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W杯ソング、米津玄師『烏』歌詞考察――なぜサッカーの応援歌なのに、応援歌らしくないのか。その意図とは?(前編)

◆米津玄師『烏』(W杯ソング)は、何を応援しているのか。


この歌は、サッカー選手を応援しているようで、期待された形に自分を曲げず、個として立とうとするすべての人間を応援している。


そして、その歌を『応援歌らしくない応援歌』として差し出したこと自体が、米津玄師自身の生き様の表明である。


『心の奥まで読み解く名作考察(※)』シリーズ。

一作目は、米津玄師『烏』を観ます。

※名作を通して、人の心の奥を覗くシリーズ。


お断り。

これは公式解釈ではない。

僕がこの曲を聴き、歌詞を読み、こう観えたという独自考察である。


さて、それじゃあ、一緒に観ていこう。


◆この曲には、分かりやすい違和感がある。


なぜ、『烏』なのか。

なぜ、サッカーのテーマなのに、『応援歌らしくない』のか。

なぜ、チームスポーツであるサッカーの曲なのに、集団よりも『個人』が前面に出ているのか。

そして、米津さんはこの曲で、いったい何を応援したのか。


「応援歌らしくない。だから合わない」


Xで見かけるその感想は分かる。


けれど、米津さんが好きなサッカーのために曲を書く。

それも、大きな大会のテーマとして聴かれる曲を書く。


その状況で、彼が、何の意図もなく『応援歌らしくない曲を出した』とは思えない。


では、彼はこの曲で、何を応援したのか?


◆烏とは何なのか


まず、誰もが思い浮かべるのは八咫烏だろう。


日本サッカーの象徴。日本代表のエンブレム。

そして、神話において行くべき道を示す鳥。


サッカーのテーマ曲で、タイトルが『烏』であるなら、まずそこに接続するのは自然だ。


だが、ここで一つ引っかかる。


タイトルは『八咫烏』ではない。

『烏』である。


神の使いとしての鳥ではなく、ただの烏だ。

導きの象徴として整えられた鳥ではなく、もっと地上に近く、黒く、不吉な鳥。


しかも歌詞には、『夢見がちな烏になって』という言葉がある。


夢を見る烏。

それになる?


「神の使いになれ!」と歌っているはずもない。ここで、八咫烏という分かりやすい答えからズレる。八咫烏に烏の韻を踏みつつ、違う意図を込めた言葉だと読む方が自然だ。


もしこの歌が、ただ日本代表を応援する歌なら、八咫烏でよかった。

導き、神話、日本代表。


その線で綺麗にまとまるし、米津さんなら纏められたはずだ。


でも、そうしなかった。


では、この『烏』は何なのか。


ここが、最初の階段だ。



◆なぜ応援歌らしくないのか



次に、多くの人が感じる違和感。

この曲は、応援歌らしくない。


普通、サッカーの応援歌なら、勝利、栄光、仲間、夢、歓声、前進を歌う。立ち上がれ、走れ、諦めるな、勝利を掴め、と背中を押す。分かりやすい。


けれど『烏』は、そこには向かわない。

むしろ、この曲には『誰の声』からも離れようとする。



今だけは誰の声も聞こえない場所へ行こう

https://www.uta-net.com/song/394604/



ここが面白い。


むろん、ピッチの上で集中するシーンが浮かぶ人もいるだろう。そう取れるように寄せてはいると思う。青という言葉もユニフォームの色に寄せたものだろう。


ただ、あくまで表層だ。


その読みだけでは、



夢見がちな烏になって~辿り直していく

https://www.uta-net.com/song/394604/



の意味が通らなくなる。


では、誰の声も聞こえない場所とは一体どこなのだろうか。


サッカーとは、声援の中にある競技だ。スタジアムの歓声。仲間の声。監督の指示。国の期待。見ている人たちの祈り。その声が力になるはずだ。


だが、聞こえない場所へ行けという。


この歌が応援歌らしくないのは、盛り上げ方を間違えたからではない。


応援している対象が違うのだ。


勝利へ向かうチームを外から煽る歌ではない。


『声援と期待の中では聞こえなくなってしまう、大切なもの』を応援する歌。


さて、誰の声も聞こえぬ場所とは、どこか。

これが二つ目の階段だ。


◆何のために戦うのか


さらに深い違和感は、戦う理由にある。


歌詞には、子どもの頃の漫画のような、誰かを守ること、誰かを救うことへの憧れが置かれている。



漫画の世界はいつも誰かを守って救うことが何より大切だった

https://www.uta-net.com/song/394604/



これは、とても分かりやすい。

その通りだ。王道漫画では、これが結論になる。


誰かのために走る。仲間のために戦う。応援してくれる人のために勝つ。国のために、チームのために、自分を超える。スポーツの物語では、これほど美しい動機はない。


だが、この曲は、そこを足場にして飛ぶ。

むしろ、『誰かのためじゃなかった』という場所へ向かう。


ここが、この歌の反転だ。そして、米津さんが声援を込めた一節である。あの米津さんをして、『上手く言えないけど』と書くほどの万感が、ここに詰まっている。



生まれたのは誰かの為じゃなかった

https://www.uta-net.com/song/394604/



誰かのために戦うことは美しい。

誰かを守りたいという願いも本物だ。

誰かを救うために走る姿は、人の心を打つ。


けれど、それだけでは、人は最後まで自分の足で立てない。


誰かのため。期待のため。勝利のため。栄光のため。

それらが全部剥がれたあと、それでも『なお』飛べるか?


この曲は、そこを問うている。


生まれたのは誰かの為じゃない。

ならば、誰のためだと言うのか?


これが最後の階段である。



ここまでの三つの階段は、別々に見えて、全て同じ場所へ向かっている。


烏は、ただの代表シンボルではない。

応援歌は、ただ外から火をつける歌ではない。

戦う理由は、誰かのためではない。


この曲は、サッカーの歌を装いながら、さらに奥にあるものを覗きに行っている。


外から与えられた意味が全部剥がれたあと、一人の人間が何を拠り所にして立つのか?


潜るべきは、そこだ。


(後編に続く)

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