【-リィの生き方-】
「戻ろっか、リィ」
「もう一回ぐらい、見たいなぁ。お姉ちゃんの剣戟」
「……分かった。だけど、ちゃんと離れていてね。近くで見るのは駄目。遠くで見るなら、もう一回だけ」
リィが肯いたのを見て、雅は短剣を構え直す。頭の中を空っぽにして、心のままに、軽い足運びで、しかし鋭い剣戟を立て続けに繰り出し、そこに『風』の変質も加えて、噴出の威力を載せた最後の一撃。前回は噴出の強さに負けて短剣を手放してしまったが、今回は調整が上手く行き、短剣は手元に残っている。
風の波がやみ、静けさが辺りに満ちる。雅が短剣を鞘に戻すと、リィがパチパチと拍手していた。
「大げさだよ」
ほら、行こっ、と付け足してリィの手を取って、土の家へ引き返す。
「ディルの言ったことを、気にしてる?」
「言ったことって?」
知らんぷりを貫き通そうとしたが、無理らしい。
「ワタシが、ディルの言うガキにそっくりってこと」
「ああ、うん。気にはしているけど、リィはどうなの? ディルと出会ってからずっと、そうやって比べられて来たんじゃないの?」
「比べられて、来たかは分からない。それに、ワタシは、ディルの言っていたガキにそっくりってだけで……生き写しってだけで、そのガキとは、違う」
難しい言葉を知っている。リィとディルの言っていた女――あの男がガキと言うのだから、恐らくは女の子は、生き写しであってイコールでは結ばれない。なにせ、ディルの言う女の子は人間で、リィは海魔だ。まず種族が違う。立ち位置も違う。その女の子は海魔に襲われる側。リィは海魔として人間を脅かす存在だ。けれど、リィ自身はディルの言うことに従い、そして自分の意思で海魔と戦うディルの傍に居る。その辺りが、ディルの過去に出て来る女の子とリィの関係性をややこしくしているのだ。
もっと簡潔にしてしまえば良い。けれど、まだそうするには情報も手掛かりも少なすぎて、それら情報の糸が頭の中で絡まってしまう。
「リィはリィで、その子はその子。ディルのことだから、分かっていても、当たりはキツかったんじゃない?」
なにせポンコツと呼んでいる。一度も彼女のことをリィとは呼ばない。そもそもリィという名はディルが付けたのか、リィ自身が付けたものなのかも雅は教えてもらっていない。ギリィだからリィ。知っているのはただそれだけだ。
「蹴られたり、殴られたりはいつものことだった。ただいつも、蹴る直前も、殴る直前も、一瞬だけ動きが止まるの。ワタシの顔を見て、止まるの」
ディルが子供だった頃、リィと生き写しの女の子とのやり取りが、ディルの生き様そのものになっているからこそ、痛め付けるという行為に一瞬の躊躇いが生じるのだろう。それでも殴り、蹴り飛ばすことができるのは、きっとあの男自身が心を鬼にして、或いは抱いている過去の想い出を傷付けて実行するからだ。
雅には容赦は無くとも、リィには少しばかり容赦する。そんなことはもう分かっている。隠しているだろうけれど、お見通しである。そんなディルが、リィを従わせるために暴力を振るうのなら、そういう自分自身の心や精神をも傷付ける方法ぐらいしか思い浮かばない。
「ワタシは最初に、ディルを襲った。敵だと思った。殺さなきゃならないと思った。もしかしたら、食欲に促されていただけなのかも知れないけれど、とにかく襲おうとした。でも、簡単に負けた。殺されると思った。死ぬと思った。もう駄目だと思った。でもディルは、ワタシを連れて行くと言い出して、よく分からないままワタシは、ディルに付いて行くことになった」
本体は海竜のギリィ。それがリィで、そしてディルの心に残る女の子に生き写しの存在。最初の出会いは唐突で、そして強烈だったに違いない。一体どういう流れで、リィを発見したのかさえも、雅は想像するしかできないのだが。
