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道化師の最後の舞



イラリアは、目の前で何かがゆっくりと浮かび上がっていくのを見つめていた。


まるで――


何もないところから現れたかのように。


「……何が起きてるの?」


「私が見ているこれは……何?」


道化師が、先ほど何かを置いた場所。


そこから――


小さな何かが姿を現した。


少女の姿をした、小さな人形。


その輪郭さえ、まだはっきりとは見えない。


イラリアは、しばらくの間それを凝視した。


「……人形?」


「それとも、ただの置物?」


それ以上のことは、何も分からなかった。


ただ――


少女が、空気の隙間からそのまま抜け出してきているように見えた。


そして、どこからともなく――


奇妙な旋律が、静かに流れ始めた。


やがて、その音は一瞬だけ途切れた。


広場が静寂に包まれる。


イラリアは、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「……何を企んでいるの?」


「次は……どんな攻撃が来るの?」


どうにも嫌な予感しかしない。


剣の柄を握る指が、わずかに震えていた。


「私の身体は……もう限界に近い。」


「でも……休んでいる暇はない。」


イラリアは剣を少し持ち上げた。


――なら、道化師の坊や……


――いつまでそこで突っ立っているつもり?


返事はない。


イラリアは片眉を上げた。


――それとも……


――私にその旋律を聞かせるためだけに、これを出したの?


剣をさらに持ち上げる。


――これがあなたの全てなら……


――残った力を全部使って、攻撃するわ!


