生と死の十五分
地平線の空に――
オレンジ色の光が、少しずつ広がっていた。
そよ風が吹く。
イラリアのポニーテールが、風に揺れた。
彼女は深く息を吸う。
そして、崩れた瓦礫の上をゆっくりと歩き出した。
カツ。
カツ。
そして――
静かに顔を上げる。
視線の先にいるのは――
あの道化師。
もう一度、息を吸う。
「……何が起きたのかは、分からない。」
「私は……あの光の塊をまともに受けた。」
「普通なら……」
「死んでいてもおかしくなかった。」
それなのに――
「……生きてる。」
「まったく……」
「私も、しぶといわね。」
彼女は小さく笑った。
「でも……」
「これだけは分かる。」
「自分より強い相手と戦うなんて――」
「馬鹿げている。」
「どれだけ足掻いても。」
「どれだけ剣を振っても。」
「結果は変わらない。」
「負ける。」
道化師は腕を組んだ。
そして――
目を閉じる。
コク。
静かに頷いた。
「……」
「ふふ。」
「やっぱり……」
「その動き。」
「なんだか……」
「馬鹿にされている気がするわね。」
だが。
イラリアは身体に力を込めた。
肩を起こす。
足をしっかりと瓦礫へ置く。
「でも――」
周囲のマナが動き始める。
ヴォォォォ……。
「こういう戦いから……」
「逃げられない時もある。」
マナが身体の周囲を包み込む。
「強い相手に叩き潰されて。」
「それでも、もう一度立ち上がる。」
拳を胸元へ当てる。
「その瞬間――」
「戦いの結果が、少しだけ分からなくなる。」
道化師が、ほんの少し首を傾げた。
まるで――
彼女の言葉を理解したかのように。
「……そう。」
「あなたも、そう感じているんでしょうね。」
道化師は口元を上げた。
そして――
親指を立てる。
「ははは。」
「よし。」
「話は終わりにしましょう。」
「どうせあなた……」
「話すの、好きじゃないでしょう?」
道化師が後ろへ跳ぶ。
そして、手を差し出した。
――来い。
次の瞬間。
ヴォォォォォッ!!
イラリアが地面を蹴った。
一気に距離を詰める。
道化師は彼女を見る。
だが――
その動きは、さっきまでとほとんど変わっていない。
「……」
道化師は手を口元へ持っていく。
そして――
ふぁ……
あくび。
「……余裕ね。」
イラリアの目が細くなる。
「分かってる。」
「あなたが落ち着いている理由も。」
さらに踏み込む。
「自分のほうが強い。」
「そう思っているからでしょう?」
距離が――
消える。
イラリアは跳んだ。
剣はない。
ただ拳と身体だけ。
「でも――」
「少しくらいは……」
「あなたの本気を引き出してみせる。」
その瞬間。
道化師の笑みは消えなかった。
だが――
イラリアの瞳が変わった。
ただ見ているだけじゃない。
何かを――
捉えている。
道化師の目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。
そして――
バキィッ!!
左足。
一撃。
道化師の身体がわずかに後ろへ流れる。
だが。
イラリアは止まらない。
バキィッ!!
二撃目。
さらに身体が押し出される。
「まだ――!」
イラリアが身体を回転させる。
右足を地面へ叩きつける。
身体を捻る。
そして――
ドォォォォォン!!
三撃目。
今度は右足。
全身の力を乗せた一撃だった。
道化師の身体が吹き飛ぶ。
ヴォォォォッ!!
空気を裂きながら――
ドゴォォォォン!!
崩れた建物の壁へ激突する。
ガラガラガシャァァン!!
