【-ディルの混乱-】
「どうして、そんな姿に?! ねぇ、東堂君!」
「待って、葵! それ以上、近付いちゃ駄目だよ!」
「けれど、それじゃ東堂君になにがあったのか分かりません!」
取り乱す葵をリコリスが必死に押さえ込んでいる。
無理もない。
東堂 幹雄は雅も知っている、葵のクラスメイトであり友人なのだ。客船型戦艦で出会った少年であり、ヒトガタワラシの討伐後は廃墟となった町を復興させるために尽力している……はずだったのだ。
なのに、ここに居る。どういうわけか、ここに居るのだ。それも人間なのか海魔なのかも分からない中途半端な存在で、雅を一撃で殺そうと景色に溶け込み、襲い掛かって来た。
「俺、は……帰る……追わないで、くれ……で、な、いと、止められ、ない。衝動、を、止められ、な、い。人を、殺して、喰う……衝動、を……」
東堂は翻り、闇夜に紛れて走り去った。葵があとを追おうと抵抗を見せたが、その抵抗も虚しく、リコリスが鳩尾に入れた拳で意識が落ちた。
「私や葵、そしてあなたを見て、あれだけ混乱し、体も拒否反応を示すかのように吐血。本能を痛みで消し飛ばして、理性で退却。ねぇ、クソロリ?」
「なんです、か?」
「あなた、あれを殺せる?」
「……無理、ですよ。だって、だって!」
「東堂 幹雄は葵のクラスメイトで友人、あなたにとっても顔馴染み。だけど、殺そうとして来たわよ? 私の防御が無きゃ、あなたは体の一部を切断されていたかも知れない。そして、習性は極めて海魔に近しく、運動性能もそちらに近しく、けれど思考は人間に極めて近い。そんな海魔とも人間とも呼べない新たな知的生命体で、あなたに、私たちに歯向かうのなら、殺すしか、無いんじゃないのー?」
いつものケラケラとした嗤いを見せているが、雅にはリコリスの心の内側が分かる。
「本意じゃありませんよね?」
女は嗤うのをやめ、そして表情を強張らせる。
「殺しが嫌いなはずのリコリスさんが、殺しを良しとするような発言をする。だとすればそれは、嘘だ」
「そんなわけないじゃーん」
「そうやって嘯いて、なんにも考えていないフリをして、自分を偽る。ケッパーがやっていたことと一緒です。本音を聞かせてください。そして、なにを考えているのかも教えてください。偽るのはもう、やめてください」
リコリスはたじろぎ、雅の視線から逃れるようにそっぽを向く。そして落としていたキャップ帽を拾い上げて被り、意識を失った葵を抱え上げた。
「人間でも無く、海魔でも無い、中途半端な生命体。けれど、人間の意思が残っていて、人間としての原型も留めていて、けれど海魔の習性を幾つか合わせ持っていて、それでもやっぱり人間のように言葉を遣って、表情も豊かで……どうしたら良いのよ、クソロリ。なんであんなことになっちゃっているのか私にも分かんないのよ。だから、教えてよ。私は、殺さずにあれを止められる? だとすればどうやって? もう、さっぱりよ。それに、葵があれを殺すのも見たくない。だから、あなたが代わりに殺してくれれば、なんて考えた。悪いわね、クソロリ。なにもかも、あなたに押し付けようとしたわ」
「どうすれば良いかは、私にも分かりません。けど、今日、目にしたことは確かなことで、そして全員にちゃんと話さなければならないことでもあります。彼だけとは、限らないんですから……それに、押し付けているのは私たちだって同じなんです。弱いと決め付けて、強い人に助けてもらえる。そんな風に決め付けて、あなたたちに甘えている。一緒ですよ、その辺りの……卑しさは、きっと」