「そのあとも、ずっとディルに付いて行った。最初は嫌だった。なんで人間なんかに従わなきゃならないんだって、ワタシの本能が囁いていた。だから何度も暴れた。この姿じゃなく、海竜になって暴れた。その度に、ディル以外の四人がワタシを殺そうとした。一度目はジギタリスが、二度目はリコリスが、三度目はナスタチウムが、四度目はケッパーが。でも、その誰もを跳ね除けて、ディル自身がワタシを守ると同時に、暴れるワタシを力尽くで従わせた。痛かった、辛かった、苦しかった。それで、泣きながらワタシは、この姿に戻るの。そうして、ディルを見ると、何故だかディルも感情が煮詰まったような、よく分からない顔をして、力強く、竜の雄叫びのような声を上げていた。ワタシは、四度暴れても尚、ワタシを殺さないディルを、この男を、信じようと、思った。相手は人間で、ワタシは海魔。よく分からない約束もさせられていて、その約束のために生かされているのかもとも思ったけれど、とにかく信じようと、思った。分からないことだらけなら、分かることだらけにすれば良いんだと、考えた。海魔のワタシには人間としての生き方なんてどれもこれも、ちっぽけに見えた。どうして川に流れる水を飲めないのか、どうして雨を避けるのか、どうしてワタシたちの血から身を守ろうとするのか、どれもこれも、なんて弱い種族なのだろうと、心の中で蔑んだ」
リィがこれだけ昔のことを語るのも珍しい。というよりも、これだけ饒舌になったことにも驚きを隠せない。彼女なりに、雅とディルの関係が以前よりも深いものであると判断したからだろうか。
「戦う姿は雄々しく、守る姿は凛々しく、死に行く姿は儚く、涙を流す姿は脆く、二面性のある種族だと思った。こんな激しく表情を変える存在を見たのは初めてだった。そもそも、ワタシがワタシを認識してすぐにディルに連れ回されていたんだから、初めて尽くしだったのは当然のこと。こんな喜怒哀楽を直情的に表して、それで一体なんの価値があるんだろうと、心は冷めていた。見ていたってつまんない。退屈で、虚しくて、ただただ暇だった。だけど、なんだろう……あるとき、違うんだと、気付いた。ワタシと人間は、違うんだ、と。人間はたくさんの感情を顔で、言葉で、体で表していた。ディルと敵対していた海魔はどれもこれも、同胞に対してだけは優しくて、他の海魔には酷く冷たくて、捕食する対象である場合もあった。なのに、人間はどこに居ても、どんな場所に居ても手を取り合って――取り合えない人もたまに居るけれど、それでも大多数の人間が手を取り合い、喜びを分かち合い、怒りを共有し、哀しみに涙し、楽しさで結ばれる」
リィが両手を広げて、クルクルと回る。
「こんな存在がこの世には居たんだと、心の底から驚いた。だってだって、ワタシは海魔だから、人間なんてどれもこれも食べる対象だったんだ。お腹が空いたら食べたいなーなんて考えていた頃があったぐらい。でも、人間の世界が、人間の感情が分かったとき、ワタシの中から退屈も虚しさも暇も、なにもかも、無くなった。なんて、なんて……こんなに素晴らしい生き方があるんだろうと、思った」
瞳は輝いている。リィは喜んでいる。それを顔に表せてはいないけれど、瞳の輝き方だけで、その爛々とした輝きだけで、なにもかもが読み取れる。
「ディルのぶつけて来た痛みも苦しみも辛さも、それを知ることができるなら我慢することができるようになった。そして、ディルのやっている海魔を殺すことを手伝いたいとも思うようになった。ワタシにとって、海魔は食べる対象でもある。ギリィとして人間と同じ食事を摂っても栄養を得ることができるし、川の水に限らず、人間が変質させた水を飲むこともできる。それはきっと異端なのだろうけど、極めて人間に近い自分が居るのだと思ったら、心は弾んだ。手伝うと言ったあと、ディルは少しだけ優しくなった。たくさんの知識を詰め込むことになったけど、知らないことを知ることは、お姉ちゃんと同じでとても楽しかった」
