発現
俺は、苦労して唾を飲み込んだ。
……
あれは……
俺から数メートルほどしか離れていない。
……
その周囲にあるすべてが、歪んでいた。
空気。
光。
そして――空間そのものまで。
……
まるで、目に見えない何かに押し潰されているかのように。
……
「おい……」
「おいおいおい……」
「これは……完全にヤバいやつだろ。」
……
「おい、ポンコツ……」
「なんだ、これ!?」
通知:
〈これは『暴食』の中心です。〉
……
「いや、それは見れば分かる!」
「でも、なんでこんなにデカいんだよ!?」
「ただの小さな点とか、そういうものじゃなかったのか!?」
通知:
〈この質問に対する確実な回答はありません。〉
……
「最高だな。」
「やっぱり答えはないのかよ。」
……
通知:
〈ただし、現在の推測によれば……〉
〈原因は、『暴食』が発動してから吸収した物質の量である可能性が高いです。〉
〈『暴食』は、対象・フィンの周囲にあるものを継続的に吸収していました。〉
〈内部にエネルギーと物質が蓄積したことで……〉
〈その中心の規模も拡大したと考えられます。〉
……
「そういうことか……」
……
「いや、全然安心できないんだけど。」
……
全身の筋肉が凍りついたような感覚がした。
……
叫びたかった。
逃げたかった。
何でもいいから、何かしたかった。
……
だが――
身体が動かない。
……
「おい……」
「動け。」
……
「ほら。」
……
「動け!」
……
反応はない。
……
「なんでだ?」
……
「俺、このままこいつに飲み込まれるのか?」
「これが……終わりなのか?」
……
「俺の人生、ここで終わるのか……?」
……
通知:
〈現時点では、この地点が対象・フィンに直接的な危険を及ぼす可能性は確認されていません。〉
……
「はぁ!?」
「危険じゃない!?」
……
俺は、あの黒い点を見つめた。
……
「本気で言ってるのか?」
……
「こいつ、目の前にあるんだぞ!」
「周りの全部が歪んでるんだぞ!」
「どうして危険じゃないんだよ!?」
……
通知:
〈ただし、『発現』を早急に実行しなければ……〉
〈キューブが『暴食』を制御できなくなる可能性があります。〉
……
……
「ああ。」
……
「そういうことか。」
……
「今は危険じゃない。」
「でも、何もしなければ危険になる。」
……
「最高だな。」
「また新しい問題かよ。」
……
「まさに俺が必要としていたものだ。」
---
俺は深く息を吸った。
……
「よし、フィン。」
「落ち着け。」
……
「逃げることはできない。」
「ここに留まり続けることもできない。」
……
「だったら……」
「ここへ来た目的を果たすしかない。」
……
俺は黒い点を見上げた。
……
「でも、何をすればいい?」
……
「案内役……」
「俺は、今どうすればいい?」
通知:
〈『暴食』は、その範囲内に存在するすべてを特定の一点へ吸収します。〉
……
「知ってる。」
……
通知:
〈そして、おそらく吸収されたものは、その一点の内部に保持されています。〉
……
「なるほど……」
……
「『暴食』が吸収したものが全部、中にあるなら……」
……
「外へ出す方法もあるはずだ。」
……
俺は立ち止まった。
……
「方法……」
「内側から外側へ。」
……
「前の世界で、似たようなものを見た気がする。」
……
通知:
〈その認識で正しいです。〉
……
「本当に?」
……
通知:
〈『発現』は、『暴食』の中心内部に蓄積されたエネルギーや物質を外部へ放出することを可能にします。〉
〈ただし、方向や制御を与えずに放出した場合……〉
〈全方向へ拡散する可能性があります。〉
〈予測される結果:大規模な災害。〉
……
「……」
……
「はぁ!?」
「なんでだよ!?」
「どうして俺のスキルには、普通に役に立つものが一つもないんだ!?」
「なんで全部……」
「役立たずか……」
