第六話 罪と購い
大切なものはいつだって容易く崩れ落ちてしまう。それを望まなくとも、手のひらから滑り落ちていってしまうのだ。
取りこぼさないように必死になればなるほど自分が哀れで、滑稽だった。そして最後に残ったものは何もなかった。
そう、何一つ残らなかったのだ。
奇跡など一度も起きたことはなかった。神に見捨てられ、死を間近にしたエレアノーラが偶然悪魔と出会い、魔術師になれたのも、全ては奇跡などではなく偶然という名の必然だったのだ。
だからあの日、仲間の一人から「彼が死ぬのは必然だった」と静かに告げられたのをよく覚えている。
感情が削げ落ちた、事実だけを静々と告げる声音に血が昇った私は仲間の胸倉を掴み、何度も否定した。
そんな事はない、そんなことは――っ! だが、いくらその事実を否定しようとも、自分と同じ色をした瞳は何一つ揺らぐことはなかった。
エレアノーラの明るい金色の瞳とは違い、底知れぬ闇を抱えたような、救いようもない不条理な出来事に全てを諦めてしまった蜂蜜色の瞳がこちらを見つめ返す。
もちろんそこには哀れみも、嘲りも、侮蔑もない。人間と呼ぶには、あまりにも感情が枯渇した眼差しだった。
エレアノーラとは比べ物にならないほど長い時を生きてきた相手は、いつしか感情をどこかに忘れてきてしまったのか表情が動くことがない。
少なくとも千年の長い時を生きたエレアノーラですら目の前の魔術師が取り乱す姿を見たことは無かった。
だからこそ考えてしまう。いつの日か、自分も同じように感情をなくし、大切な者を失っても取り乱すことがなくなるのだろうか、と。
いつの時代も世界は無慈悲で残酷だ。そこに一切の救いは存在せず、容易く人の心を奈落の底へと叩き落とす。
そんな無常な世界だが、生まれた限り、生き続けることは当然の義務だと思うし、一度死を間近に感じ取ったエレアノーラだからこそ、そう思う。
命を粗末にすることは、生きている者全てに対する冒涜だ。感情のない人生など、それは生きていることに分類されるのだろうか?
恐くて聞いたことはなかった。
だが、あれから世間から逃げるように隠居して分かっていることがあった。
結局のところ、エレアノーラの願いなど自己満足でしかなかったのだということだ。
厄介ごとを連れてくるノアディアの側にいたのも、全ては自分が犯した罪の購い故だった。
だがノアディアが選んだのは『あの女』に良く似た、金髪の女だった。かつて仕えていた主君に良く似た女性。
人間嫌いになった元凶ともいえる、あの女にそっくりな女を連れて帰ってきたのだ。こうなることは最初から分かっていたはずだ。
それでもその人間を連れて帰って来たということは、この購いという名の馴れ合いの日々も幕引きしなければならないということなのだろう。
いつの間にか腕が下がり、地面に箒の先がぶつかった。顔を伏せたエレアノーラは絞り出すように声を出した。
「……勝手にすればいい」
「レギナ?」
「これからは勝手に生きれば良い。私は出て行く」
この忌まわしき地に留まっていたのも、全てノアディアのためだ。理由さえなくなればこんな国に留まるつもりはなかった。
ずっと気にしないように、意識しないように角の方へ追いやっていた。だが、それすらも簡単に表へと浮上してこようとする。
彼が死んでから数百年――忘れたくとも忘れられなかった。どうしても、忘れることが出来なかった。本当に、全てが滑稽な物語だったらどれだけ良かったことだろうか。そう思わずにはいられないくらい、自分は莫迦で、とても愚かだった。
だから、と言葉を紡ぎながらエレアノーラは唇を震わせると、口元に弧を描いた。お世辞にも綺麗な笑みではなかった。不器用すぎるほど、痛々しい笑み。
「私の身勝手な我が儘で、魔術師にしてしまってすまなかった」
ずっと心の底に秘めていた懺悔を口にすれば、ノアディアは驚いたように息を吸い込み、大きく瞳を見開いた。
もちろんそんな謝罪だけでは足らぬことを仕出かした自覚はあった。だが、こうして懺悔を口にするのは初めてだったため、ノアディアも驚いているのだろう。珍しくまごついた様子で口を開いた瞬間だった。
久しく感じていなかった、魔力の波動を微かに感じ取ったエレアノーラはノアディアの言葉を遮った。
「それ……どういう意味な、」
「黙れウィレム」
「ええっと……レギナ、さん?」
「敵だ」
先ほどまでの弱々しい雰囲気は一変し、エレアノーラの表情は固く引き締まる。先ほどまで曝け出していた弱さを全て隠した鋼鉄の表情に、永久凍土を思わせる金色の眼差しが前を見据えた。
凍てついた眼差しが見据える先は、不可侵の森と呼ばれる干渉結界が張られた森の手前。まるでそこに見えない敵が居るのが分かっているかのようにエレアノーラは敵意を露わにした。
とっさのことについていけぬノアディアを庇うように、体をずらすと背後に隠し、エレアノーラは冷え切った声を発した。
「覗き見とは悪趣味なことこの上ないな。嫉妬のエルリク」
「嫉妬のエルリク!? 嫉妬大陸の大魔術師が、何でこんなところに……」
「悪趣味な奴の考えていることなど私が理解出来るはずもないだろう。いい加減出て来い。何時までも、この私を誤魔化せると思うな!」
何もない場所に箒の先端を向け、狙いを定める。箒の先端が光の粒子を収束させ、光球を作り出した。
背後でその様子を見ていたノアディアが焦ったように「レギナ、それはっ……不味いんじゃ」と呟くのが聞こえたが無視した。
