イラリアとの対決
塔の頂上――。
イラリアは全速力で駆けていた。
青い髪が激しく後方へなびく。
その瞳は、目の前に立つ少年から一瞬たりとも離れない。
……
「はぁぁぁ……!」
少年の口元が、わずかに吊り上がった。
穏やかな笑み。
それでいて――
妙に人を苛立たせる笑みだった。
……
「何がおかしいの?」
「そんなに笑って……変な子。」
……
次の瞬間――
「ズドォォォン!!」
イラリアが前方へ跳び込んだ。
剣が閃く。
一瞬で間合いを詰め、その刃が少年の身体へ真っ直ぐ迫る。
しかし――
「ギギギギギッ!!」
刃が、突然止まった。
少年の身体まで、わずか数センチ。
そこには――
何もない。
見えない何かが、刃を受け止めていた。
……
「ドォォン!!」
衝突した瞬間、少年の前の空気が大きく揺れた。
淡い円形の波紋が空間に浮かび上がる。
まるで、見えない壁の表面を激しく叩いたかのように。
「ヴォォォッ!!」
小さな衝撃波が後方へ押し返される。
イラリアの青い髪が大きく舞い上がり、少年の服も風圧でわずかにはためいた。
……
「……何?」
イラリアは剣をさらに前へ押し込んだ。
「ギギギギギッ!!」
だが、刃は動かない。
ほんのわずかも――
前へ進まなかった。
……
「何が起きているの……!?」
歯を食いしばる。
そして、もう一度力を込めた。
「ギギッ!!」
新たな波紋が刃の周囲に広がる。
そして――
消えた。
……
何もない。
……
彼女と少年の間には、何かが存在している。
目には見えない何か。
壁。
いや――
障壁だ。
……
だが、イラリアには何も見えない。
壁もない。
盾もない。
自分の剣が何にぶつかっているのかすら分からない。
ただ――
空気が、わずかに歪んでいる。
それだけだった。
……
少年が、ゆっくりと手を上げた。
その瞬間――
イラリアの感覚が一気に研ぎ澄まされる。
「――危険!」
反射的に後方へ跳んだ。
「ヒュッ!!」
数メートル離れた場所へ着地する。
……
「どういうこと……?」
イラリアは剣先を見つめた。
そして、少年へ視線を戻す。
……
「見えない障壁……?」
「これも、あいつのスキルなの……?」
声を張る。
「何をしたの、あなた!」
……
返事はない。
代わりに――
少年の顔に、妙に不思議そうな表情が浮かんだ。
そして、両手を目の前へ持ってくる。
……
手のひらを空中で動かす。
右。
左。
そして――
上。
……
まるで、そこにある見えない何かを確かめているようだった。
……
イラリアは動きを止める。
「……何?」
……
少年は手のひらを前へ向けた。
そして――
押す。
……
もう一度。
押す。
……
何も起こらない。
少年は眉を上げた。
自分の手を見る。
それから、イラリアを見る。
……
まるで――
『おや?』
とでも言いたげに。
……
「……演技?」
「この障壁が何なのか、知らないふりをしているの……?」
……
少年は指先で何かを叩いた。
「コン。」
「コン。」
……
そして、両手をそこへ当てる。
押す。
……
何も起こらない。
……
少年は首を少し傾げた。
本当に不思議そうにも見える。
――あるいは。
