぐな温かさがあった。
「……日曜日、ですか。特にありませんが」
「なら、付き合ってくれないか。新しいプロジェクトの契約が無事に取れた慰労会だ。……二人きりで、美味しいものでも食べに行こう」
『二人きりで』という言葉が、蓮の胸を強く突いた。
社内での「上司と部下」という線を引こうと必死になっていた自分に対して、久保田はその境界線をすんなりと越えてくる。仕事の慰労と言いつつも、その眼差しには明らかな意図――すれ違いを埋めようとする真摯な思いが宿っていた。
「……僕と行っても、楽しくないと思いますよ。最近、態度も悪かったですし」
俯きながら小さく吐き捨てた蓮の言葉に、久保田はフッと柔らかく目を細めた。
「私が君と行きたいんだよ、榛名。……ダメか?」
少しだけ首をかしげて、悪戯っぽく、けれど切なく微笑む上司。そんな顔をされたら、拒絶できるはずがない。
「……行きます。……行きたいです」
ボソリと答えた蓮に、久保田は満足そうに「よし、じゃあ日曜の夕方、駅前で」と言って、いつもよりずっと軽い足取りで戻っていった。
日曜日。約束の店は、都会の喧騒から少し離れた路地裏にある、落ち着いた雰囲気のイタリアンレストランだった。照明は落とされ、テーブル同士の間隔も広く、周囲の目を気にせず話ができる空間だ。
グラスに注がれたスパークリングワインが、小さな泡を立てている。
「まずは、今回のプロジェクトの大成功に。お疲れ様、榛名」
「……お疲れ様です、久保田さん」
グラスを合わせ、静かに口をつける。
久保田は私服姿だった。普段のスーツ姿もスマートで魅力的だが、落ち着いたトーンのニットを纏った今日の久保田は、どこか隙があって、男としての色気が際立っている。それだけで蓮の心臓はうるさく跳ねていた。
美味しい料理が運ばれ、最初は仕事の雑談などを交わしていたが、メインの肉料理が運ばれてきた頃、久保田がふっとグラスを置いた。
「榛名。今日は仕事の話をしに来たんじゃないんだ」
まっすぐに見つめられ、蓮はフォークを動かす手を止めた。胸がキュッと締め付けられる。
「……はい」
「ここ最近、君が私を避けていただろう。……何か、私に怒っているのか? それとも、僕が何か君を傷つけるようなことをしたか?」
包み込むような優しい声。逃げ場を無くすような、あまりにも真面目な問いかけ。
蓮は必死に視線を泳がせた。
(言えるわけない……。『他の女性社員と楽しそうに話しているのが嫌だった』なんて。『誰にでも優しいあなたが憎らしい』なんて……そんな子どもみたいな嫉妬、言えるわけない)
「……違います。怒ってなんていません。ただ、仕事に集中したかっただけで……」
「嘘だな」
久保田の短い一言が、蓮の言葉を遮った。
久保田は身を乗り出し、テーブル越しに蓮の震える手にそっと自分の手を重ねた。温かい体温が皮膚を通して伝わってきて、蓮は息を飲んだ。
「君の考えていることは、私には大体わかるつもりだ。……でも、今回はどうしてもわからない。君が冷たい目を向けるたび、私の胸がどれだけ痛んだか……分かるか?」
久保田の声に、かすかな揺れが混ざっていた。いつも完璧で、余裕のある上司が見せた、初めての「弱さ」。
「久保田、さん……」
「私は、他の誰でもない、君に笑いかけてほしいんだよ。仕事の相棒としてだけじゃなく……榛名にとって、私が特別な存在でありたいと思っている」
耳を疑うような言葉だった。
静かな店内で、久保田のまっすぐな告白が蓮の心にじんわりと染み込んでいく。
自分だけが苦しくて、自分だけが独占欲に苛まれていると思っていた。けれど、久保田もまた、自分とのすれ違いに心を痛め、自分からの感情を求めてくれていたのだ。
「……ずるいです」
蓮は胸の奥から込み上げる熱いものを抑えきれず、ぽつりと漏らした。
「何がだ?」
「……誰にでも優しいから。会社で、他の人と楽しそうに話してるのを見るのが、ずっと嫌だったんです。……僕だけを見てくれればいいのにって、そんな醜いことばかり考えて……だから、仕事で認めて貰えれば僕だけを見てくれるようになると思って」
絞り出すように打ち明けた本音。
隠していた自分の泥臭い感情を曝け出し、蓮はギュッと目を瞑った。嫌われるかもしれない、という恐怖が背中を駆け抜ける。
だが、返ってきたのは、引き寄せられるような力強い抱擁――ではなく、手重ねられた久保田の手の、優しい握り返しだった。
「……そうだったのか」
久保田の声には、安堵と、隠しきれない愛おしさが満ちていた。
目を開けると、久保田は心底嬉しそうに、けれど少し困ったように眉を下げて笑っていた。
「なんだ……そんな可愛い理由だったのか。俺の取り越し苦労だったな」
「か、可愛くないです! 僕は真剣に……」
「ああ、ごめん。でも、すごく嬉しいよ」
久保田はそのまま蓮の手を引っ張り、指先を自分の口元へと寄せて、静かに誓うように小さなキスを落とした。
周りからは見えないテーブルの陰で、密やかに行われたその行為に、蓮の顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「これからは、ちゃんと伝えるよ。俺が本当に見つめているのは、世界中で君だけだってことをね」
囁かれた甘い言葉に、すれ違っていた二人の心の距離は一気にゼロになった。
冷たく冷え切っていた蓮の胸の奥が、久保田の熱によって、ゆっくりと溶かされていくのを実感していた。




