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W杯ソング、米津玄師『烏』歌詞考察――なぜサッカーの応援歌なのに、応援歌らしくないのか。その意図とは?(後編)


◆で、烏とは何なのか


そして、問いは最初に戻る。


八咫烏なら、すでに意味がある。日本代表の象徴であり、神話の鳥であり、導きの存在だ。応援歌なら、すでに型がある。勝利を願い、栄光を掲げ、仲間を讃え、前へ進めと叫ぶ。誰かのために戦う物語にも、すでに美しさがある。守るために走る。救うために戦う。期待に応えるために、自分を超える。


それらは、どれも間違っていない。


けれど、この曲はそこに留まらず、それらを剥がしていく。


代表の象徴。応援歌の型。誰かのために戦う美談。

それらを剥がしたあと、何が残るのか。


『烏』が残る。


神の使いではない。

勝利の象徴として整えられた鳥でもない。

誰かに褒められるために飛ぶ鳥でもない。


黒い。

不吉に見える。

嫌われることもある。


それでも飛ぶ――『命』である。



◆ここからもう一段だけ深みに潜る。



命であるなら、烏である必要はなかった。八咫烏に寄せる意図は分かる。それでも、勝利に寄せる選択肢も、人に寄せる選択肢もあったはずだ。


だが、米津さんは『からす』を選んだ。


ハチさんの頃から知ってはいるが、米津さんの半生を知っているわけではない。歌詞や創作物を通して、彼の魂を見れば観えるものがある。


普通であることができない人。


それはこの歌詞に書かれている。誰かの為に生きることを教わった。漫画のヒーローを理解した。でも、そうなれなかった。


これは能力の話ではない。


なりたくなかったのだ。


どうしても理由もなく嫌だった。


普通に染まれない。


独特な感性を持ってしまった人は、普通であることが楽だと知っていても、感性を捨てられない。

すると、自分の感性を守ることが何より大切なのに、守ると周囲との軋轢が増す。


変人扱いされる。辛い目に合う。それでも、どうしても捨てられない。


この力学の中で、幼いころから、自分を守るとは、痛く苦しいものだと理解していく。でも、その苦しみを感じてでも守りたい大切なものが自分の中に在ると誰よりも知っている人になれる。


この力学で世界を見ると、美しいものと苦しみは表裏一体に見える。

自分の大切なものを守った証が、苦しみに見えるからだ。


それは、命を深い位置でこう理解しているということである。


生きるとは苦しく辛い。でも、どうしても捨てられない美しいものである。


だから『烏』なのだ。


黒い。汚れて見える。でも、生きている。飛んでいる。躍動する命である。


苦しみの中でも、確かに生きている。


それだけで美しい。


この歌詞の深層は米津さんの人生観に通じている。


……と僕は観る。



◆話を一段浮上させる。



勝利したから美しいのではない。

誰かを救ったから価値があるのでもない。

期待に応えたから認められるのでもない。


飛ぶから、美しい。

生きているから、美しい。


この曲の烏は、評価される前から空を切っている命だ。

意味を与えられる前から、夢を見ている命だ。

誰かの物語に回収される前から、すでに自分の形で飛ぼうとしている命だ。


だから、この曲は応援歌なのだ。


ただし、勝てと叫ぶ応援歌ではない。

栄光を掴めと煽る応援歌でもない。

日本を背負えと焚きつける歌でもない。


もっと奥にある。


大きな構造の中で、自分の命の形(=魂)を失うな。


そう祈る歌である。


サッカー選手は、個人でありながら、集団の中で戦う。一人の身体で走り、一人の判断で蹴り、一人の痛みを抱える。けれど、その身体には、チームの戦術が乗る。国の期待が乗る。観客の声が乗る。勝利への物語が乗る。


それは祝福だ。


しかし、同時に、圧でもある。


だからこそ、この歌は声から離れる。

外側の熱狂から、一度離れる。

誰かのためという美しい理由からも、一度離れる。


そのうえで問う。


今、なぜ飛べる?