「そう……そうね、卑しいわね、私たちって。彼だけじゃない、か。そりゃ、あれだけ居た中の彼だけがピンポイントで、あんなことになったなんて、思えないものね。だったら、秘密裏にするよりも打ち明けてしまわなきゃならない。殺しが嫌いな、私たちがあれを殺せるのかどうかも含めた、話し合いを……ねぇ、クソロリ?」
「はい?」
「あのクソ男は、殺すって言うかなー。言うと思うんだよねー、言っちゃうと思う。うん、私はずっとあのクソ男を信じてなんかいないから、思考は勝手にそっちに行く。だけどさー、本音はさー……言わないで欲しいってところがあるんだよー。おかしいよねー、人で無しになって随分経つのに、まだ私はどこかで、人で在りたいと思っているんだよ。ほんと、馬鹿馬鹿しいくらいに、クソ男にまだ期待している。こんな自分が、情けないような嬉しいような、けれどやっぱり、大人っぽくないよねー。あははは、なんでこんなこと、話しているんだろ。まぁ、良いや。クソロリと海竜の話を盗み聞きしちゃったしねー、私もそれなりに弱みを見せたってことでー、お相子。あとは、女同士の秘密として、バラしちゃー、嫌だよ?」
雅は深々と肯き、そして頭を下げて「助けてくれて、ありがとうございました」と言う。リコリスはいつもよりも弱々しくケラケラと嗤いながら、抱えた葵と共に暗がりに消えた。方角は土の家だ。
「ワタシたちも、帰ろうよ?」
「うん。でも、突然、葵が仮拠点から飛び出したことを良しとしないよね、ディルは」
草木を掻き分け、暗がりの中から畏れ敬う男がヌッと出て来る。
「なにがあった?」
「なにも」
ディルが雅の胸倉を掴んで、強引に引き寄せる。
「吐け。テメェにとって有用じゃなくとも、俺にとっては有用な情報かも知れねぇ」
「それは、無理」
返答が気に喰わなかったらしく、ディルは雅の首根っこを掴み、力強く絞め付けたのち、地面に向かって叩き付ける。
「げほ……げほっ!」
「ウスノロが制止を振り切って、あそこから出て行った。クソ女の残滓がなにか連絡を入れたってことだ。なら、ここでなにかが起こったのは明白じゃねぇか。ついでにクソ女が垂れ流したおかげか周辺は水浸しだ。これでなにも無かったと言えるテメェの脳味噌はどれだけ小せぇんだよ」
「なにかはあったよ」
更に雅を踏み付けようとしたディルにリィが話し掛け、そして雅を庇うように合間に入る。
「退け、ポンコツ。テメェも蹴られたいのか?」
「なにかは、あった。でも、それはあの人がちゃんと話すって言っていた。だから、ワタシもお姉ちゃんも、なにも言わない。あの人の役目だから」
「いい加減にしろよ、テメェら。俺は、ガキの子守りをやっているわけじゃねぇんだよ」
ディルはリィを蹴り飛ばす。けれど、立ち上がろうとした雅がその様を見たとき、ディルの顔は僅かに苦痛を感じているときのような、そんな表情になっていた。
「生きるか死ぬかの瀬戸際に、俺たちは立たされていることを理解しやがれ。出し惜しみせず、知っていることを洗いざらい吐くまで、俺の暴力は止まらねぇぞ?」
「だったら、痛め付ければ良いじゃない」
立ち上がって、雅は反抗する。
「半殺しに遭うくらいにボコボコにされても、野垂れ死ぬんじゃないかってくらい傷付けられても、私は絶対に喋らない」
「ワタシも、喋らない」
意地と意地の張り合いだ。こうなったとき、いつも雅が、リィの心が折れる。しかし、今夜ばかりは折れたくもなく、そして譲りたくもなかった。たとえボロボロになろうと、動けなくなろうと、なにも話さない。リコリスと誓った約束は果たさなければならない。こんな男ですら約束を守ろうとするのだ。ならば、こんな男よりもまだマシな自分がどうして守れないのか。そうやって雅は自分を追い込み、焚き付けることで、脅迫や暴力には屈しないという強い意思を瞳に宿し、ディルを睨む。
