第10話 名前
青司は幸斗の腕を乱暴に引きはがすと、冷たく言い放った。
「これから仕事なんだ」
「んなのさぼりゃいいじゃん」
なおも言い寄る幸斗のくたびれたパーカーから、ふいにタバコの臭いに混じってあまい香水が香る。どこかの女と過ごしてきたのか、はたまた男か。いずれにせよ、青司には関係ないことだ。
「俺ん家、今帰れねぇからさおまえの家でいーよ」
「それとも、おまえもまた家、無理な感じ?」
幸斗は、にやにや笑いながら意地悪く目を細めた。人をわざと怒らせるような挑発的な物言いも、青司にはなれたものだ。
相手を振り回しては反応を楽しむようなところが幸斗にはある。こちらを試すようにじっと見つめてくる幸斗から、青司は冷静に目をそらした。
「今は……いや違う。これからはもう駄目だ」
「……海乃が、いる」
その言葉に、幸斗はぽかんと口を開けた。信じられないようなものでも見たかのように、丸い目をさらに丸くさせる。
「海乃?海乃ってまさか……あの海ちゃん?」
青司の無言を肯定と受け取った幸斗は一瞬固まったが、次の瞬間、ぷはっと息を吹きだした。
「あっははははは!え、なにマジで言ってる??いくらなんでもそれはないだろおまえ!!」
青司の背中をばしばしと叩く幸斗の目からは笑いすぎて涙が出ている。身体をよじらせ、なおも笑い転げる幸斗は息も絶え絶えだった。
「やばすぎ……やっぱり血は争えないのな。おまえもなかなかやるじゃん?」
青司は幸斗にゆっくりと顔を向けると、重たい口を開く。片手に握られていた紙袋がくしゃりと小さく音を立てた。
「姉さんが、あの子の母親が死んだ。だから……俺が海乃のお母さんになる」
幸斗の顔から笑いが消え、鋭い光が目に宿る。顎を軽く上げた幸斗は首元に手をやると、凄むように青司を見た。
「……本気?」
青司は唇を引き締めたまま、幸斗を見つめる。2人はしばらくそのまま動かなかったが、やがて幸斗は大きなため息をつくと、ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
ふわりと広がる紫煙とともに、残酷な言葉が吐き出された。
「無理だよ」
感情のない冷たい声に、青司はピクリと眉を揺らす。幸斗は、灰を落としながら青司に近づいていった。
「なってどうすんの?おまえはそれでいいわけ?」
青司の足は縫い付けられたかのようにその場から動かない。でも瞳だけは幸斗をまっすぐ捉えていた。
「なれねぇよ、俺、知ってるもん」
「あのころからなんも変わってないって……」
幸斗は青司の顔に煙を吹きかけた。濃い香りが青司を包み込む。煙でかすんだ視界の向こうで幸斗が笑っていた。
「俺も、おまえもな」
くるりと踵を返した幸斗はポケットに手を突っ込み、ひらひらと手を振る。「また連絡するわ」と街の明かりの中に幸斗の背中は消えていった。
地面の一点を見つめたまま、青司はその場に立ち尽くす。
路地裏に届いた僅かな光は、青司の元には届かない。その横顔は暗い影の中に沈んでいた。
コトンという音ともに、海乃の目の前に赤紫色の液体が入ったグラスが置かれる。
「海乃、手伝いありがとう。今日はラズベリージュースなんだけど口に合うかな?」
アンの手から離れたそれは、店のライトに照らされてきらきらと輝いていた。口に含めば、爽やかな香りとともに、甘酸っぱい風味がいっぱいに広がる。
初めての味に、海乃は瞳を輝かせた。
夢中でジュースを飲む海乃を見つめながらナイチンゲールは、ネイルできれいに彩られた手を上げる。
「アン、アタシもぉ。ラフロイグ、ショットで」
「だから、開店前だって言ってんだろうが!」
鋭いツッコミと共に、お冷をドカッと置いたアンの髪が大きく揺れる。ナイチンゲールは、置かれたグラスに口をつけながら「おお、こわっ」とつぶやいた。
「さすが『逆毛のアン』。30目前ともなると沸点まで下がっちゃってやだわ~」
「おめぇと、2つしか変わんないだろうが!!!てか、まだあと2年猶予あるわボケが!!!」
海乃はきょとんと首を傾げて、ガルルルルと睨みあっている2人にかまわず問いかけた。
「『逆毛のアン』?『赤毛のアン』じゃなくて……?」
アンとナイチンゲールは、海乃を見つめると合点がいったように声を上げた。
「そっか、まだ言ってなかったっけ」
「この店の名前が『conte de fées』なもんだから、面白がってみんな本とか漫画に出てくる登場人物の名前を名乗りだしてね」
アンの説明を聞いても海乃はまだ納得のいかない顔をして、じっとアンの頭を見つめた。