大量の瓦礫が崩れ落ちた。
砂埃が舞い上がる。
イラリアは、その場に立っていた。
そして――
笑う。
「……なるほど。」
「今なら――」
「最初より、もう少しだけ……」
「あなたを追い詰められそうね。」
その笑みが深くなる。
「そうでしょう?」
「道化師の坊や。」
リン。
リン。
瓦礫の向こうから――
鈴の音が聞こえた。
やがて。
道化師が歩いてくる。
何事もなかったかのように。
片手には帽子。
その帽子についた砂埃を、もう片方の手で払っている。
パン。
パン。
そして――
黒い髪が顔の一部を隠していた。
「……やっぱりね。」
イラリアは目を細める。
「まともに当てたのに……」
「ほとんど効いていない。」
道化師は帽子を頭へ被る。
そして――
服についた砂埃を払った。
イラリアは口元を上げる。
「どうしたの?」
「少しは驚いた?」
道化師は答えない。
「それとも――」
「見えない壁が破られたことが、まだ信じられないのかしら?」
イラリアは一歩前へ出る。
「三発。」
「全部、当てた。」
「だから……」
「もし、それをただの幸運だと思っているなら――」
「その考えは捨てたほうがいいわ。」
目を細める。
「あなた自身が、一番分かっているでしょう?」
「本当の戦いで――」
「運なんて、ほとんど意味を持たないことくらい。」
道化師の手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
静かに。
あまりにも静かに。
そして――
二本の指を立てる。
そのまま自分の口元へ持っていき――
左右へ引っ張る。
無理やり笑顔を作る。
だが。
目は笑っていない。
冷たい。
「……」
イラリアの拳が強く握られる。
頬を汗が一筋伝う。
「この静けさ……」
「やっぱり嫌いね。」
「さっきまでの、あの馬鹿にしたような顔のほうが……」
「まだマシだった。」
道化師が両手を上げる。
そして――
手のひらを合わせる。
スッ。
空気が重くなる。
砂埃がわずかに揺れた。
そして。
指の間から――
白い煙が流れ始めた。
「……何?」
イラリアは身構える。
「新しい攻撃?」
道化師がゆっくりと手を開く。
両手の指を合わせ――
三角形のような形を作る。
「……変ね。」
「さっきも煙が出ていた。」
「でも――」
「今は何もない。」
「一体……何をしているの?」
道化師は答えない。
左腕を横へ伸ばす。
そして――
右腕をゆっくりと上へ。
イラリアの視線が、その指先へ吸い寄せられる。
指が動く。
前へ。
まるで――
何か見えないものを押しているように。
「……攻撃を準備している。」
「でも……」
「どこから来る?」
道化師の手が――
ゆっくりと下へ落ちた。
シュゥゥゥ……。
音がした。
上から。
イラリアの瞳が大きく開く。
反射的に顔を上げる。
空。
そこから――
一筋の光が落ちてきていた。
光の矢。
ヴォォォォォッ!!
一気に加速する。
「……っ!」
そして――
ドォォォォォォォォン!!
大地が爆発した。
巨大な岩が吹き飛ぶ。
瓦礫が四方八方へ飛び散る。
砂埃が空を覆い尽くす。
それでも――
道化師の表情は変わらない。
冷たい。
そして――
立っている。
「……」
その砂埃の向こうから――
イラリアが飛び出した。
さっきより速い。
道化師を見る。
その表情は――
変わらない。
「……本当に。」
「さっきの攻撃は……」
「今までとは違った。」
「どうしてか分からないけど……」
「一瞬だけ。」
「私は――」
「それが来ることを知っていた。」
「軌道も。」
「落ちる場所も。」
「だから避けられた。」
空中で身体の向きを変える。
そして――
軽く着地する。
「こんな感覚……」
「今までなかった。」
だが。
「……これがいつまで続くのかは、分からない。」
「それでも――」
「何かが……」
「私の中で解放されたような気がする。」
「一体……何が?」
考える時間はなかった。
イラリアは遠くへ飛ばされていた剣へ走る。
そして――
拾い上げる。
剣を道化師へ向ける。
「驚いたわ。」
「ずいぶん変わった攻撃をするのね。」
「もし最初から、あんな攻撃を使っていたら――」
「私は最初の一撃で死んでいたかもしれない。」
イラリアは笑った。
「でも……」
「一つだけ分かったことがある。」
「あなたも、ようやく……」
「私を敵として見始めた。」
道化師は――
何も言わない。
冷たい目。
静かな顔。
そして。
ふいに――
視線を逸らした。
「……?」
イラリアは眉をひそめる。
「何?」
「どこを見ているの?」
「私はここよ。」
「まだ戦いの途中でしょう?」
そして――
気づいた。
道化師が見ている方向。
そこには――
フィンたちがいる。
「……まさか。」
道化師の左手が上がる。
先ほどと同じ。
空中へ向けて。
イラリアの瞳が見開かれる。
「まずい。」
「まさか――」
「あの攻撃を、あっちへ飛ばすつもり?」
「させない!」
イラリアが地面を蹴る。
ヴォォォォッ!!
一気に距離を詰める。
「もし別の敵を探しているなら――」
「残念だったわね!」
「私はまだ、ここにいる!」
さらに加速する。
だが――
道化師は振り向かない。
「……無視?」
その瞬間。
道化師の口元に――
小さな笑みが浮かんだ。
「……え?」
「何、その顔……?」
違う。
さっきまでの笑みとは違う。
もっと――
悪意に満ちた笑み。
「まさか……」
「私がこう動くことも……」
「最初から分かっていたの?」
左手の指が――
ゆっくりと開いていく。
「……違う。」
「さっきの攻撃を準備しているんじゃない。」
「じゃあ……何?」
「まだ何かあるの?」
「……本当に。」
「どこまで隠しているのよ……!」
そして――
道化師の左手が、ゆっくりと下へ向いた。
シュゥゥゥゥゥ……。
空から――
音がした。
イラリアが顔を上げる。
その瞬間。
目を見開いた。
五十。
いや。
それ以上。
無数の光の矢が――
雲の隙間から姿を現した。
ヴォォォォォォォォッ!!
一斉に――
落ちてくる。
「……っ!」
イラリアは急停止した。
そして――
後ろへ跳ぶ。
ドォォン!!
ドォォン!!