イラリアにそう思わせようとしているだけなのかもしれない。
しかし――
その口元に浮かぶ小さな笑みが、別のことを物語っていた。
……
「この少年……」
「私を馬鹿にしている……!」
……
イラリアは目を細めた。
そして、剣をゆっくりと持ち上げる。
「ずいぶん余裕そうね。」
……
一歩、前へ。
「まさか……」
「私の剣を防いだだけで、自分が勝ったつもりなの?」
……
少年は頬に指を当てた。
そして、少しだけ首を傾げる。
その表情は――
まるで、
『違うの?』
とでも言っているようだった。
……
イラリアの眉が、ぴくりと動く。
……
「この少年……」
「本当に……腹が立つ。」
……
剣を強く握り直す。
その瞬間――
彼女の身体から力が立ち上り始めた。
「ヴォォォッ……!」
周囲の風が一気に動く。
青い髪が大きく舞い上がる。
……
イラリアは怒りを含んだ笑みを浮かべた。
「あなた……本当に……」
剣を後方へ引く。
……
「私に殺されたいんでしょう?」
……
目を細める。
「本当なら、生きたまま捕らえるつもりだった。」
「でも……」
「今のあなたを相手に、それは難しそうね。」
……
彼女を包む力が、さらに強くなる。
「もう……我慢できない。」
……
その瞬間。
少年の身体が、突然揺れた。
肩が小刻みに震える。
……
「……っ。」
……
「……ふっ。」
……
「……はは……」
押し殺した笑い。
必死に声を出さないよう耐えているようだった。
……
「……笑ってる?」
……
イラリアの拳がさらに強く握り込まれる。
「もういい!」
「これ以上、あなたには付き合っていられない!」
……
踏み込む。
「ヴォォォォォッ!!」
凄まじい速度で、イラリアが再び突進する。
身体を包む力が風を巻き上げる。
……
「今度は、手加減しないわよ!」
「だから――」
「せいぜい、生き残ってみなさい!」
……
少年の口元が、わずかに吊り上がった。
そこに浮かんでいたのは――
確かな自信を宿した笑みだった。
しかし、その瞬間――
イラリアは何かがおかしいことに気づいた。
……
「……何?」
「何かがおかしい。」
……
彼女は剣を持ち上げた。
上段に構える。
……
「身体が……」
「何かを感じている。」
……
表情が変わる。
「危険……?」
「……違う。」
「これは、何か別のものだ。」
……
奇妙な感覚だった。
何なのかは分からない。
まるで身体そのものが、これから起こる何かを警告しているようだった。
……
それでも、イラリアは退かなかった。
そのまま攻撃を続ける。
……
剣が頭上から振り下ろされる。
ヒュゥゥゥ……。
……
その瞬間――
イラリアの身体が凍りついた。
動けない。
後退することすらできなかった。
……
「……何!?」
……
そして突然――
ドォォォォォォォォン!!
塔全体が激しく揺れた。
何が起きたのか、イラリアには分からなかった。
バァァァァァァン!!
塔の一部が巨大な音を立てて崩れ落ちる。
瓦礫が四方八方へと飛び散った。
ガラガラガシャァァン!!
……
塔が激しく揺れる。
イラリアの足元の床にも亀裂が走った。
「……えっ!?」
……
ドォォォン!!
ドォォォン!!
