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② 『恵みの雨とはよく言ったものだ』


歯磨きやシャワーもろもろを済ませた。

今日のシャワーは昨日や一昨日のより一段と気持ちが良かった。

砂浜で足にまとわりついた砂や、乾いた海水のベタつきを、綺麗に流した。

母親が最近ネットオークションかなんかで買ったらしいこのシャワーヘッドもあながち胡散臭くないのではと思ってしまった。



【ふわぁぁ、スッキリしたあ】



濡れた髪のキューティクルを傷つけないように、タオルで頭を包み水を吸い取るように頭をマッサージした。それから髪にはヘアミルク、肌には化粧水、パック、乳液をパパっと終わらせた。

思った以上にちゃんと乙女をしていて、読者のケロッとした馬鹿みたいな顔を想像して不覚ながらも少しニヤけてしまった。

開脚やストレッチをしながら、ドライヤーで温風や冷風機能をうまく扱い、丁寧に髪を乾かして櫛でとかした。


そして、そのまま階段を登り、またあの灼熱の壁をくぐり抜けないといけないと思うと身の毛がよだつ。

そして、覚悟を決め戸を開けた。



******************************************************************************


――ヒュ〜っと冷えた清々しい風が猛暑の壁をぶち壊した




そよぐ風が少し長めの髪をひらひらと空中に浮かばせ、雨に打たれた土や葉っぱの匂いが、その風と共に鼻に届いた。彼女は、部屋の敷居をまたぎ、そのまま窓の前に立った。

全員が夕飯に夢中になっている間に雨が降ったのだろうか、そんな事はどうでも良く、満面の笑みにまではいかなくても、可愛げのある微笑みを浮かべ、両手を力なく左右に広げた。

優しい肌触りの風が吹くたびカーテン、パジャマ、髪が揺れた。


あの砂漠に置いてあったかのような灼熱の部屋は、いずこへ行ったのだろうか。いま扇風機をつけたらどれほど素晴らしいだろうか。そんな事を彼女は、考えつつ、扇風機の首振り止めていた棒をカチッと解除し、弱で回した。扇風機は爽風を部屋の隅々に届けてくれた。まさに恵みの雨だ。



【心地良いぜぇ】



そう言いながら、ベッドに寝転び仰向けになって見慣れた天井を眺めた。

この空や天井を見上げる行為は、とても気持ちが良く、気持ちを整理したり、深呼吸したり、何も考えないし何もしない時の流れを作ってくれる大切なものだ。



【てか、説明するわ】



手慣れた言い方で、手慣れたトーンの声だった。

ベッドの反発力と両腕を使い、よいしょっと立ち上がってそのまま勉強机の椅子を引いて、木の枠で出来た椅子に自分の体を預けるように座った。そのまま足を組み、喋る体勢を整えた。




【昔ね、父さんと衝突事故に遭ってさ(笑)。 まあそんで、父さんは、そんままくたばったんだけどさ...】

【父さんの死体?からなんかあ...文字が上にね飛んで.....そしたらなんかデカい顔見えてさ】



彼女の声には抑揚がいつもより多く感じられたが、震えてはいなかった。

その文字はどこか見覚えのある文字で、いわゆるテレビや新聞でみるような様々なフォントと呼ばれる文字がシャボン玉のようにフワフワと昇っていったのが良く記憶に残っている。

少し乾燥した目を、部屋の隅に向けて、足を伸ばし、頭を傾けた。




【今、見たらマジで某巨人漫画かよ(笑)って思うけど、その頃はマジで怖かったさ、なんかキモいしさ、本当にもう、なんかもうトラウマよね...】

ヘラヘラした声は、徐々に薄れていった。

【でも父さんが逝ったときも、まあ、なんか結構イヤな気持ちだったし、あと父さんのことは 結構気に入ってたしさ。で、まあ、そんで、中学とかもうちょい物心ついた時にちょい 調べてみて、普通になんかぁ...】



適した言葉を探すのに、脳を働かせた。

また、彼女の手はトラウマを思い出しても、もはや震えることも忘れていた。

彼女は右手で、左手の甲の骨や血管をなぞるように撫でた。

彼女の目は、灯りもついていない暗い部屋を映していた。



【なんか、もう、なんかカスだなって、んで私の命日きめてさ。で、命日が来るまでは平和に生きたいし、なるべくなんも起こんないように、媚びてんの....】




髪を指にくるりと巻き付け、力無げに深々と肺にためていた酸素を全て吐き出した。

虚脱感や鬱屈が、体内の血液とともに全身を巡った。

唇は乾燥し始め、風呂上がりに不器用に切った不揃いな爪が指先に残っている。


静かに立ち上がり流れるようにベッドへと向かった。

フラフラしながらも一歩ずつゆっくりと床を踏んだ。


手足は力を失ったものの不思議と背筋だけは伸びていた。

部屋が無音になるとともに、時計の秒針の音が良く響き始めた。


部屋の中は、線が何度も塗り重ねられ、ぼやけている絵のようだった。


自然の心地よさが体に絡みついた。この一時は一瞬のようで延々と続くような、謎めいた時間だった。

目は濁り、体はくたびれ、引き締まった体から浮かび上がった鎖骨には、月光で照らされた揺れるカーテンの影が差し込んだ。

それでも、夏というのはしぶとく、気だるさを感じさせた。汗が数滴流れ、首に髪がへばりついていた。

汗が湿り気を帯びた風で流れ落ち、そのまま谷間を通り、ズボンにぶつかって霧散した。


彼女の心は今にも、この地球からストンと消えるのではないかと思うほど脆く危なっかしくも、その周りは強固で厳重な壁に覆われていた。


そのままうつ伏せで寝転んだ。うつ伏せなのは彼女の幼い頃からの癖だ。

ベッドが少し軋んで静寂に包まれた。耳を澄ませば かすかに夏虫たちや在来種の蛙の声が流れていた。



【お......すみ】



潤いがすっかりきえた唇で、眠りへ向かうための呪文を自分のために唱え、世界をもうこれ以上眺めさせないかのように瞼が目を覆った。体を支えていた力がついに抜ける。全身を固定していた針金のワイヤーが朽ちて、ドスンと重力任せにベッドに沈み込んだ。途切れ途切れに聞こえていた虫の声も消滅した。

夜の11時40分ぴったりに少女の体の動きが止まった。

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