でも、と言ってリィは回るのをやめて両手を降ろす。
「ワタシは所詮、特級海魔のギリィに過ぎない。そして本体はドラゴニュートの祖とまで言われる海竜。人間に近くても人間じゃない。人間にはなれないし、人間とは感覚がどこかズレていることがある。ディルと一緒じゃないワタシは、きっと討伐対象になって、殺される。そんな存在。人間の素晴らしさを幾ら分かっていても、海魔というだけで、海竜というだけで、ワタシは討伐されなければならない存在。だから、お姉ちゃんにお願いがある」
「な、に?」
「全てが終わったら、ディルはワタシに殺してくれと言っている。だから、ディルを殺したワタシを……きっと狂ってしまうだろうワタシを、お姉ちゃんが殺して? その白い刃で、その黒い刃で、ワタシを……殺して」
雅は首を横に振る。
「嫌だ。嫌だよ、そんなの」
「お姉ちゃんにしかお願いできない」
「それでも嫌なの!」
雅はリィを抱き締める。
「最初にリィを見たときは怖かった。寝ているときに襲われるんじゃって思うくらい怖かった。言葉も刺々しくて、ディルが力尽くの暴力を担当しているのなら、言葉の暴力を担当しているのがあなたなんじゃないかって思ったぐらいだよ? でも、リィの言葉はどれも的を射ていて、正しさをいつも私に示してくれた。そう分かったあとのあなたのことは、海魔だろうとなんだろうと関係無いくらいに愛おしくて、守らなきゃ行けないと思うようになった。ジギタリスに捕まったってことを知ったときは、ディルが来るかもと思う以上に、あなたのことを心配した。だから、一人で助けに行こうとさえしたんだよ。私は海魔だろうとなんだろうと、リィを信じる。リィが私たちを殺すようなことは絶対にしないって信じている。だからリィも私たちを信じて。ディルだけしか信じられないって言うなら、せめて私だけでもその中に入れて。どんなことがあっても守るから。守って見せるから。全然、弱くて、ディルほど守れる力なんて無いけど、死ぬ気で、守るから」
「……あったかい」
リィが雅の胸の中で呟く。
「ワタシは、まだ一緒に居て、良いの?」
「うん」
「お姉ちゃんも、ワタシのことを、信じてくれる?」
「うん」
「それなら、もう少しだけワタシは、ワタシのことを考えてみる。ワタシに殺されたがっているディルのことも考えてみる。それが正しいことなのか悪いことなのかも、ワタシが、考える。そして、それ以外のことも、ちゃんと……ちゃんと考える」
だから、と続ける。
「それでもどうしようもない状態に――ディルが全てを終わらせて、ワタシに殺せと命じるようなそんな結末が訪れたなら……そうならないように、ワタシなりに頑張ってみるけれど、もしもそうなってしまったら……そのときは、お願い。お姉ちゃんを信じているから、打ち明けたことなんだ。だから、これだけは、譲れない」
その頑なな決意は、雅はなにを言っても揺らぐことは無いだろう。
「そんな、勇気が、そのとき私にあるかは分からないけど……」
分かった、とリィに告げる。
勿論、本意などではない。そう言わなければリィは納得してくれないと思ったからだ。そんな結末なんて、雅もリィと同じで望んじゃいない。
それでも、信じ合うためには形だけでも約束は必要だ。雅がディルと約束したように、リィもまた雅に約束を求めて来た。そして、形だけでもそれに応じた。
応じたのならば、そのような結末に至ったのなら、雅はそれを遂行しなければならない。そうなった場合だ、と強く自分に言い聞かせ、そしてこの約束は永遠に果たされないことを願う。