その時――


道化師が、一本の指をゆっくりと空へ向けた。


まるで――


「待て」


とでも言うように。


そして、小さな人形を指差した。


次の瞬間――


再び、旋律が流れ始めた。


今度は、よりはっきりと。


そして――


どこか温かい。


やがて、どこからともなく歌声が聞こえてきた。


「夜は眠る……木々の上

風も眠る……家々の向こう」


人形が、ゆっくりと回り始めた。


とてもゆっくりと。


単純な動き。


静かな動き。


まるで――


古いオルゴール人形のように。


それでも、イラリアは目を離すことができなかった。


「ひとり歩いた……雨の中

声もなく……道もなく」


その瞬間――


人形の髪が、初めて動いた。


小さな髪の束が、顔の周りで揺れ始める。


風など、吹いていない。


「……」


「……自分で動いた?」


回転は続く。


すると――


その身体に、新たな細部が現れ始めた。


服の裾。


淡い青色。


小さな花のような模様。


「服まで……」


「……変わってる。」


「君は来た……雨の中

迷いながら……寒さに震えて」


髪がさらに伸びていく。


顔の両側へと垂れ下がる。


そして――


ゆっくりと動き始めた。


まるで、旋律に合わせて呼吸しているかのように。


イラリアは、半歩だけ後ずさった。


「これは……置物じゃない。」


「形を……作っている。」


回転が続く。


脚が現れた。


続いて――


腕。


そして、顔の輪郭が少しずつはっきりしていく。


「だから私は……手を差し出した

君は私に……笑顔をくれた」


少女が、片手を持ち上げる。


その動きは、歌の言葉と完全に重なっていた。


まるで――


少女が歌に合わせて踊っているのではなく、


歌そのものが、少女を動かしているかのようだった。


やがて、ドレスが完全な形を成した。


淡い青色。


裾には、花を思わせる模様が施されている。


左側には長いスリットが入り、脚の近くまで伸びていた。


そして――


少女の髪は、淡い紫色。


顔へと垂れ落ち、そのほとんどを隠している。


「……何、これ?」


イラリアは、身体の周囲にかすかな圧力を感じた。


マナによるものではない。


もっと別の何か。


肌が粟立つような――


そんな感覚だった。


「それからの日々……

夜はもう……長くなかった」


少女が回る。


一度。


そして、もう一度。


だが、その回転は先ほどよりも滑らかになっていた。


より――


人間らしく。


髪が、回るたびに揺れる。


ドレスが、身体の周りで静かになびく。


「星を数えた……夜の下

ひとつは私……ひとつは君」


少女が止まった。


そして――


顔を上げる。


初めて、その顔の一部が露わになった。


左目の下から――


首へと伸びる傷跡。


イラリアの身体が凍りついた。


「……」


「……どうして、こんなに不安になるの?」


その時、旋律がゆっくりと変化し始めた。


音が大きくなったわけではない。


速くなったわけでもない。


ただ――


温かさだけが、失われていった。


「雨が降れば……屋根の下

冬が来れば……もっと近く」


少女の手が胸元へ向かう。


そして――


止まった。


「二人でいれば……

この家はずっと……暖かかった」


イラリアの指が、剣の柄を握ったまま震える。


「これは……」


「もう……ただの演目じゃない。」


そして――


「けれど……」


少女が動きを止めた。


一瞬――


完全な静寂。


「夜は眠り……目覚めなかった

風は止まり……帰ってこなかった」


小さな人形が、少しずつ大きくなっていく。


そして、その動きも変わっていった。


もう、人形の動きではない。


もっと静かに。


もっと――


人間らしく。


「扉を開けた……

そこには誰も……いなかった」


少女が片手を上げる。


そして、一歩前へ進む。


「ただ……」


止まる。


「その日の雨は……赤かった」


少女の顔に、悲しみが浮かぶ。


そして髪がさらに垂れ下がり――


その顔のほとんどを覆い隠した。


「君を呼んだ……

けれど君は……答えなかった」


少女が前へ手を伸ばす。


まるで、遠くにいる誰かを呼ぶように。


「もう一度呼んだ……

返ってきたのは……私の声」


少女が、わずかに首を傾ける。


すると――


かすかな声が、周囲に響き始めた。


「あの夜から……

私は歩き続けた」


少女が歩き始める。


一歩。


そして――


もう一歩。


「君を探して……道の中

君を探して……夢の中」


少女の目が、周囲を見渡す。


その目は、ほとんど見えない。


「君を見つけるたび……

私はひとりで……目を覚ました」


少女が止まる。


静寂。


そして再び――


旋律が変わる。


「でも……いいの」


少女が顔を上げる。


「今はもう……分かったから

どこで私は……待てばいいのか」


小さな人形が、さらに大きくなる。


やがて――


人間とほとんど変わらない大きさになった。


同時に、その動きも変化していく。


もう、人形の動きではない。


歩く。


振り向く。


手を動かす。


その全てが――


歌の旋律と完全に重なっていた。


「もし君がいつか……帰ってきたら

私は扉を……開ける」


少女の手が現れる。


ゆっくりと持ち上がる。


「もう一度君に……手を差し出す

初めてそうした……あの日のように」


手のひらを開く。


そして――


ゆっくりと閉じる。


まるで、そこにいない誰かの手を握るように。


「だから……怖がらないで」


少女は止まった。


そして、顔を上げる。


「今度こそ……

君の手を……離さない」


指を強く握り込む。


「もう二度と……

