訪問者
……
ネフターニの街とハーモニーの町を結ぶ門が開かれた。
……
「ネフターニの神々のご加護があらんことを、リード様」
リードは静かに頷いた。
そして、そのまま馬を進ませる。
身長はおよそ百六十五センチ。
後ろへ流した金色の髪に、茶色の瞳。
ネフターニの紋章が刻まれた長い灰色の外套をまとい、その下には黒いシャツと、同じ色のゆったりとしたズボンを身につけていた。
……
リードは馬に乗ったまま、町の領地を進んでいく。
目の前には、広大な平原が広がっていた。
そして、いつものように人々の往来が途切れることはない。
至るところに飾り付けが施され、道という道にはネフターニの旗が並んでいる。
祭りまで、もう数日しか残されていないのだ。
……
リードは門の前で馬を止めた。
二人の門番が彼へ視線を向ける。
リードは静かに口を開いた。
「アサモト司祭に会いに来た」
その言葉を聞いた兵士の一人が、素早く顔を上げた。
「もちろんです、リード様」
「おそらく、教会にいらっしゃるかと」
「祭りも近づいておりますから、今頃は教会も大勢の人で賑わっているでしょう」
リードは頷いた。
そして、そのまま先へ進んだ。
……
数分後――。
リードは町の通りへ入った。
そこは大勢の人で賑わっていた。
あちこちに浮かぶ笑顔。
通りに響き渡る子供たちの笑い声。
人々は店と通りの間を行き交いながら、祭りの準備に追われている。
……
だが――
人々の視線が彼を捉えた瞬間。
その流れが変わった。
次々と人々が彼のもとへ駆け寄ってくる。
「リード様!」
「リード様だ!」
「王国の守護者だ!」
「リード様、来てくださって嬉しいです!」
「何かあったのでしょうか?」
「リード様、もしかして、この期間中は私たちを守るために来てくださったのですか?」
リードの足が止まった。
そして、その顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
彼はゆっくりと片手を上げた。
「我らが女神、ネフターニは……」
「この王国のために、尊き犠牲を捧げてくださった」
そして、両腕を広げる。
「その犠牲は、すべての世代にわたって記憶され……」
「やがて、その物語は次の世代へと受け継がれていくでしょう」
リードは、町を取り囲む結界へ視線を向けた。
「そして、我々を包み込むこの結界こそが……」
「皆さんの疑問への答えです」
そう言って、リードは微笑んだ。
「我々がこの中にいる限り……」
「何も恐れる必要はありません」
「ですから、どうか安心してください。皆さん」
「そして、祭りを楽しんでください」
「我らが女神の尊き犠牲に、感謝を捧げましょう」
……
何人かの人々が、胸の前で指を組んだ。
「我らの守護者、ネフターニに感謝を!」
「ネフターニに感謝を!」
人々の声が、通りいっぱいに響き渡った。
……
そして、しばらくして――。
リードはようやく町の教会へと辿り着いた。
馬から降りる。
教会の扉は、礼拝に訪れる人々のために開かれていた。
中へと向かう足音が、次々と重なっていく。
捧げ物。
祈り。
願い。
そして、人々は再び外へ戻り、それぞれの日常へと帰っていく。
……
それが、この町で繰り返される光景だった。
……
リードは静かに教会へ入った。
その足音は、ほとんど聞こえない。
彼は奥にある席へ腰を下ろした。
そして、静かに息を吐く。
……
待つ。
急ぐ必要はなかった。
今の彼にできることは、ただ一つ。
全員が教会を出ていくのを待つこと。
……
その後で――
アサモト司祭と話をする。
昼頃になると、太陽は空の中央へと昇っていた。
そして、教会の中にも静寂が広がり始める。
窓から差し込む光が、白い壁に穏やかな青色を映し出していた。
静かで、どこか心を落ち着かせるような空気が、教会全体を包んでいる。
リードは静かに立ち上がると、教会の中央に置かれた像へと歩み寄った。
そこに立っていたのは、一人の女性。
ゆったりとした長い衣をまとい、頭にはヴェールを被っている。
そのヴェールが、彼女の顔立ちを覆い隠していた。