「良いか、クソガキ。自分の人生だ、少しは猶予を与えてやる。ここで俺にボロボロにされ、死に恥を晒すか、それとも全て白状して、これ以上傷付かずに首都を目指すか」
「ボロボロにはならないし、首都だって目指す」
「そうかよっ!」
ディルが近場の枯れ木に手を当て、変質させて金属の斧鎗を握る。
「宣告はした、猶予も与えた、それでも従わないクソガキには、やっぱこれしかねぇよなぁ!!」
手合わせをして来た中で、ディルが斧鎗を雅に向けたことは一度も無かった。そして、斧鎗を向けられたことで、これが手合わせや、この男の中途半端な暴力の発散とはなんの関わりも無く、全てを賭して雅を屈服させようとしていることが分かった。
「なんで私たちの言うことを、信じてくれないの?」
「気安くそんな言葉を遣ってんじゃねぇ!!」
地面を力強く踏み締め、ディルは怒りを露わにする。
「言っただろ、俺は半信半疑だ。信じ、疑い、そして利用する。やっぱテメェは俺のことなんざちっとも分かってねぇなぁ。足りない、なにもかもが足りない」
「なにが足りないって言うのよ」
「向けられた責任の重さも、ぶつけられた蔑みの言葉も、産まれたことへの恨み節も、テメェにはあんのか?」
「それは……」
言葉に詰まる。雅は孤独だった。しかしそれは、両親が居なくなってからだ。そしてそれは、雅だけに限ったことではない。この世界にしてみれば、それは特別なことではなく、至極、当然に起こる悲劇に過ぎない。
ただ、悲劇の重さが違う。
雅は孤独しか知らない。
だが、ディルは孤独以上を知っている。それがどんなことかは分からないが、しかし、発する言葉のどれもが刺々しく、刃物のように冷たく、雅の心に切っ先を向けて今にも突き刺さって来そうだ。
「分かろうとしていないのは、どっち?」
「ああん?」
「ディルだって、お姉ちゃんのことをちっとも分ろうとしていない! ワタシのことは必死に分かろうとしたのに! お姉ちゃんが抱えている不安も、怖さも、なにもかも! ディルはただの一言で押し退けて来た! 『うるせぇ』というたった一言だけで、済まして来た! なのに、そんなことを言えるの?!」
目が泳ぎ始める。ディルの様子がおかしい。手に握っていた斧鎗を落とし、震える両手を眺め、全身から汗を噴き出させている。
「そんな、そんな顔を、そんな顔をするんじゃ……違う、そんな、つもりじゃ、無い。俺は、俺で、俺なり、に」
なにを、ディルは言っているの?
雅には男の狼狽が理解できない。そしてリィも、初めて見たと言わんばかりに、投げ掛ける言葉に悩んでいるのが見て取れた。
「ディル?」
「来るな」
「ねぇ、ディル?」
まずい。
ディルは落とした斧鎗を拾って、高々と上げている。そしてリィはその素早い動きに対応し切れていない。信じているから近付いた距離。それが仇となった。あれだけ近いとリィでも避けるのは不可能だ。
「来るなって、言っただろうが!!」
振り下ろされる斧鎗。しかし、声も上げず、避ける動作すら取れないリィにその凶刃が襲い掛かることは無く、ディルの腕をナスタチウムが押さえていた。
「それ以上は後悔するぞ、餓鬼」
見ればナスタチウムは肩に誠を担いでいる。つまり、ナスタチウムの力が込められた腕の振りを片手で止めたことになる。
「よく自分を見つめ直しやがれ。酒だろうと快楽だろうと、なんであれ逃げることはできたはずだ。なのに、逃げることさえできずに真正面から受け止めることしかできねぇ餓鬼のクセして威勢ばかりが強くなったテメェは、張子の虎だ。会ったときから、張り詰めた糸を緩めず、ピンッと張ったまま、いつか千切れるんじゃねぇかと思ったが、もう手遅れのようだな」
ディルは斧鎗を落とし、その場に白目を剥いて倒れ伏した。