……
砂埃が空へと舞い上がる。
巨大な煙のような雲が周囲を覆い尽くした。
視界が完全に消える。
……
煙と砂埃が、周囲の路地や建物の間へと広がっていく。
……
「……何?」
「何が起きたの……?」
ゴホッ……
ゴホッ……
……
イラリアは瓦礫の中をゆっくりと進んだ。
砂埃がまだ視界を遮っている。
「……はぁ……」
「……はぁ……」
呼吸が乱れている。
彼女は地面に手をつき、身体を起こそうとした。
……
「動いて……」
「お願い……動いて……」
……
なんとか立ち上がる。
そして、砂埃の向こうから差し込む光へ向かって、重い足取りで歩き始めた。
……
「何かが……」
「上から何かが落ちてきたような……?」
ゴホッ……
ゴホッ……
……
歩き続ける。
一歩進むたびに――
少しずつ砂埃が晴れていく。
そしてついに、彼女は崩壊した塔の外へと出た。
顔を上げる。
……
イラリアの瞳が大きく見開かれた。
……
目の前の通りは――
完全に破壊されていた。
崩れ落ちた建物。
散乱する瓦礫。
ひび割れた道路。
折れた柱。
……
「……一体、何が起きたのよ……?」
……
強い風が吹き抜けた。
青い髪が揺れる。
そして――
リン……
……
イラリアの動きが止まった。
リン……
リン……
……
ゆっくりと顔を上げる。
……
その瞳が大きく見開かれた。
そこにいた少年は――
空中を歩いていた。
……
何でもないことのように。
一歩。
リン。
もう一歩。
リン。
まるで、目に見えない地面が足元に存在しているかのように。
……
「……ありえない。」
……
少年の身体には、先ほどの出来事の痕跡が一つもなかった。
砂埃もない。
傷もない。
服すら乱れていない。
……
「あの少年が……?」
……
イラリアは周囲を見回す。
それから空を見上げる。
そして、瓦礫へ視線を戻す。
……
「でも……どうして?」
「確かに、上から何かが落ちてきたように感じた。」
「なのに……」
「ここには何もない。」
……
彼女は声を張り上げた。
「あなた!」
「この惨状を引き起こしたのは、あなたなの!?」
……
返事はない。
少年はそのまま降りてくる。
リン……
リン……
リン……
……
靴についている小さな鈴が、一歩ごとに鳴り響く。
やがて少年は地面と同じ高さまで降り、静かに着地した。
そして、イラリアを見る。
……
口元に小さな笑み。
どこか馬鹿にするような笑みだった。
……
「……この少年……」
……
イラリアは自分の剣を見る。
剣は地面に落ちていた。
彼女はそれへ歩み寄り、身をかがめて拾い上げる。
腕はまだ震えていた。
……
「少し痛むだけ……」
「問題ない。」
……
柄を強く握る。
「まだ戦える。」
……
少年がわずかに顔を上げた。
……
「本当に……全部、こいつがやったの?」
……
イラリアは服についた砂埃を払い落とす。
そして少年へ近づく。
「あなた……」
「一体、ここで何をしているの?」
「この全部をやったのは、あなたなの?」
……
返事はない。
……
少年が一歩、前へ出る。
リン……
そして、もう一歩。
リン……
……
突然――
イラリアが手を上げた。
「癒やしの魂よ……」
柔らかな黄色い光が彼女の身体を包み込む。
「汝の祝福を求める……」
……
光がさらに強くなる。
「我が傷を癒せ。」
……
身体に残っていた打撲や細かな裂傷が、徐々に消えていく。
やがて、彼女の肌は完全に元の状態へと戻った。
……
イラリアが目を開く。
……
拍手。
少年が両手を叩いている。
パチ。
パチ。
……
「……」
……
「……私を馬鹿にしているの?」
……
少年は腕を伸ばす。
そして、拳を開く。
小さな光る星が、手のひらの上に現れた。
……
「……え?」
……
少年はその星を少し持ち上げる。
それを見つめる。
そして、イラリアを見る。
……
「……今度は何をするつもり?」
……
「あなた……」
「戦いはまだ終わっていないわ。」
……
イラリアは一歩前へ出る。
「答えて。」
「この全部をやったのは、あなたなの?」
……
少年は帽子のつばを持ち上げる。
そして、その星を帽子の中へ入れた。
……
帽子を両手で掴む。
そして、円を描くように振り回す。
ヒュンッ……
……
帽子の中から、白い煙がゆっくりと立ち上り始めた。
……
イラリアの目が大きく見開かれる。
「……何をしているの?」
突然――
フオオオオオオッ!!
帽子の中から、星が空へと飛び出した。
一筋の光が雲を切り裂く。
……
そして――
ドォォォォォォン!!