そして、両手首には二つの輪があり、彼女は両手を静かに合わせている。
リードは片膝をつき、彼女の前で深く頭を下げた。
目を閉じ、指を組む。
「我が女神よ……」
その口から出たのは、その一言だけだった。
……
その瞬間――
教会の脇にある扉が開いた。
そこから、一人の男が姿を現す。
長身で、恰幅の良い体つき。
頭は禿げており、白い教会服を身につけていた。
男はそのまま歩み寄り、リードの前で足を止める。
「祝福あれ、若者よ。お前がどこへ赴こうとも、ネフターニの祝福が共にあらんことを」
そして、穏やかな笑みを浮かべながら続けた。
「その祝福は、我らに与えられたものを守ろうとする、すべての信徒にも降り注ぐ」
リードは静かに顔を上げた。
「そして、教会の最高司祭よ――」
「我らが女神の鏡であり、我が王国において最も重要な御方の一人であるあなたに、永遠のご加護がありますように」
そう告げて、リードは静かに頭を下げた。
それをもって、彼の挨拶は終わった。
アサモト司祭は微笑むと、数段ほど階段を下りてきた。
「わざわざここまで足を運び、私の呼び出しに応じてくれてありがとう、リード・レイトン」
そして、続ける。
「王国の守護者にして、平和をもたらし、我らが女神の正義を執行するヴィラルクス。その中でも、特に重要な役割を担う一人だ」
リードは静かに立ち上がった。
「いえ、私を呼んでくださったことに感謝しています、アサモト様」
アサモトは手を上げ、近くの椅子を指し示した。
「座りなさい」
……
しばらくして、二人は向かい合うように腰を下ろした。
すると、アサモトが尋ねる。
「それで……他のヴィラルクスの者たちは元気にしているか?」
そして、言葉を続けた。
「君たちの任務が厳しいものだということは分かっている。だからこそ、私自身も常に忙しくしている身ではあるが……君たちのことは、できる限り知っておきたいと思っている」
そう言って、微笑む。
「君たちは、我が王国……そしてこの国を支える、最も重要な柱の一つなのだからな」
リードは胸元へ手を当てた。
「お気遣い、ありがとうございます。我々は問題ありません。皆、それぞれができる限りのことをしています」
そして、少しだけ微笑む。
「もっとも……サーニャ様が、我々の中では一番お忙しいですが」
……
「ははは……」
アサモトは笑った。
その声には、隠しきれない誇らしさが滲んでいる。
「サーニャは昔から、何でも自分の手でやろうとする子だった」
そう言って、前方へ視線を向ける。
「幼い頃から、私が育ててきた。あの子は聖女の候補の一人でもあった」
少しの沈黙。
そして、再び口を開く。
「昔は……宗教についてほとんど何も知らず、ましてや興味を持つような子でもなかった」
やがて、その顔に誇らしげな笑みが浮かんだ。
「それが今では――」
「我々の国を歩んできた、数多くの聖女たちの中でも、指折りの存在となった」
「それでも、あの子は今もなお、日々成長している……」
アサモトは小さく息を吐いた。
「時々思うのだ。年を取るということは……あの子が最高位の聖女へと成長していく姿を見届けられる時間まで、私から奪っていくのではないかとな」
そして、どこか寂しげに微笑んだ。
「それが、あの子の夢だったからな」
リードは静かに彼を見る。
「アサモト様は、まだまだお元気です」
そして、続けた。
「サーニャ様には、その地位へ至るだけの才能も力もあります。そう遠くないうちに、そこへ辿り着くでしょう」
少しだけ微笑む。
「彼女は、我々とはまったく違う存在です。だからこそ、我々のリーダーなのです」
そして、付け加えた。
「もしかすると……アサモト様がこの世を去られる前に、その地位へ到達するかもしれません」
アサモトは数珠を持ち上げながら笑った。
「人の一生というものは、この広大な世界から見れば、あまりにも短いものだ」
指の間で数珠をゆっくりと動かす。
「世界は毎日動き続け、時とともに前へ進んでいく。だが、人間が生きられる時間はほんのわずかだ。そのすべてを見届けるには、あまりにも短すぎる」
