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第1章 荷物と災害 第1話 お前は荷物だ

「レン。お前、今日で抜けろ」

 ガイルがそう言ったとき、俺は卓の上に地図を広げかけていた。

 三日かけて描いた、黒の森の南側の地図だ。獣道の分かれ目と、水場と、去年の秋に岩甲蜥蜴の巣があった場所。次の依頼で使えると思って、宿の灯りが消えたあとも描き足していた。

 広げかけた手が、途中で止まった。

「……は?」

「聞こえただろ。抜けろって言ったんだ」

 冒険者ギルドの一階は、夕方の酒場になっている。依頼帰りの連中が麦酒をあおる音、皿のぶつかる音、誰かの笑い声。その真ん中の卓で、ガイルの声だけがやけにはっきり聞こえた。

 向かいの席で、魔術師のセシリアが爪を眺めている。盾役のボルグは杯の底に目を落としたまま、こっちを見ない。ガイルの隣には、見覚えのない槍使いの男が座っていた。俺の席だった場所に。

 ああ、そういうことか。

 説明されなくても分かった。分かってしまうくらいには、俺はこの隊の荷物を運び続けてきた。

「後任はもう決まってるんだな」

「ジークだ。Cランクの槍使い。来月にはBに上がる」

 槍使いが軽く顎を引いた。悪い奴ではなさそうだった。それが余計にこたえた。

「待ってくれ、ガイル。俺は――」

「お前のスキル、なんだっけ」

 言葉を遮られた。ガイルは俺の目を見ていた。昔から、こいつは嫌なことを言うときほど目をそらさない。

「受け皿、だったよな。三年前に神殿で鑑定して、神官が首をひねって、『効果なし』って書いた」

「……ああ」

「魔力もほとんどない。剣も人並み以下。お前がこの隊でやってきたことは、荷物を運ぶことと、野営の段取りだけだ」

「それだって必要だろ」

「ああ、必要だったよ。Dランクの頃まではな」

 ガイルは麦酒を一口飲んで、杯を置いた。

「この先、俺たちはもっと奥へ行く。もっと強い奴と戦う。そこで、戦えない奴を一人抱えてる余裕はない」

 セシリアが小さく笑った。

「はっきり言ってあげなよ、ガイル。この人、たぶん言われないと分かんないから」

 ガイルは一瞬だけ黙った。それから、言った。

「お前は荷物だ、レン」

 店の喧騒が、少し遠くなった気がした。

 荷物。

 その言葉は、思っていたよりずっと静かに胸の底に落ちていって、そこで重く沈んだ。

 反論はいくらでも浮かんだ。誰が野営地を選んでいたと思ってる。誰がお前の剣を毎晩研いでいたと思ってる。去年、毒沼の手前で引き返そうと言ったのは誰だ。あのまま進んでいたら、セシリアは今ここで笑っていない。

 でも、どれも口から出なかった。

 どれも「荷物にしてはよく働いた」という話でしかないと、自分で分かっていたからだ。

「……そうか」

 俺は地図を巻いた。手が少し震えていたので、紐を結ぶのに二回失敗した。

「取り分は今日までの分を渡す。装備は自分の物だけ持っていけ」

 ガイルが革袋を卓に置いた。銀貨が三枚、鈍く鳴った。宿に溜めたツケを払えば、それで消える額だ。

 受け取るべきか迷って、結局受け取った。ツケを抱えたまま意地を張れるほど、俺は強くない。

 席を立つ。ボルグが何か言いかけて、やめた。

 ギルドの扉を押して外に出ると、雨が降っていた。

 ◇

 十年前の夜のことを、ときどき思い出す。

 魔物の群れが村を呑んだ夜。父さんは俺を床下の貯蔵庫に押しこんで、蓋を閉める前に何か言った。

 ――頼れ。ひとりで抱えるな。

 たしかそんな言葉だった。蓋が閉まって、真っ暗になって、上で父さんの怒鳴り声と、何かが壊れる音がした。俺は芋の袋を抱いて震えていた。朝が来て、蓋を開けてくれたのは父さんじゃなく、隣町の兵士だった。