「世界を滅ぼしかねないもののどっちかなんだよ!?」
……
通知:
〈……〉
……
「いや。」
「今は黙るな。」
……
「説明してくれ。」
……
「一度くらい。」
---
俺は頭を抱えた。
……
「よし。」
「仮に理解したとしよう。」
……
「『暴食』はエネルギーを吸い込む。」
「『発現』は、それを外へ出す。」
……
「でも、もう一つ問題がある。」
……
「これだけのエネルギーを目の前にしたら……」
「それを受け止める身体はどうなる?」
……
昔の授業を思い出した。
……
「魔力核。」
……
「この世界では……」
「人間の身体には、魔力核が存在する。」
……
「そこへ耐えられる量を超えたエネルギーが流れ込めば……」
「身体に異常が起こる可能性がある。」
……
「そして、その結果は……もっと酷いものになるかもしれない。」
……
通知:
〈その認識で正しいです。〉
……
「だろうな。」
……
通知:
〈ある程度までは、三百年危機に近い現象として考えることができます。〉
〈ただし、現在の対象・フィンの状態では、同じ規模の力に達する可能性は低いでしょう。〉
〈理由:対象・フィンがこの世界に滞在している期間は、まだ短いためです。〉
……
「三百年危機……」
……
「最高だな。」
……
「今の俺に一番必要ない言葉だ。」
……
「新しい危機なんて必要なかった。」
「ここで死んで……」
「そのあと誰かに首を斬られるだけで十分だったのに。」
……
「くそっ。」
……
俺は強く頭を振った。
……
「いや。」
……
「集中しろ、フィン。」
……
「死ぬことを考えるな。」
……
「解決策を考えろ。」
……
「たとえ、その解決策が馬鹿げていても。」
……
「たとえ、それで俺が死ぬとしても。」
……
俺は止まった。
……
「待て。」
……
「それも全然安心できる解決策じゃないな。」
---
俺は顔を上げた。
「案内役……」
「最適な方法は?」
通知:
〈対象・フィンは、『暴食』を『発現』へ反転させることを想像してください。〉
……
「……」
……
「何?」
……
「反転させる?」
……
通知:
〈はい。〉
……
「うーん……」
……
「うーん……」
……
「待て。」
……
沈黙。
……
「説明は簡単だけど……」
……
「たぶん、意味が分からない。」
……
「えーっと……」
……
「いや……」
「もしかすると……」
「説明が簡単すぎて、俺の頭が理解できないだけかもしれない。」
……
俺はもう一度、黒い点を見た。
……
周囲は、まだ歪み続けている。
……
「俺はモブだ。」
……
「この世界で生き残ろうとしているだけの人間だ。」
……
「そんな俺がスキルを持っていることが分かった。」
「しかも、そのスキルの中には別のスキルまで存在している。」
……
「そのうちの一つは……」
「今、世界を飲み込もうとしている。」
「そして、もう一つは……」
「ここで人類を滅ぼして、俺を指名手配犯にできる。」
……
「なあ、ポンコツ……」
「もう少しだけ説明を変えてくれないか?」
「この可哀想なモブでも理解できるように。」
……
「なんだか、世界を滅ぼそうとしている魔王になった気分だ。」
……
通知:
〈……〉
……
「いや。」
「黙るな。」
……
「モブの頭でも分かるように説明してくれ。」
通知:
〈何かを内側から外側へ裏返すことを想像してください。〉
……
「内側から……」
……
「外側へ……」
……
「うーん……」
……
「うーん……」
……
「何かを裏返す……」
……
「裏返す……」
……
俺は目を閉じた。
……
「分かった。」
……
「『暴食』が……」
「すべてを内側へ引き込むなら……」
……
「『発現』は……」
……
「その内側にあるものを……」
「外へ出す。」
……
俺は止まった。
……
「それだけ?」
……
通知:
〈はい。〉
……
「……」
……
「世界を滅ぼせるスキルの説明としては、あまりにも馬鹿げてないか?」
