第9話 準備
その夜から、海乃に新しいお母さんができた。
朝起きて、一緒に手を合わせて朝食を取る。昼間は買い物に出かけたり、家でゆっくりと映画を観たり。
世の中では当たり前かもしれないそれは、海乃にとっては全てが真新しく、自分以外の誰かと生活を送ることにくすぐったさを感じていた。
最初はぎこちなく呼んでいた「お母さん」という言葉も、呼ぶたびに優しく微笑んで「何だ?」と聞き返してくれる青司のおかげで、ちょっとずつ慣れてきている。
客間だった部屋にも少しずつ海乃の物が増えていき、他人行儀な雰囲気を纏っていたそこも、今ではすっかり海乃の部屋だ。
行く当てのなかった自分が当然のように、ここにいてもよいのだと許されているようで、海乃はうれしかった。
全てが良いように向かっていると思われた海乃だったが、どうしても解決できない問題が一つだけあった。
それが、留守番だ。
1人で家に残されることがトラウマになっているようで、特に夜は不安定になりやすいのか、青司がいても動悸や眩暈を引き起こし、ひどい時には呼吸もままならなくなってしまう。
その度に青司に迷惑をかけてしまう海乃は、謝るばかりだった。
苦しげに息を吐きながら、震える体を小さく丸めて、ごめんなさいと繰り返す。
決まってそんな海乃の背を、青司は優しくさすってやった。「気にするな」と声をかけ、海乃を落ち着かせるためにそっと手のひらを往復させる。
優しいリズムに合わせて呼吸を整え、気絶するように眠る夜を海乃は何度か繰り返していた。
海乃はもちろん、「気にするな」と言いつつも困るのは青司も同じだった。店には事情を話して休みを伸ばしてはもらっているが、それもいつまでも続けられない。
かといってこの状態の海乃を残していくわけにもいかず、青司は頭を悩ませていた。
良い考えも浮かばないまま、時間だけが過ぎていく。
どうしたものかと、青司が店に相談するとその解決策は意外にもあっさりと提示された。
その提案は、青司にとっては躊躇すべきものだったが、意外にも海乃が乗り気だったこともあり、背に腹は代えられないと、2人はその案にのることにしたのだった。
そうした生活が1か月ほど続いたころ、徐々に暖かくなる陽ざしが花のつぼみを膨らませ、春の訪れを告げる季節となってきた。
クローズと書かれた看板が下げられた店のドアを開けると、カランカランとベルが鳴る。
「こんばんは」
海乃がランプの明かりが揺らめく室内に、一歩足を踏み入れれば、カウンター越しにこちらを振り向くアンと目が合った。
「いらっしゃい、海乃。マリーは一緒じゃないの?」
「お母さん、いつもの駐車場が埋まってたから別の場所にとめてからくるって」
上着を脱ぎながら答えると、セルジュがそっとハンガーを差し出してくれる。海乃はお礼を言ってそれを受け取った。
「ちょっとぉ、これアルコール入ってないじゃないのよ」
「うるっせぇな、いいから開店準備手伝えよ」
「相変わらずケチねー、海乃もそう思うでしょ?」
カウンターチェアをくるりと回転させ、微笑みかけるナイチンゲールに、すでに箒を片手に掃除をし始めている海乃は苦笑した。
ナイチンゲールは片眉を上げておどけてみせる。やがて、傾けていたグラスを置くと、大きなあくびを一つ。しぶしぶと立ち上がって、点在するテーブルを拭き始めた。
海乃を独りで残せないなら、店に連れてくればいいと言ってくれたのはアンだった。そうすれば、マリーも出勤できるし、海乃も安心だろうと。
客がいる時間帯は人目につかない場所にいられるよう、楽屋のとなりの物置を片付けてくれた。
最初は黙って隅に寄っていた海乃だったが、気さくに話しかけてくれる店の人たちに次第に心を開いていき、自分から手伝えることはないかと申し出て今に至る。
時々、無遠慮なことも言ってくる人たちだったが、その遠慮のなさが海乃にとっては心地よい。
特に、アンをはじめとする3人はマリーとの交流も深く、海乃をよく気にかけてくれる。
言葉を重ねていく中で、海乃の口数も徐々に増えていき、自然と笑顔がこぼれることも多くなっていった。
少し変わった、それでいて素敵な人たちとの出会い。でも、それ以上に海乃の心を動かしたのはマリーの存在だ。
口には出さないが、初めてみたあのステージから海乃は青司のマリーが好きだった。
自信たっぷりの振る舞い、美しい姿、何より皆を魅了する力強い歌声。
マリーを見ると元気が出る、力をもらえる。孤独な夜に打ち勝つ勇気が自分にも湧いてくるようで。
もう一度、マリーに会いたかった海乃にとってアンの提案はまたとない機会だったのだ。
ごみを集め終わった海乃がふと目線を上げると、アンとナイチンゲールが花瓶を片手に言い争いをしている。
お互い一歩も引かなそうな雰囲気に、海乃は困ったように微笑んだ。
「……いつもの風景だな」
大きな段ボールを担いだセルジュが小さな声で呟く。その言葉に海乃もうなづいて少し汚れた膝を軽くはたいた。
「はぁ……」
車に鍵をかけながら青司はため息をついた。ようやっと見つけた駐車スペースは店から少し離れた場所にある。
海乃を先に行かせて正解だったと、荷物を片手に早足でネオン街を歩いていった。
正直、海乃を店に連れていくことに抵抗がなかったかと言われたら嘘になる。
店の者を信頼はしているが、夜の世界に染まり切ったやからの集まりだ。未成年の、しかも実の母親を失ったばかりで敏感になっている海乃に余計な心労をかけたくない。
と、いうのは建前で本当はマリーとしての己の姿を見られることが、青司にとっては最大の懸念点だった。
海乃はあれから、マリーでいることについて深いことは何も聞いてこない。
バーで接客しているとき、ステージ上で歌うとき、マリーとして海乃に接するとき。己を映す海乃の目に嫌悪、蔑みの感情が浮かんでいるのは見たことがなかったが、それが余計に青司を戸惑わせた。
いや、マリーでいるときだけではない。海乃の瞳はいつだって奇麗だった。
真っ直ぐでよどみなく、一切の揺らぎを見せない。 こちらを透かし見るような、ただ相手の姿を映す水面のようなその透明さが青司を苦しめる。
海乃を大切にしたいのは本当だ。心の底から幸せにしたいと思っている。だが同時に痛いほど理解しているのだ。
自分にその資格がないことを。
青司はネオンの明かりに背を向け、路地裏へと入っていった。街の喧騒から一歩ずつ遠ざかり、高い壁に囲まれた空間は青司の足音だけを響かせる。
世界から隔離された暗闇が、青司の遠い記憶を呼び覚ます。消してしまいたい、忌まわしく醜悪なそれに青司は顔を歪ませた。
埃っぽい畳の香り、シミのできた木目の天井、遠くで見えた青白い月____
「あれ?青ちゃんじゃん」
青司がハッと振り返ると、そこには男が立っていた。逆光で顔が見えないが、青司はその声の主を良く知っている。
「……幸斗」
幸斗と呼ばれた男は、にかっと笑いながら青司の肩に手を回す。強いタバコの香りに青司は目を細めた。
「久しぶりじゃん。ねぇ、これから遊びいこーよ」
楽しそうに声を弾ませた幸斗は、青司の顔をじっとのぞき込んでいた。