ドォォン!!
地面が次々と爆発する。
一発。
二発。
三発。
次々と。
間隔は短い。
ほとんど同時に落ちてくる。
「くっ……!」
イラリアは走る。
右。
左。
後ろ。
そして――
ジャンプ。
ヴォンッ!!
一筋の光が肩の横を通り過ぎた。
「……速い!」
次の一撃。
ドォォン!!
地面が砕ける。
「でも……」
イラリアは身体を捻る。
次の矢が来る。
見える。
「……遅い。」
ほんの少しだけ。
「私には――」
跳ぶ。
もう一つ。
ヴォンッ!!
また一つ。
「見える。」
ヴォンッ!!
「軌道も……」
身体を傾ける。
ヴォンッ!!
「分かる。」
そして――
身体が先に動く。
「……間に合う。」
ドォォン!!
背後で爆発。
イラリアは振り返らない。
「最初の戦いでは……」
「三発避けるだけでも精一杯だった。」
「一発を防いで。」
「もう一発を避けて。」
「それでも足りなかった。」
「身体をマナで覆って――」
「ようやく速度についていけた。」
ドォォン!!
「でも……今は。」
ヴォンッ!!
「必要ない。」
イラリアは一瞬だけ笑う。
「見える。」
ヴォンッ!!
「予測できる。」
ヴォンッ!!
「そして――」
身体を捻る。
「身体が、勝手に反応する。」
ドォォン!!
だが。
「……油断したら。」
目の前を光の矢が通り過ぎる。
「死ぬ。」
「それだけは変わらない。」
イラリアは走り続ける。
一歩。
また一歩。
そのたびに光の矢が地面へ落ちる。
ドォォン!!
ドォォン!!
ドォォン!!
「これ……」
「マナが関係しているの?」
「それとも――」
「別の何か?」
「この攻撃を受けた直後から……」
「私の身体に何かが起きている。」
最後の光の矢が――
落ちてくる。
イラリアはそれを見た。
そして――
軽く身体を横へずらした。
ヴォンッ!!
光の矢が通り過ぎる。
ドォォン!!
爆発。
そして――
静寂。
砂埃がゆっくりと晴れていく。
その中心に――
イラリアは立っていた。
息を切らしている。
それでも――
立っている。
彼女は自分の手を見る。
そして――
剣を見る。
「……なるほど。」
「これは……」
「一度、試してみる価値がありそうね。」
道化師へ視線を向ける。
「おい……」
「道化師。」
道化師の目が――
ほんの一瞬だけ動いた。
「これが全部?」
「新しい攻撃なのは分かった。」
「確かに強い。」
「でも――」
イラリアは剣を構える。
「当たらなければ……」
「意味はない。」
「……そう。」
「そう言っておけば――」
「少しくらいは引っかかるかしら。」
イラリアは小さく息を吐く。
その直後。
道化師の口元が――
ゆっくりと上がった。
「……え?」
道化師は手のひらを返した。
ゆっくりと。
その手を空中へ差し出す。
指を伸ばす。
そして――
何かを掴むように。
「……何を?」
道化師はその見えない何かを――
ゆっくりと回し始めた。
くる。
くる。
ゆっくり。
さらにゆっくり。
まるで――
何かを確認しているように。
イラリアは目を細める。
「……」
道化師はそれを見つめたまま――
少しだけ身体を屈める。
そして。
地面へ置いた。
「……?」
イラリアは目を凝らす。
「何を置いたの?」
その瞬間。
カチッ。
小さな音。
何かが――
開いた。
イラリアの表情が変わる。
そして――
ポロン。
ポロン。
ポロン。
静かな音色が流れ始めた。
柔らかい。
穏やかな。
どこか懐かしい音。
ポロン。
ポロン。
ポロン。
その音色は――
古いオルゴールの音を思わせた。
ゆっくりと回る、小さなオルゴール。
まるで、その上で小さな人形が動いているような――
そんな音色だった。
ポロン。
ポロン。
ポロン。
だが――
何かがおかしい。
旋律とともに――
空気の中から、何かが引き出され始めた。
ゆっくりと。
まるで――
この旋律そのものが、何かを外へ呼び寄せているかのように。
イラリアは剣を握り直した。
「この手品……」
「本当に終わりがないのね。」
ポロン。
ポロン。
ポロン。
音色の向こうに――
何かが見え始めた。
最初は――
小さな影。
何なのか、まだ分からない。
だが。
少しずつ。
輪郭が生まれていく。
白い。
柔らかな曲線。
服の端。
ポロン。
ポロン。
さらに何かが現れる。
長い髪。
風もないのに――
ゆっくりと揺れている。
イラリアの目が、わずかに見開かれる。
「……何?」
ポロン。
ポロン。
影がさらに形を持ち始める。
顔。
身体。
少しずつ。
少しずつ。
そして――
最後の音が鳴った。
ポロン。
イラリアの瞳が――
大きく見開かれた。
「……これ……!」




