英国の事件(※ヘンリー・ノワクさん)から考える、移民・少子化・国家の思想的侵略論――未来を信じる共同体が、未来を信じられない文明を置き換える5/5
8 未来を信じる共同体が、未来を信じられない文明を置き換える
未来を信じる共同体が、未来を信じられない文明を置き換える。
この言葉は強い。
強すぎるかもしれない。
だから、慎重に扱う必要がある。
これは人種の話ではない。
宗教だけの話でもない。
移民だけの話でもない。
もっと深い話だ。
子どもを未来として迎えられるか。
子どもを祝福として見られるか。
自分の人生を、次の世代へ渡すことに意味を感じられるか。
この差である。
国は子どもを作れない。
国は制度を作れる。
補助金を出せる。
保育所を増やせる。
住宅政策を整えられる。
教育費を下げられる。
医療を支えられる。
それは必要だ。
だが、それだけでは足りない。
国は子どもを作れない。
子どもを作るのは、個人であり、家族であり、共同体であり、未来を信じる心である。
どれほど制度を整えても、未来を祝福する心が痩せていれば、子どもは生まれにくい。
これは、少子化対策の限界でもある。
金だけではない。
教育だけではない。
保育だけでもない。
住宅だけでもない。
それらは必要だ。
だが、それらは土台である。
最後に問われるのは、心だ。
自分の人生を未来へ渡せるか。
子どもという存在を、コストではなく祝福として迎えられるか。
この社会に、次の世代を生きてほしいと思えるか。
ここが痩せると、国家は続かない。
国民の祈りが未来を作る。
この一文が重い。
国家は巨大に見える。
法律もある。
予算もある。
軍隊もある。
学校もある。
福祉もある。
だが、国家は子どもを産めない。
未来を産むのは、国民の心である。
9 子どもを産む意味とはなんだろうか
最後に、問いを置きたい。
子どもを産む意味とはなんだろうか。
この問いに答えられない。
心が痩せているとは、そういうことだ。
もちろん、答えは一つではない。
家族がほしいから。
愛する人との結晶だから。
未来へ命をつなぎたいから。
子どもが好きだから。
自然にそう思ったから。
自分が受け取ったものを渡したいから。
理由などなく、ただ望んだから。
どれもありうる。
逆に、子どもを持たない理由もある。
経済的に不安だから。
体が難しいから。
相手がいないから。
自分の人生を別の形で生きたいから。
親になる自信がないから。
過去の傷があるから。
世界に子どもを送り出すことが怖いから。
それもまた、真剣な理由である。
だから、この問いに雑な正解を置いてはいけない。
子どもを持て。
国のために産め。
産まない人は身勝手だ。
そんな言葉は呪いになる。
だが、逆もまた違う。
子どもはコストだ。
子どもは負債だ。
子どもを持つなんて非合理だ。
未来に希望などない。
そう切り捨ててしまうのも、心の痩せである。
問うべきなのは、もっと奥だ。
僕たちは、未来を祝福できているのか。
子どもを持つか持たないかの前に。
制度がどうかの前に。
移民がどうかの前に。
自分たちの社会に、次の世代を生きてほしいと思えるのか。
自分の人生を、未来へ渡すことに意味を感じられるのか。
この国が続くことを、心のどこかで祝福できるのか。
この問いに答えられないまま、移民だけを責めても、何も見えない。
根のある共同体が拡張しているように見えるのは、こちらの根が痩せているからでもある。
英国の事件は、移民問題として始まったように見えた。
警察の失敗として見えた。
反差別思想の倒錯として見えた。
国家不信として見えた。
思想的侵略として見えた。
だが、その下へ降りると、別のものが見える。
先進国は、未来を祝福する力を失った。
ここに、僕は一番深い恐怖を感じる。
外から誰かが攻めてくるよりも、内側で未来を信じられなくなることの方が、文明にとっては深い傷かもしれない。
移民問題。
少子化。
国家不信。
反差別。
警察。
宗教。
共同体。
未来。
これらは別々の問題に見える。
だが、最深部では一つの問いにつながっている。
僕たちは、未来を祝福できるのか。
この答えのない問いを抱え、自分なりの答えを出すこと。
不確実で正解のない未来を祝福する力。
これもまた『教養』の話である。