空中で弾けた。
色とりどりの光が、街の上空へと広がっていく。
小さな火花が、遠くへと降り注いだ。
……
イラリアは一瞬、動きを止めた。
遠くでは……
人々が空を見上げていた。
……
「……花火?」
……
「花火……?」
……
イラリアは剣を強く握った。
そして、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
……
「落ち着いて、イラリア。」
「こいつの挑発に乗らないで。」
「冷静になるのよ。」
……
目を開く。
「最初から……」
「こいつは私を挑発していた。」
「私を怒らせて……」
「自分の望む場所へ誘い込むつもりなんだ。」
……
「他に考えられない。」
……
声を張り上げる。
「これも新しい見世物?」
「こんなくだらない芸には、もう飽きないの?」
……
彼女の手にした剣が輝き始める。
ヴォォォォッ!!
刀身の周囲で、風が渦を巻いた。
……
「私を挑発して、あなたの支配領域へ誘い込むつもりなら……」
「もう、その手には乗らないわ。」
……
少年が一歩、後ろへ跳んだ。
まるで、彼女の推測に本当に驚いたかのように。
……
「こいつ……」
「どれだけ冷静でいようとしても……」
「次から次へと、私を苛立たせる方法を見つけてくる。」
……
「この点だけは……フィンに少し似ているわね。」
……
「ふぅ……」
「まあ……フィンのこういうところは、嫌いじゃないけど。」
「少なくとも……こいつよりは、ずっと分かりやすい。」
……
再び、剣の周囲を風が渦巻き始める。
先ほどよりも強く。
ヴォォォォォォッ!!
彼女の足元から砂埃が舞い上がった。
……
イラリアは剣を頭上へと掲げる。
「あなた、本当に道化師みたいね。」
……
少年は両腕を上げた。
そして、彼女へ丁寧に一礼する。
……
「……は?」
「褒めてるんじゃないわよ、この変な道化師!」
……
少年はゆっくりと身体を起こした。
そして、微笑む。
……
イラリアは目を細めた。
「どこまで黙っていられるか……見てあげるわ。」
……
剣を振り上げる。
そして――
勢いよく振り下ろした。
……
ガァァァァン!!
刀身から、巨大なエネルギーの刃が放たれた。
凄まじい速度で空を駆け抜ける。
ヴォォォォッ!!
少年へ向かって、一直線に突き進んでいく。
……
イラリアは微笑んだ。
「さて……」
「これで、もう近距離戦では済まないわね。」
……
少年の動きが止まった。
そして、身体が震え始める。
肩が激しく震えている。
……
「何なの、この動き……?」
……
一瞬だけ――
怯えているようにも見えた。
それでも、その笑みは消えない。
……
刃が少年へ近づいていく。
さらに……
さらに……
そして――
ドォォォォォォォォン!!
凄まじい爆発が起こった。
衝撃波が屋上を駆け抜ける。
ガァァァン!!
石が砕け、四方へと飛び散った。
砂埃が一気に舞い上がる。
イラリアは一歩後退し、腕を上げて顔を庇った。
……
「何が起きたの!?」
……
砂埃が空へと舞い上がる。
そして、その場を覆い尽くしていく。
……
イラリアは目を細めた。
「塔が崩れた時と……同じ?」
……
首を横に振る。
「……違う。」
「おそらく……」
「また別の仕掛けね。」
……
その時――
砂埃の中で、何かが動いた。
……
赤い何か。
……
「……何!?」
弾丸のような速度で、こちらへ飛んでくる。
ヴォォォォッ!!
「――っ!?」
イラリアは咄嗟に剣を構えた。
……
ドォォォォン!!
赤く輝く塊が、激しい勢いで刀身へ激突した。
両腕が大きく震える。
数歩、後ろへ押し戻される。
ガラガラガシャァン!!
足元の石床に亀裂が走った。
……
「これは……!?」
……
イラリアは顔を上げた。
砂埃がゆっくりと晴れていく。
……
その向こうから――
少年が姿を現した。
静かに立っている。
その顔には、小さな笑み。
……
そして――
トン。
トン。
トン。
……
少年は、ゆっくりと指で何かを叩き始めた。
まるで――
本当のショーは、まだ始まっていないと言うように。