君を……行かせない」


そして――


もう一歩。


それは、もはや人形ではなかった。


一人の少女だった。


少女はイラリアの前で立ち止まった。


淡い紫色の髪が、その顔のほとんどを覆っている。


そして――


もう片方の手が現れた。


ゆっくりと持ち上げる。


その手には、長い針が握られていた。


髪に差していた――


長い針。


少女はそれを引き抜く。


すると、髪の一部が横へと流れ落ちた。


イラリアの身体が強張る。


「……身体が、動くことを拒んでいるみたい。」


剣の柄を強く握り直す。


そして――


再び、旋律が流れ始めた。


静かで。


温かく。


それなのに――


恐ろしい。


「夜は眠る……木々の上

風も眠る……家々の向こう」


イラリアは、一瞬だけ息を止めた。


同じ旋律。


同じ言葉。


けれど――


最初に聞いた時とは、何かが違っていた。


「おいで……

ずっと待っていたの」


イラリアの感覚が、突然鋭く研ぎ澄まされた。


剣の柄を握り込む。


「この少女……」


「危険……!」


少女が、もう一歩進む。


「おいで……」


イラリアの目が大きく見開かれる。


そして――


駆け出した。


「シュゥゥゥッ!」


「この家はまだ……暖かいから」


さらに距離を詰める。


速く。


もっと速く。


剣は頭上に掲げられている。


「私が……届く。」


「何かをする前に……私が先に届く!」


あと一歩。


イラリアは剣を突き出した。


その瞬間――


少女が顔を上げた。


「たとえ……

ここにいる誰もが……もう死んでいたとしても」


「ドォォォォォォォォン!!」


「カァァァン!!」


火花と砂埃が一気に舞い上がった。


イラリアが動きを止める。


静寂。


彼女は――


少女の後ろに立っていた。


額から、一滴。


そして、もう一滴。


血が流れ落ちる。


イラリアは自分の剣を見る。


その刃先が――


折れていた。


「……いつの間に?」


少女は動かない。


淡い紫色の髪だけが、風に揺れている。


ドレスも、かすかに揺れている。


その姿は――


何事もなかったかのように静かだった。


イラリアは額へ手を当てる。


指についた血を見る。


そして――


折れた剣を見る。


「私の防御を……」


「気づかないうちに、突破した……?」


少女へ視線を向ける。


「見えていたのに……」


「それでも、私より速かった。」


すると――


再び旋律が始まった。


……


イラリアは少女へ振り返った。


折れた剣を持ち上げ、その刃先を見る。


「本当に……この剣の刃を折ったの?」


「その……針みたいなもので?」


「いや。」


「私は見ていた。」


「この目で、確かに見ていたのに……」


「何もできなかった。」


身体が強張る。


心臓が激しく鼓動を打ち始めた。


ハァ……


ハァ……


ハァ……


「このままじゃ……長くは続かない。」


「身体中の筋肉が、痛みを叫んでいる。」


「試してみたいことはあった……」


「でも、この少女はマナを使っていない。」


「動きが速い……」


「さっき道化師の攻撃を捉えた、私の目よりも……」


少女を見る。


「それに……あの無口な道化師。」


「フゥ……」


「このまま続けるわけにはいかない。」


「もう……時間をかけすぎた。」


だが――


もう一つ、気になることがあった。


「どうして……この騒ぎなのに、兵士が一人も来ないの?」


「避難誘導にかかりきりなの?」


「でも……この破壊の規模なら……」


「誰かが必ず気づくはず。」


「まして、この街には聖女サニアがいる。」


「こんな事態を……放っておくはずがない。」


イラリアは一瞬、動きを止めた。


震える両手を見る。


「……待って。」


「これ……本当に私?」


「誰かに助けてもらうのを……待つほど、私は弱くなったの?」


「何をしてるの、イラリア?」


指を強く握り込む。


「こんなにも脆いのなら……」


「こんな考えに縛られるくらいなら……」


「何の意味もなく死ぬほうがいい。」


「誰かに救われるのを待ちながら生きるくらいなら……」


突然――


身体中の細胞が、何かを感じ取った。


「……えっ!?」


イラリアは、見ることさえせずに剣を持ち上げた。


「カァァァァァン!!」


針と刃が激突する。


火花が飛び散り、衝撃波が周囲を震わせた。


「ギィィィィン!!」


剣が針の上を滑っていく。


その瞬間――


少女の顔が、イラリアの瞳に映った。


「この少女……!」


「速すぎる……!」


「さっきまで、目の前にいたのに……」


「どうして、もう私のところまで……!?」


刃が滑り続ける。


「ガァァン!!」


イラリアは針を弾き飛ばすように押し返し、二歩後退した。


だが――


少女の姿が、目の前から消えた。


「シュッ!!」


次の瞬間――


少女が、イラリアの横に現れた。


「カァン!!」


イラリアは剣を持ち上げる。


二撃目――


「カァン!!」


三撃目――


「カァン!!」


針が、彼女の腹部すれすれを通り過ぎる。


イラリアは最後の瞬間に身体を逸らした。


「シュッ……!」


衣服の端が切り裂かれる。


「くっ……!」


少女は、呼吸する暇さえ与えなかった。


「ドォン!!」


正面から突っ込んでくる。


「カァン!」


イラリアが受け止める。


「カァン!」


二撃目。


「ガァン!」


三撃目。


そして、針が下へ振り抜かれる――


「ギィィィン!!」


イラリアは、間一髪で剣を頭上へ掲げた。


両腕が震える。


「速い……」


「まだ……速くなってる。」


その一撃に押され、イラリアは後方へ飛ばされた。


だが、少女はすぐに追いついてくる。