 俺は守られるだけだった。

 だから決めたんだ。いつか、守られる側じゃなく、頼られる側になるって。

 その結果が、これだ。

 ◇

 雨の中、ギルドの掲示板の前に戻った。

 夜でも依頼書は貼り出されている。Eランクの俺が一人で受けられるものなんて、ほとんどない。

 森の外れの薬草採集。月光草、二十株。報酬は銅貨四十枚。今夜の宿代には足りる。

 受付のノーラさんはもう帰っていて、夜番の爺さんが判を押してくれた。

「こんな雨の中かい」

「雨の夜のほうが月光草は開くんで」

 嘘じゃない。荷物持ちをしていると、こういう知識だけは増える。

 外套のフードを深くかぶって、南門を出た。門番が呆れた顔をしたが、止められはしなかった。

 森の外れまでは歩いて半刻。雨は小降りになってきて、雲の切れ間から月がのぞいた。濡れた草のあいだに、青白い花がぽつぽつと開いている。

 しゃがんで、根を傷つけないように一株ずつ掘る。

 手を動かしていると、いくらか楽になった。何も考えなくていい。荷物は荷物らしく、黙って運べばいい。

 十二株目を籠に入れたとき、森の奥が光った。

 雷かと思った。でも、音が違った。ばちっ、と乾いた音のあと、木の葉が一斉に震える気配。

 それから、声がした。

「――だめ、止まって、止まって……!」

 女の声だった。

 俺は籠を置いて、木の陰から奥をのぞいた。

 少し開けた場所に、小柄な人影が立っていた。魔術師の外套。フードが外れて、淡い金色の髪が雨に濡れている。両手を前に突き出していて、その先で、光が膨らんだりしぼんだりしていた。

 魔法の練習だ。こんな夜に、こんな場所で、ひとりで。

 でも、様子がおかしかった。光は形になっていない。火でも氷でもない、ただの白い塊が、彼女の手のひらの前で脈打つように揺れている。そのたびに周りの草がなぎ倒され、雨粒が弾け飛ぶ。

 制御できていない。

 そう思った瞬間、彼女の背後の茂みが揺れた。

 黒くて、大きいものが出てきた。

 大猪だ。グラントボア。肩の高さが俺の背丈くらいある。牙が月明かりに白く光った。この時期は冬ごもりの前で、気が立っている。

 光に引き寄せられたのか。

 彼女は気づいていない。

「おい!」

 叫んだ。彼女が振り向いた。大猪を見た。その目が見開かれるのが、遠くからでも分かった。

 手の前の光が、ぶわりと膨らんだ。

 怖がったんだ。怖がって、魔力が暴れた。光はもう人の頭くらいの大きさになって、ばちばちと火花を散らしている。あれが弾けたら、大猪どころか、彼女自身が吹き飛ぶ。

 大猪が地面を掻いた。突進の前の動き。

 逃げろ、と頭のどこかが言った。

 俺は荷物持ちだ。戦えない。剣も人並み以下。あんな化け物と、制御の利かない魔法のあいだに飛びこんで、何ができる。

 分かっていた。全部、分かっていた。

 なのに、足が前に出た。

 彼女までの距離は二十歩。大猪のほうが近い。

 走りながら、自分が何をしているのか分からなかった。ただ、床下の暗闇の中で聞いた、何かが壊れる音を思い出していた。

 大猪が地面を蹴った。

 俺は彼女の右手首をつかんで、引いた。

 ――その瞬間。

 手のひらから、何かが流れこんできた。

 熱い、と思った。それから、熱いなんてものじゃないと分かった。煮えた湯を血管に流しこまれたような感覚が、指先から腕を駆け上がって、肩を抜けて、胸の真ん中で渦を巻いた。

 息ができない。視界が白い。

 体の中で、何かがあふれそうになっていた。器に注がれ続ける水みたいに。このままじゃ割れる。割れる前に、どこかへ出さないと。

 どこへ。

 目の前に、大猪がいた。

 俺は空いているほうの手を、ほとんど何も考えずに前へ突き出した。

 世界が、白く染まった。

 音はなかった。少なくとも、俺には聞こえなかった。

 ただ、手のひらから光が出ていくのが分かった。体の中で渦を巻いていたものが、細い道を見つけて一気に流れ出していく。腕が焼けるように痛い。でも止められない。止め方が分からない。

 どれくらいそうしていたのか。

 気がつくと、俺は膝をついていた。

 雨の音が戻ってきた。

 顔を上げると、大猪はいなかった。

 大猪がいた場所から先――森が、なかった。

 幅にして十歩ほど。まっすぐに、木々が消えていた。根こそぎ倒れたのでも、燃えたのでもない。そこにあったはずの木も、茂みも、岩も、えぐられたように消えていて、地面が黒く焦げた溝になって、ずっと奥まで続いていた。

 溝の先で、遅れて倒れた木がゆっくりと傾き、地響きを立てた。

 俺は自分の手を見た。

 右手は、まだ彼女の手首をつかんでいた。左手は、指先が赤く腫れて、細い湯気が上がっていた。

「……え」

 声が出た。間の抜けた声だった。

 これを、俺が?

 【受け皿】。効果なし。神官が首をひねって書いた、たった一言の判定。

 隣で、彼女が震えていた。

 灰色の目が、俺の顔と、俺の左手と、消えた森とを、何度も行き来していた。それから、俺がつかんでいる自分の手首を見た。

「あなた……」

 かすれた声だった。

「……なんとも、ないんですか……?」

 どうしてそんなことを、そんな顔で聞くのか、分からなかった。

 ただ、つかんだ手首が、驚くほど熱かったことだけを覚えている。


この作品は、自作でアニメも作成中です。

動いて喋るレンとミアを、よければこちらで。

https://youtu.be/YKLbHIB1AyU

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