……
俺は目を開いた。
……
そして、手を前へ伸ばした。
……
「よし……」
「想像してみよう。」
……
「何かが、内側から外側へ裏返る。」
……
俺は目の前の黒い点を見つめた。
……
「この点を……」
「裏返す。」
「その中にあるものを……」
「外へ出す。」
……
「うーん……」
……
「今、俺……」
「ものすごく馬鹿なことを言った気がする。」
……
「まあ、いい。」
……
「行け、フィン。」
「裏返れ……」
「裏返れ……」
「裏返れ!」
……
何かが身体の中を駆け抜けた。
奇妙な流れだった。
身体の奥のどこかから始まり、それが手足へと広がっていく。
……
熱。
……
「え?」
……
「成功したのか?」
俺はゆっくりと片目を開いた。
……
前を見る。
……
黒い点は……
まだ、そのままだった。
……
「……」
……
「よし。」
「失敗した。」
……
俺は再び目を閉じた。
「案内役……」
「どうすればいい?」
通知:
〈対象・フィンは、成功するまで試行を続けてください。〉
……
「分かった……」
「聞きたくない答えだ。」
---
何度も試した。
……
一度。
……
そして、また一度。
……
だが、そのたびに……
何も起こらない。
……
しかし、しばらくすると……
俺は問題に気づき始めた。
……
「待て。」
……
「俺が中身を裏返せなかったのは……」
「そもそも、あの点そのものに集中しているからじゃないか?」
……
「俺は、あの点の向こう側に何があるのか知らない。」
……
「中にあるものが、どんな形をしているのかすら知らない。」
……
「そんな状態で、どうやって想像しろっていうんだ?」
……
「俺に見えているのは、ただの黒い点だけだ。」
……
「もし、その黒い点が裏返るところを想像したら……」
……
「何になる?」
……
「黒い点だ。」
……
「最高だ。」
「完全に行き止まりじゃないか。」
通知:
〈その可能性はあります。〉
……
「なるほど……」
「問題は分かった。」
……
「でも、本当の問題はここからだ。」
「正体すら分からないものを……」
「どうやって裏返す?」
……
「何百万通りでも想像できる。」
……
「でも、そんなことをしていたら時間がかかる。」
……
「そして、俺には時間がない。」
……
「それに、外で何が起きているのかも分からない。」
……
「確かに、俺は目を閉じているだけだ。」
「でも……」
「俺の意識そのものが、ここへ引き込まれているような気がする。」
……
「簡単には戻れない。」
……
「それは……」
「まったく安心できない。」
……
「考えてみろ。」
「どんな姿をしているのかすら知らないものを、想像しろなんて……」
……
「人生で一番馬鹿げた問題の一つだ。」
……
「いや……」
「もしかすると……」
「もっと馬鹿げた問題がある。」
……
「どうしてモブキャラの意識まで、夢の中で苦しまなきゃいけないんだ?」
……
「さすがにやりすぎだろ。」
……
「くそ、このキューブ。」
「ただの変なスキルキューブだと思ってたのに。」
「俺も……」
「少なくとも、何もないよりはマシだと思ってた。」
……
「それなのに今は……」
「この世界そのものが、ひっくり返るかもしれない。」
「何もかもを飲み込もうとするスキルのせいで。」
……
「くそ……」
……
「いや。」
……
「待て。」
---
俺は目を開いた。
そして、黒い点をじっと見つめる。
……
「『暴食』。」
……
「これだ。」
……
「案内役……」
「これは『暴食』のスキルなんだよな?」
通知:
〈正しいです。〉
……
「そして、外側から内側へ、ずっと引き込んだ結果として生まれた?」
通知:
〈正しいです。〉
……
「なら……」
……
俺は顎に手を当てた。
……
「うーん……」
……
「考えろ、フィン。」
……
「もっと深く考えろ。」
……
「この動き……」
