第2話 最初のお客は、行き倒れの幼女!?
「ドサッ!」
扉の向こうから鈍い音が響いた。
こんな辺境だ、まさか魔獣か?
「どなたですか……?」
恐る恐る扉を押し開ける。だが、外には誰もいない。
いや、待て。視線を下げると、地面に小さな女の子が倒れていた。頭に生えた二本の小さな角が、魔族の証だ。
「うぅ……早く、儂に飯をよこすのだ……」
くぐもった声でそう呟くと、少女は完全に意識を手放した。
今はもう人魔共存の平和な時代だ。助けてやっても罰は当たらないだろう。俺は彼女を抱き上げた。
軽い。全身泥だらけで、ボロボロの布切れ一枚しかまとっていない。平和なんて名ばかりで、魔族は未だに陰でひどい扱いを受けているのだろうか?
俺はその幼女を客室のベッドに寝かせた。顔には奇妙な紋様がうっすらと浮かんでおり、どこかで見たことがあるような気がするが……。
まあいい、深く考えるのはやめよう。単に腹を空かせているだけみたいだしなぁ。
よし、お前が『涼爽亭』の記念すべき最初の客だ。
俺は厨房へ向かい、ありあわせの食材で肉のスープを作り、ついでに白飯も炊いた。
食欲をそそる香りが漂ってくる。うん、野宿で鍛え上げた俺の料理の腕も、まだまだ鈍ってないな。
「むむ……これは飯の匂いだな!?」
客室から物音がしたかと思うと、タタタタッという慌ただしい足音が響く。
魔族の幼女が食堂に飛び込んできた。その目は飢えで血走っているようにさえ見える。
「目が覚めたか? 座って食えよ」
熱々の肉スープをたっぷりかけた白飯を差し出すと、彼女はひったくるように奪い取り、ガツガツと口に放り込み始めた。
「ふがっ、むぐっ……おかわり!」
あっさり威厳が崩れているぞ。
「はいはい」
「もう一杯よこせ!」
わずか十分足らずで、鍋いっぱいのスープと白飯がすべて彼女の胃袋に消えた。
俺の分が……まあいい。さっき残しておいたパンでもかじるとしよう。
「ふははは! 大儀である! 人間よ、馳走になった……って、アルディミウス!?」
彼女は突然目を丸くし、俺の顔をビシッと指差した。
ほう? 五百年も経っているのに、俺の顔を知っている魔族がいるとはなぁ。そういえば転生してからまだ鏡を見ていなかったが、女神様は前の容姿のままにしてくれたらしい。
「俺を知っているのか?」
「当たり前だ! その憎き顔、何百年経とうと忘れるものか! 全部貴様のせいなのだぞ! 儂こそは魔族の王、ティアマト・ルシフェリアである! 今日ここで貴様を討ち取ってくれるわ!」
怒りのあまり、無理して作っていた威厳が少し崩れている。
というか、ティアマト?
前世で俺と和平協定を結んだ魔王の名前じゃないか。
どう見ても、あの時の魔王と目の前の幼女が結びつかない。それに、ギリギリと歯を鳴らして威嚇してきているが……正直、ちょっと可愛いとしか思えないんだよなぁ。
「くらえっ!!」
小さな拳が俺の顔面に向かって飛んでくる。
俺は軽く手を上げ、手のひらでそれを受け止めた。いやいやいや、いくらなんでも弱すぎないか? これじゃ人間の子供以下の力だぞ。
「あのさ……ティアマト……陛下?」
「なんだ!」
「あんた……ちょっと弱すぎないか?」
「うぅ……うわああああん! 貴様なんかに弱いって言われたぁ! うわあああんっ!」
結果、元魔王は威厳もへったくれもなく床に転がり、駄々っ子のように両足をジタバタさせて号泣し始めてしまった。
どうすればいいんだこれ。魔族の幼女が辺境の宿屋で泣き喚くなんて、前世で勇者をやっていた時にも遭遇したことのない超難問だぞ。女神様、助けてください!
……もちろん、女神様が祈りに応えてくれる気配はない。神ですら匙を投げる状況らしい。
俺は仕方なく椅子を引き、パンをかじりながら床で転げ回る魔王を眺めた。思考は自然と、前世で彼女と死闘を繰り広げたあの時へと遡っていく。
――五百六十年前。
当時の俺は、世界最強の『全能の光輝勇者』と謳われていた。
だが、魔王ティアマトの前では、一歩及ばなかった。それでも俺は歯を食いしばって耐え、決して剣を引かなかった。
そして三日三晩の激闘の末、事態は思わぬ方向へ転がった。
『ふぅ…光輝なる勇者とやらも、大したことはないのであるな…』
『魔王ティアマト! お前が魔王である限り、俺は絶対に諦めないぞ!』
『……うるさいのだ。儂だって、好きで魔王をやっているわけではないわ!』
『……は?』
『全部魔族評議会の連中のせいだ! どうしても指導者が必要だとか言って、派閥に属していなかった儂を無理やり神輿に担ぎ上げおって! あのジジイども、裏でコソコソ小細工ばかりするくせに儂の命令は聞かんし……あーもう、あれもこれも鬱陶しいのだっ!』
こうして、威厳を保とうとする魔王の愚痴をきっかけに、俺たちは戦場のど真ん中で話し込んでしまった。
最終的に、その愚痴大会は人魔共存の和平協定へと発展した。
もっとも、協定を結んだ直後に魔王は完全に姿を消した。その後は俺が一人で、魔族評議会の古狸どもと交渉のテーブルで渡り合う羽目になった。評議会の議長曰く、魔王はバカンスに出かけたらしい。
結局、俺が死ぬまで二度と彼女の姿を見ることはなかった。
回想から意識を戻すと、ティアマトはすでに泣き止んでいた。
彼女はちょこんと椅子に座り、ヒックヒックとしゃくりあげながら、俺のパンをかじっている。
だめだ、俺も腹が減っているんだ。俺は素早くパンを取り上げた。
「ああっ! それは儂の飯だぞ!」
「だめだ! これは俺の分! お前はさっき腹一杯食っただろ!」
身長差を活かしてパンを高く掲げると、彼女はどうやっても届かないと悟ったのか、ぷうっと頬を膨らませて椅子に座り直した。
「ふんっ! ケチな勇者め! 儂が人類に施した恩を忘れたとでも言うのか!」
確かに、あのまま戦い続けていたら、十中八九、俺の方が消し飛ばされていただろう。だが、今は恩返しの話をしている場合じゃない。
そもそも、なぜかつての魔王がこんな所にいるのか? そして、どうして幼女の姿になっているんだ?
「分かったよ。残りのパンはお前にやる。その代わり、俺の質問に答えろ」
そう言ってパンを差し出した瞬間、ひったくられた。彼女はリスのように両手でパンを抱え込み、猛烈な勢いでかじりついている。こいつ、元からこんな食い意地の張った性格だったか?
「なにおぎぎだいのだ?」
頼むから飲み込んでから喋ってくれ。
「なぜ、かつての魔王ティアマトが、子供の姿になってこんな所にいるんだ?」
問いかけた途端、目の前の幼女はピタリと動きを止め、再びその目に涙を浮かべた。
もっとも、パンをかじる口だけは動かし続けているが。
どうやら、今夜はとても長くなりそうだなぁ。