ここで、勝利や栄光よりも深い場所が見える。


『誇り』だ。


誇りとは、他人に褒められたから生まれるものではない。

勝ったから与えられるものでもない。

役割を果たしたから支給される報酬でもない。


誇りとは、自分の生き様を、自分自身で選ぶことだ。


黒くてもいい。

不吉に見られてもいい。

期待された姿と違ってもいい。

応援歌らしくないと言われてもいい。


それでも、自分が望む形で飛べ。


僕は、『からす』がそう叫んでいるように聴こえている。



◆これは米津玄師自身の誇りの表明でもある



ここまで来ると、この曲そのものの在り方が変わって見える。


米津さんなら、もっと分かりやすい応援歌を書けたはずだ。


勝利。

歓声。

仲間。

夢。

日本代表。

諦めるな。

前へ進め。


そういう言葉の配置を、彼が知らないはずがない。

大きな場所で求められる曲の形を、分かっていないはずがない。


言うまでもなく、分かっている。

分かっていて、そうしなかった。


ここに彼は意味を込めた。


そこに誇りがある。

誰の為でもない、譲れぬ選択がある。


勝利でも、論理でも、合理でも、効率でもない。

非合理で、批判されるが、自分の心に沿った選択。


誇りを知る騎士は、負けると分かったからといって逃げはしない。


合理的に考えれば逃げるべきだ。

でも、そうしない。


ここで死ぬとしても、その背に守るべき者を背負う。


それが誇りというものだ。


サッカーのテーマとして求められる形がある。

応援歌として期待される型がある。

米津玄師ならこういう曲を書いてくれるはずだ、という世間の期待もある。


その全部を知ったうえで、彼はこの曲を世に出した。

応援歌らしくない応援歌として。


そこに僕は、曲の内容と行為の一致を観る。


からす』は、期待された形に自分を曲げるなと歌っている。

そして米津さん自身が、期待された応援歌の形に自分を曲げず、この曲を出している。


だから、この曲への賛否すら、曲の射程内に入っているはずだ。


応援歌らしくない。

盛り上がらない。

サッカーとの関係が分かりにくい。

大きな大会の曲としてどうなのか。


その声は当然出る。


だが、その声に合わせて形を変えた瞬間、烏は烏ではなくなる。


八咫烏になる。

象徴になる。

役割になる。

期待された形になる。


それでは、この曲を通して応援したい『命そのもの』が消える。


この曲はサッカー選手を応援しているようで、期待された形に自分を曲げず、個として立とうとするすべての人間を応援している祈りに観える。


そして、その歌を応援歌らしくない応援歌として差し出したこと自体が、米津さん自身の誇りの表明に観える。


これは、勝利の歌ではない。


集団の中で埋もれずに、己の誇りを胸に、個として飛ぶ人を熱烈に応援するための歌だ。



◆最後に



この曲は難解だ。

生き様と誇りを歌うからだ。


でも、分かる人には分かるだろう。


期待されることの重さ。

応援されることの苦しさ。

誰かのために頑張る美しさと、その危うさ。


分かるはずだ。


「こうあるべきだ」という声に、自分の形を少しずつ削られていく感覚が。


誰かのために生きることは……正しい。


けれど、正しさだけでは、自分が消える。


『芸術家』とは、あるいは、『感性を持ってしまった人』とは、この矛盾に自分の魂を譲れない人なのだと僕は思う。


意図的に譲らないではない。

どうしても譲れないのだ。


譲った方が楽でも。

苦しくなくても、快適でも。


どうしても……。


苦しみの中に在っても、美しいと思うもの(=自分の命の形)を選んでしまう。


だから、『からす』なのだ。


命の美しさは譲れない大切なものに宿る。


合理的に正しく、勝てぬ敵から逃げた騎士ではなく、負けると分かっても守るべきもののために剣を取った騎士の方が美しい。


非合理で正しくなくても、そう感じてしまうのと同じことだ。


黒くても。

不格好でも。

誰かの期待した姿と違っても。


それでも、自分の翼で空を飛べ。


勝て、ではない。

背負え、でもない。

応えろ、でもない。


飛べ。

生きて、お前の姿で、戦え。


そこに、米津さんの『祈り』がある。


そう観える。

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