「そうだ。」
「世界の運命を変えるような何かを発見したとき、人間がする動きだ。」
……
「まあ、俺がやってることに、そこまでの威厳があるとは思えないけど。」
……
「まあいい。」
---
「俺が『暴食』の中に何があるのか知らないなら……」
「『発現』を想像することはできない。」
……
「でも……」
……
「『発現』もキューブのスキルだ。」
……
「そして、このキューブそのものが……」
「この状態を作った。」
……
「なら……」
……
「そもそも『暴食』の中身を想像しなければいいんじゃないか?」
……
「代わりに想像するのは……」
……
「キューブそのもの。」
……
俺は止まった。
……
「つまり……」
「このキューブがすべての始まりなら……」
「そのキューブを使って、プロセスそのものの向きを変えられるんじゃないか?」
……
通知:
〈解析中……〉
……
沈黙。
……
「お前がここまで長く黙ったのは初めてだな。」
……
通知:
〈可能性は高いです。〉
……
「本当に?」
……
「よし。」
……
「なら、失うものは何もない。」
……
俺は数秒間、黙った。
……
「たぶん……」
「俺の人生なんて、とっくに終わってる。」
……
「これ以上失うものなんてない。」
……
俺は自分の顔を叩いた。
……
「おい!」
「集中しろ、フィン!」
……
「どんな意識だよ。」
「ここじゃ俺、そもそも本当の顔すら持ってないんだぞ!」
……
「まあいい。」
……
「キューブだ。」
---
俺は目を閉じた。
……
「このキューブが……」
「見た目も、本質も……」
「前の世界にあったキューブに似ているなら……」
……
「中心核があるはずだ。」
……
頭の中で、キューブの姿を作り始める。
ゆっくりと。
……
六つの面。
……
それらすべてを支える内部の核。
……
軸。
……
中心の周囲を回転する小さなパーツ。
……
「そうだ……」
「これだ。」
……
「この形だ。」
……
「でも、今回は……」
「ただのキューブとして想像するんじゃない。」
……
「何かを引き込むものとして想像する。」
……
「『暴食』は、あの点じゃない。」
……
「あの点は、ただの中心だ。」
……
「キューブこそが……」
「その仕組みなんだ。」
……
何かが、目の前で動いた。
……
カチ……
カチ……
カチ……
……
スキルキューブが現れた。
ゆっくりと、俺の前で回転している。
……
その面が次々と変わっていく。
……
カチ……
カチ……
カチ……
……
「そうだ。」
……
「このパーツは……」
「内側へ縮んでいく。」
……
「そして核の周囲を動く。」
……
「まるでエネルギーを中へ通して……」
「中心へ引き込んでいるみたいに。」
……
「これが『暴食』の意味だ。」
……
キューブの回転が速くなる。
……
カチ……
カチ……
カチ……
……
「でも、『暴食』が……」
「すべてを内側へ引き込むなら……」
……
「『発現』は……」
……
「その逆をする。」
……
キューブの動きが、一瞬止まった。
……
「ただ……」
「中にあるものを外へ出すだけじゃない。」
……
「そうじゃない。」
……
「キューブそのものの向きを……」
「反転させる。」
……
キューブの面が、再び動き始めた。
だが、今度は……
これまでとは違う動きだった。
……
一つ。
……
そして、もう一つ。
……
パーツが、外側へ動き始める。
……
「内側にあるものが……」
「外へ出ていく。」
……
「闇が……」
「光へ。」
……
「エネルギーが……」
「中心から……」
「外側へ。」
……
身体の中で、熱がさらに強くなっていく。
……
「これが……」
……
「『発現』なのか?」
……
カチ……
カチ……
カチ……
……
そして――
キューブが止まった。
……
静寂が訪れた。
……
俺は目を開いた。
……
目の前の黒い点が……
変化していた。