数珠を握る手に、少しだけ力がこもった。
「人の寿命とは……本当に短すぎるものだ」
しばし、沈黙が流れた。
「だからこそ……人は死んだ後、多くの魂を失ってしまうのだろうな」
アサモトはわずかに目を伏せた。
「短い生を与えられながら……何一つ成し遂げられなかった者たちの魂を」
悲しげに息を吐く。
「それを思えば……悲しいことではある」
そして、再び指の間で数珠を動かす。
「だが……それもまた、変えることのできない生命の理なのだ」
アサモトは、手の中の数珠をしばらく見つめた。
「なあ……もし、いつか誰かが、この理を破ることができたとしたら……何が起こると思う?」
リードは顔を上げ、アサモトを見る。
「どういう意味ですか、アサモト様?」
「ははは……」
アサモトは軽く笑った。
「そう真剣になることもない。私たちにはどうすることもできない話なのだからな」
そう言うと、彼は像の近くに置かれた机へ向かい、自分のためにグラスへ酒を注いだ。
そして、もう一つのグラスをリードへ差し出す。
「君を呼んだのは、別の話があるからだ」
リードはグラスを受け取った。
「我々の安定を揺るがそうとしている集団がいる、という報告が入っている。どうやら、その中には一般の民もいるようだ。しかも、王国の周辺から遠く離れた土地より来た者たちらしい」
リードが顔を上げる。
「それに、町の衛兵たちが何人かの暴徒を拘束したとも聞いています」
「その者たちの証言によれば……祭りを台無しにするつもりだったらしい」
「今のところ、我々が掴んでいる情報はそれだけだ」
しばしの間、沈黙が流れた。
「私のもとに届いた情報は……今回拘束された者たちの証言とも一致している」
アサモトは像へ視線を向けた。
「ネフターニ様は、三百年に一度繰り返される災厄から我々を守るため、この結界を生み出す力として、自らの力を捧げた」
「それは、この王国だけのために捧げられた犠牲ではない。確かに、ネフターニ様はこの地を好み、我々が経験してきた苦難に心を寄せてくださっていた」
「だが……あの御方は、この世界全体の女神でもあることを知っていた」
「だからこそ、一つの土地を他よりも大切に思っていたとしても……すべてを守らなければならなかったのだ」
「ここに『始原の核』を生み出した。あの核が鼓動を続ける限り、この結界もまた存在し続ける」
リードはグラスを両手で包むように持った。
「そして、この結界を基にして……他の結界も生まれたのですか?」
「そうだ」
アサモトはグラスを口元へ運び、一口だけ飲んだ。
「そして最後には、我々に自由を残された……」
「残されたものを守ることを、我々に託してくださったのだ」
リードは頷いた。
「ええ。信頼してくださった。ならば我々も、その信頼に応えなければなりません」
アサモトは微笑んだ。
「では、知っているか? 今、他の王国が何をしているのか」
「我が国へ貢ぎ物を送り、ネフターニ様の慈悲を求めている……」
「その通りだ」
アサモトは続ける。
「そうすることで、我々は国内だけでなく、他の王国とも平和を保っている。それが、我々と彼らの間で長く続いてきた習わしだった」
その微笑みが、わずかに薄れた。
「だが……それも、そう長くは続かないだろう」
リードは黙ったままだった。
「人間というものは欲深い、リード。どれだけ手に入れても……必ず、その先に欲しいものが生まれる」
「そこで利用されるのが……民衆だ」
「富、地位、権力……」
「誰かに欲しいものを与え、頭の中にいくつかの嘘を植え付けてやれば、それだけでいい」
アサモトは微笑んだ。
「そうすれば、遠くから操ることのできる人形になる」
リードは自分のグラスへ視線を落とした。
「つまり……裏から糸を引いている、ということですか」
リードはしばらく黙り、そして続けた。
「なるほど……直接動けば、おそらく政治的な自殺行為になる……」
アサモトは彼を指差した。
「その通りだ」
そして、続ける。
「だからこそ、奴らは自分たちの代わりに人形を動かしている」