光の収束を終えた魔法は一気に解放された。
「光ノ神槍」
眼窩に広がる障害物を薙ぎ倒すように、光の槍が飛ぶ。空に舞い上がった光の槍は一本だけではない。複数の光の槍が折れ曲がり、時に屈折しながら一直線に目標へと飛来する。
軌道修正機能付き魔法など、見たことがなかったのか背後で言葉を呑んだのがわかった。
先ほど不意打ちのように食らった魔法など今の攻撃に比べたら随分と手加減された、生易しいものだったのだと気づいたのだろう。
もっとも、隠れている相手はこの程度の攻撃など食らった内に入らないに違いない。
眼を焼くような閃光が迸り、爆発した。光の槍が収束された地面は大きく抉られ、爆風が舞い上がる。森の手前に出来た大きなクレータを目の当たりにし、小さな悲鳴が背後から聞こえた。
煩い、と諌めながら視線は立ち昇る黒煙の向こう側に立つ、相手に据えられていた。
視界を遮る黒煙の中から爪先が出てきた。次いで、紺色のフード付き外套を着た男が現れた。腰の皮ベルトには短杖。利き手には翡翠がはめ込まれた指輪まで装着していた。
どうやら悠長に世間話をしに来たのではないらしい。エレアノーラは険しい表情のまま相手を睨みつけた。
まず、魔法を発動する際に補助する魔道具がある。『短杖』と『指輪』だ。どれも魔法を操る際には必要な装備品で、『短杖』は魔法の精度を上げる効果がある。
基本魔法とは難しいものが多く、長たらしい詠唱をしなければ発動しないものも多い。それをいかに早く、正確に発動出来るかが重要になるのだ。
もちろん魔術師は誰でも専用の短杖を所持している。この世に二つとない自分だけの短杖を、だ。
『指輪』は逆に魔力を底上げする効果がある。どの魔術師も魔法の属性によっては必ず得て不得手は存在するため、必要不可欠なものといっても過言ではない。
そしてそれを補うために大抵の魔術師は指輪を装備している。ただ魔力を底上げするのなら模造品がそこかしこに売られているが、自分だけの指輪は一度しか作れない。
魔術師となり、最初に作るのが指輪だからだ。
それは魔法を操る者にとって、最初の試練であり、己の指輪を作れなければまず魔術師と名乗ることすら出来ない。
作るのは簡単だ。魔力を凝縮させれば、自分だけの指輪が出来るのだから。まあ、その魔力を凝縮する過程が意外と難しかったりして、よく魔力を暴走させて爆発させる者もいるのも事実だった。
現にノアディアは指輪を作るだけで一ヶ月はかかっていた。何度魔力を爆発していたからその辺はよく覚えている。
そして出来上がった指輪は自分の最も得意とする魔力の色で作られるのだ。
目の前の男が付けている指輪は風属性の指輪。中央に嵌め込まれた翡翠が魔力を帯びて輝いている。
厄介な相手が現れたものだと、顔をしかめるエレアノーラの耳に乾いた拍手の音が聞こえた。
怪訝そうに見つめれば口元に薄い笑みを浮かべながら楽しそうに手を叩いていた。あからさまに自分を挑発しているのだろう。
苛立ちも露わに箒を構えなおすと、エルリクと呼ばれた男がつり上げた唇を楽しそうに震わせた。
「いやあ、すごいねぇ。さすが傲慢のレギナ。同胞相手でもまったく容赦しない所がすごく良い」
「同胞? 笑わせるな。同じ大魔術師と呼ばれるだけの間柄であって、貴様を一度でも仲間だと認識したことはない」
「そっけないお言葉で」
相手は熊とらしく肩を竦めたが、聞き流す。それよりも問題は何故『称号持ち』である男が傲慢大陸に足を踏み入れることが出来たのか。そちらの方が重要だった。
そもそも、称号持ちとは大魔術師の称号を初めとした、二つ名を持つ力のある魔術師のことを示す。
エレアノーラの場合は称号と二つ名の両方を持っており、称号は『傲慢』となるが、二つ名は『条理の魔女』だ。
今では死語と呼ばれる『魔女』という単語をあえて使うことにより、その者の威厳を周りに知らしめる意味合いも含まれていた。
もちろん目の前の男も例外ではなく、彼の二つ名は『反魂の魔女』だ。
人の精神を破壊するのに長けた、実に目の前の男らしい二つ名だった。その手腕で幾人の心を壊してきたことか。
微かに浮かべられた笑みからは推測することは出来なかった。
少なくともエレアノーラ一人だったら短杖が無くとも、エルリク程度なら相手にしてやったが、今はノアディアが背後にいるため下手に動けない。
動いたら最後、厄介な呪術をかけられる可能性があった。内心焦りが滲むが、表情は変えることなく冷ややかな声音を出した。
「さて……随分と久しい顔だが一体何のつもりだ、エルリク。誰の許可を得て我が大陸に足を踏み入れている? これ以上、下らぬ戯言を続けるのであれば、私にも考えがあるぞ」
「おお、怖いなぁーレギナは。数百年経っても変わらない態度はさすがというか、逆に安心しちゃうよ。あと、ちゃんと傲慢大陸に足を踏み入れる許可はスペルビアから得ているから。これ、許可証ね」
「ほう。アイツが、お前に許可を降ろしたのか」
久しい名前を聞いたエレアノーラは口元を綻ばす。金色の瞳が至極楽しそうに揺れた。念のためか、懐から出された許可証がこちらに向かって投げ飛ばされる。
綺麗に丸め込まれた許可証を眺めながらエレアノーラは薄い笑みを浮かべたまま答えた。
「なるほど。では、許可証は偽物だ」
そう呟くと同時に再び構えられた箒の先から光の槍が勢いよく放たれた。