走る。


その後ろを――


少女が追う。


髪が顔の周りで揺れている。


瞳は――


見えない。


ハァ……


ハァ……


ハァ……


「いつまでも……追い詰められる側ではいたくない。」


「このままじゃ……何も前に進まない。」


「それに……あの道化師のところへ行くのも……」


「あの少女のせいで、ほとんど不可能になっている。」


少女が背後から迫る。


跳ぶ。


そして――


針をイラリアの頭へ叩き落とす。


「シュゥゥゥッ!!」


イラリアは両手で剣を掲げた。


「カァァァァァン!!」


針と刃が激しく衝突する。


「ギィィィィィン!!」


剣が両手の中で大きく震えた。


足が半歩、後ろへ下がる。


「私の剣……」


「もう……これ以上は、ほとんど耐えられない。」


刃を見る。


「……いや。」


「むしろ……よく耐えてる。」


「最初から……」


「あの道化師の攻撃を、これで防ぎ続けて……」


「その上で、今度はこの少女……」


「カァン! カァン! カァン!」


攻撃が連続する。


上から――


「カァン!」


下から――


「ガァン!」


横から――


「ギィィィン!」


イラリアは、もはやかろうじてついていくだけだった。


「ドワーフの街で作られた剣じゃなかったら……」


「最初の時点で、とっくに砕けていたでしょうね。」


「ドォォン!!」


少女の一撃が、彼女のすぐ横の地面を叩き砕いた。


石が飛び散る。


イラリアは後方へ吹き飛ばされる。


ハァ……


ハァ……


ハァ……


額に汗が浮かび始める。


「……この状況、好きじゃない。」


「たとえ戦っているとしても……」


「こんな姿を見せるのは、好きじゃない。」


「私は女の子なのよ。」


「完璧であるべきなのに。」


その場で立ち止まる。


深く息を吸う。


「……もういい。」


少女を見る。


静かだった。


言葉もない。


感情もない。


戸惑う様子すらない。


――あなた……


――本当に強いわね。


――でも、あの道化師と同じくらい無口。


「あなたが本当に人間なのか……」


「それとも、あの坊やに操られているだけの人形なのか……」


「私には分からない。」


「でも……すぐに終わらせる。」


「時間がないの。」


二人が同時に駆け出す。


「シュゥゥゥッ!!」


激突。


「カァン! カァン! カァン!」


一撃。


受ける。


後退。


攻撃。


「カァン!」


横から。


「カァン!」


上から。


「ガァン!」


下から。


二人の周囲の地面が、攻撃の威力に耐えきれず崩れ始める。


「ガラガラガシャァァン!!」


地面が裂ける。


石が飛び散る。


砂埃が舞い上がる。


だが――


最後に最も追い詰められていたのは――


イラリアだった。


彼女は素早く後退する。


そして、自分の剣を見る。


残っているのは――


もう半分にも満たない。


ハァ……


ハァ……


ハァ……


ハァ……


イラリアは額の汗を拭った。


「……本当に、これは好きじゃない。」


少女を見る。


相変わらず静かだった。


服の一部が、ほんの少し破れている。


それだけ。


汗もない。


疲労の色もない。


迷いさえない。


イラリアは深く息を吸った。


すると――


周囲の全てが、ゆっくりになった。


目を閉じる。


「最初から……」


「私は、マナを使うのを避けていた。」


「道化師の攻撃が……マナによって強化されていると思っていたから。」


「そして、ある瞬間……」


「自分のマナそのものが、吸い取られているような感覚があった。」


「そして……あの光の塊と一緒に、取り込まれていくような……」


「だから……」


「私は、できるだけ少ないマナしか使わなかった。」


「内臓を守るために……最低限だけ。」


「でも……この少女は違う。」


「彼女はマナを使っていない。」


「攻撃にも、マナを使っていない。」


「それに……目覚めてから……」


「私の中で、何かが変わった気がする。」


「この変化だけで……」


「この戦いを終わらせられる?」


イラリアは少女を見る。


少女は、こちらへ近づいてくる。


その髪の一房が、左目の下から首へ伸びる傷跡に触れた。


「……いや。」


「私は……やるべきことをやる。」


「何の意味もなく死ぬか……」


「それとも……自分の役目を果たしてから死ぬか。」


イラリアの身体から――


マナがゆっくりと立ち上り始めた。


だが――


いつものものとは違っていた。


軽い。


静かで。


そして――


温かい。


「これは……いつもの私の気配じゃない。」


「もっと軽い。」


「もっと静か……」


「力が……増しているような感覚がある。」


「でも……」


「それは……私の力だけじゃない気がする。」


それでも――


マナは静かに外へと溢れ出していく。


その時。


イラリアは、何かに気づいた。


ほんの小さな動き。


あの少女が――


手を動かした。


いや……


指だ。


指先が、一瞬だけ震えた。


「……!」


「……あの道化師が動かした?」


「いや。」


「……違うと思う。」


「今の動きは……」


「自分の意思というより……無意識に近かった。」


「なら……」


「この少女には……自分自身の意識がある?」


「まさか……」


「私に……反応しているの?」


イラリアは、一瞬だけ目を閉じた。


そして――


再び目を開く。


二人の距離は、すでに縮まっていた。


「この少女……」


「カァァァァァン!!」


針が――


再び剣に激突した。

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