「ネフターニ様は、他の王国を我々が抑える権利を与えてくださった。それは、我々が誰も不当に扱わないと知っていたからだ」
「そして……奴らは、その決定を覆そうとしている」
リードはグラスを脇へ置いた。
「では……私に何をお命じになりますか、アサモト様?」
アサモトは微笑んだ。
「もう、これ以上説明する必要はなさそうだな」
その声色が変わった。
「我々がこうして話している今この瞬間にも、ネフターニの街は……あるテロリスト集団の襲撃を受けている」
リードは即座に立ち上がった。
「街が……?」
「まずは座りなさい」
リードは再び席へ戻った。
「街の中で、何かが破壊と混乱を引き起こしているという報告が届いている。だが、それが何なのかは分かっていない」
「魔物ですか?」
「そう断言できるだけの情報はない」
「今のところ、すべてが謎だ。頼りになる物証もなく、確証を持って語れる仮説もない」
「だが……奴らの狙いは、街の人々の間に混乱と恐怖を引き起こすことだと私は考えている」
「奴らは知っているのだ。我々に対する人々の信頼を揺るがせば、教会と王家の根幹を直接揺さぶることができる」
「そして、我々への信頼が揺らげば……彼らの信仰までもが揺らぐ」
アサモトは一瞬、口を閉ざした。
「だが……奴らには一つだけ、大きな間違いがある」
そして、微笑んだ。
「奴らが何をしようと……そう簡単に、何かが変わるわけではない」
リードは片膝をついた。
「アサモト様。直ちに街へ戻る許可をいただきたい」
「民を守ろうとする、その忠誠心は気に入った」
アサモトは一瞬だけ、リードの肩へ手を置いた。
「だが……お前を呼んだのは、別の特別な任務のためだ」
リードは顔を上げる。
「特別な任務……?」
アサモトは頷いた。
「そうだ」
「街のことは心配するな。我々は、あそこにいる兵士たちを信じなければならない」
「確かに、今はヴィラルクスの部隊が各王国へ派遣され、それぞれの任務に就いている」
「だが、聖女はまだあの街にいる」
「もし状況が悪化したとしても……街が無防備になるわけではない」
リードは頷いた。
「分かりました」
アサモトは立ち上がった。
「今のお前に求めるのは……街よりも重要な場所を守ることだ」
リードは彼を見つめた。
「重要……?」
「そうだ」
「すべての基盤となっている場所がある」
一瞬、沈黙が落ちた。
「そこには……誰一人として近づいてはならないものが眠っている」
そして、アサモトは付け加えた。
「触れることすら、許されない」
リードはアサモトから目を離さなかった。
「その場所を……命に代えても守ってほしい」
リードは静かに頭を下げた。
「私はリード・レイトン。ヴィラルクスの一員にして、この王国を守る者」
「我が女神ネフターニ様が民のためにその身を捧げたように……私もまた、この身を捧げます」
そして、顔を上げる。
「守るべきものは……必ず守り抜きます」
◇ ◇ ◇
夜――。
リードは、アサモトから教えられた場所へと辿り着いた。
……
そこへ続く通路は、闇に包まれていた。
ただ一つ――
壁のあちこちに埋め込まれた結晶だけが、淡い緑色の光を放っている。
リードはゆっくりと歩を進めた。
一歩……。
そして、もう一歩。
……
「ここが……」
リードは足を止めた。
周囲を取り囲む結晶へ視線を向ける。
「ここにある魔素の量は……」
言葉を続けることができなかった。
リン……。
リードの身体が凍りついた。
……
リン……。
ゆっくりと顔を上げる。
その音が、こちらへ近づいてきていた。
リン……リン……。
リードは通路の奥へ振り向く。
すると、闇の中から一人の人影が浮かび上がった。
白地に黒い縞模様の入った衣装。
白い手袋。
そして、白い粉で顔を覆い、口元、目元、鼻の周囲には黒い円が描かれている。
男は立ち止まった。
声は一切発しない。
……
リードは一歩後退すると、柱の陰へ身を隠した。
息を潜め、男の様子を窺う。
男は動かなかった。
ただ、そこに立っているだけだった。
まるで――
何かを待っているかのように。
……
そして――
男の顔に、大きな笑みが浮かんだ。




