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第8話 子守歌


 暗い廊下に明かりがともる。先ほどまでの喧騒が嘘のように、家の中は静まり返っていた。


 海乃も青司もここに来るまでずっと無言のままだった。青司が暗い廊下を歩く。


 昨日と全く同じ状況のはずなのに、2人の間に流れる空気は全く違うものをまとっていた。


 今更ながらに、海乃に後悔の念が押し寄せてくる。


 厚意に甘えるばかりか、家にいろという言いつけを破って店に行ってしまった。

 しかも、おそらく隠したかったであろう姿も見てしまった。


 ちらりと海乃が目線を上げると、荷物を置いてコートを脱ぐ青司が目に入る。

 化粧を落とし、かつらを取って着替えた青司はまさしく()()だ。


 でも、海乃の頭の中でぐるぐると回る言葉が、青司の正常な姿を海乃に映させないままでいさせる。


 __この人は私に


 考え込んでいた海乃が視線を感じて顔を上げると、青司がじっとこちらを見つめていた。反射的に目をそらした海乃に青司もまた、踵を返すとブランケットを広げ始める。


 「結局、部屋は片づけられなかったからな。今日もソファで我慢してくれ。あした必ず片付けるから」


 クッションを整えながら「今のうちに着替えてこい」と付け足し、青司はてきぱきとソファを整えていく。


 海乃はその場でスカーフをほどき、スカートのチャックを下げた。ぱさりと音を立てて床に落ちたスカートは海乃を中心に輪を描く。

 そのままセーラー服を脱ぐと、テーブルの横に脱ぎ捨てられている寝巻を手に取っていそいそと着替えていった。


 青司は海乃が服を脱いだのを察してか、手元を動かすふりをしてこちらに背を向けたまま下を向いている。


 セーラー服を適当に畳み、部屋の隅に押しやると海乃は「着替えました」と囁くような声で言った。 

 だが、静かな部屋の中で存外大きく響いた声は、青司の耳にもちゃんと届いたようだった。


 「昨日使ったランプは棚の上に置いてある、使いたかったら使ってくれ」


 海乃はこくりと青司の言葉にうなずく。


 「もし、喉が渇いたらコップも出しておくから好きなように飲んでくれ」


 またしても海乃は黙って青司の言葉にうなずく。


 青司はじっと海乃を見つめると、徐に口を開いた。


 「海乃」


 若干の厳しさを纏ったような声色に、海乃の肩が小さくすくむ。青司は構わず言葉を続けた。


 「明日、買い出しに行こう。着替えとか歯ブラシとか。家にとりに戻ってもいいが、この際全部買いそろえてしまっても構わないだろう……これからはここで暮らすんだからな」


 驚いて顔を上げた海乃の肩に青司はそっと手を置いた。


 「言ったよな、俺は……海乃のお母さんになるって。だから、海乃がしたいこと望むことを言っていいんだ」


 海乃は目を見開いた。黒目が落ちそうになるほど限界まで見ひらかれた瞳が目の前の青司を映し出す。

 海乃が唇をぎゅっとかみしめると、青司の指先がその上をなぞっていった。


 促されるように力を緩めた海乃は大きく深呼吸すると、両手を握りしめ、震える声を絞り出す。


 「今日は一緒にいてほしい、私が、眠るまででいいから」


 初めて伝えた自分の欲求。それを言葉にすること自体が罪なような気がして、海乃はさらに身を縮こまらせる。

 

 そんな海乃に反してかえってきたのは心地よい温度だった。


 海乃の頭の上に乗った青司の手が、その黒髪を混ぜる。

 

 「もちろんだ、夢の中でだって一緒にいてあげるさ」


 青司は海乃を静かにソファに横たえると、ブランケットをかけた。

 海乃の頭の横に腰を掛けると、ぽんぽんとリズムよく後頭部を叩く。

 眠りに誘うリズムに、手のひらから伝わる人の気配に、海乃の瞼はだんだんと閉じていった。


 「……Oh, dream maker, you heart breaker」


 青司の低い歌声が月光が差し込む薄闇の中で響く。ランプの明かりは今夜はついていない。

 海乃は柔らかな歌声の中で静かに瞳を閉じた。


 「……There's such a lot of world to see」


 月明かりのように優しくて美しい、それでいてどこか悲しい苦しそうな歌声。


 「We're after the same rainbow's end.waiting 'round the bend」


 この歌声を海乃は遠い昔から知っていた気がした。どこかで求めていたような気がした。

 しかし、そんな思いは眠気の底に追いやられ、意識がふわりと浮き上がるような感覚が身を包む。


 「……Moon River and me」


 月を静かに見上げている誰かの横顔が見えた。

 それは、眠りに落ちる直前の夢か、はたまたいつかの記憶なのか。


 こちらを振り返り、ふにゃりと緩んだ口元が笑みを作る。唇が形を作り言葉を発する直前。

 月を指差すその姿を最後に、海乃は今度こそ深い眠りに落ちていった。

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