店の人の装いは人によって様々だ。マリーやナイチンゲールのように日によってかつらを変える人もいるが、少なくとも海乃がここに来てからアンの髪はずっとライトパープルのボブヘアーだ。
どう見たって赤毛じゃない。
海乃の様子を面白そうに見ていたナイチンゲールは肩に手を置くと、くすくすと笑って耳に唇を寄せた。
「酔っぱらった客にしつこく絡まれたとき、ぶちぎれたアンがメニュー表で頭ひっぱたいたのよ」
「そんときの怒りようが、本当もうすごくってね、髪が逆立ってたから『逆毛のアン』」
教えてもらった海乃はその時の様子を想像する。メニュー表を片手に客に詰め寄るアン、それを必死に止めるみんなの姿。
海乃はくすくす笑って口元に手を添えると、ナイチンゲールの耳元でそっと囁いた。
「石板じゃなくってよかったね」
こらえきれず大笑いしたナイチンゲールの声が店内に響き渡った。
「おまえら、全部聞こえてるからな」
ボトルを並べていたアンが頬を引きつらせながらくぎを刺す。それでも、どこか楽しそうに目を細めると海乃から飲み終わったグラスを受け取った。
「でも、よく知ってるね。赤毛のアン、読んだことあるの?」
「うん、本読むの好き。ナイチンゲールは絵本から?」
海乃の問いかけに、ナイチンゲールは自慢げに胸を反らせるとマイクを掲げるようにポーズをとる。
「そうよ、アタシの美声にふさわしいでしょ?」
呆れたような視線を向けるアンがボソッ呟いた。
「声どころか超音波だろ」
「聞こえてるからねぇ!?!?」
また言い争いを始めそうな2人をよそに、海乃は振り返ってセルジュを見つめた。
テーブルでココアを飲み進めていたセルジュも、会話は聞いていたようで海乃の視線を感じてか、こちらに顔を向ける。
「セルジュは『風と木の詩』から?ジルベールじゃないの?」
セルジュは、考えるようにどこか遠くを見ていたがやがて静かに答えた。
「……ジルベールは俺じゃない」
そうして、またカップに口をつけたセルジュに海乃はそれ以上何も聞けないまま、再度カウンターに向き直る。
ナイチンゲールは気にするなと言わんばかりに、海乃の肩を叩いた。
「まぁ、この店は話したいことは話すスタイルだから、ぶっちゃけ細かい事情とか知らないやつも多いのよねぇ」
ふとナイチンゲールはアンを見上げると頬杖をつく。
「そういえば、マリーは?アタシ、あんまり知らないかも。アン、マリーとタメでしょ?」
「それなりに付き合いはあるけど、店の外のことはそんなに。お互いの家にも行ったことないしね」
アンは口に手を当てて考えていたが、首を振って肩をすくめてみせた。息をついてカウンターに顔を預けると、海乃の顔を見上げる。
「ねぇ、海乃。マリーって家だとどんな様子なの?」
聞かれた海乃は戸惑いながら、最近の青司の様子を思い返した。ステージに立つマリーはともかく、この店のみんなと過ごす様子は家での青司と大差ないように感じる。
「そんなに変わらないと思う。でも、この前一緒にゲームやったら叫んでたよ」
「何それどういうこと?」と聞き返すナイチンゲールに海乃はそのときのことを教えた。
海乃が楽しめるだろうと買ってきてくれたゲーム機。
お互いこういったものに触るのは初めてで四苦八苦しながらテレビにつなぎ、売り上げランキング1位のレーシングゲームソフトを買って一緒にプレイしてみた。
結果はお互いズタボロ。
海乃は最後まで気付かないままコースを逆走し、青司に至っては最初のカーブを曲がり切れずNPC全員がゴールし終えるまで落ち続けていた。
曲がり切れない永遠のカーブを前に身体を傾け叫び続ける青司の姿。
アンはカウンターに突っ伏して身体を震わせ、ナイチンゲールはバンバンと膝を叩いて大笑いした。
思い出した海乃もこらえきれず吹きだしてしまう。耳をすませば背後からも小さな笑い声が聞こえてきて、それがさらに海乃をおかしくさせた。
笑い声が響く中に、軽快なベルの音が鳴る。「遅くなってすまない」と入ってきた青司を4人は見つめたが、それもつかの間また笑いだしてしった。
どんどん大きくなっていく笑い声に、青司は困惑したまま皆を見回した。
「な、何なんだいったい」
「べ、別に、なんでもないわよ」
指先で涙をぬぐいながらアンが息を整え立ち上がる。カウンターから出てくると青司の肩にポンと手を置き、階段を上っていった。
「さっさと準備して上がって来てね。そろそろステージの用意もしておかなきゃ」
困惑する青司を置き去りに、アンを追ってナイチンゲールとセルジュも上へと上がっていく。
バルコニーからひょこりと顔を出したナイチンゲールがいたずらっぽくウィンクを飛ばした。
「あんまり遅刻するもんじゃないわよ、マリー」
完全に置いてきぼりになってしまった青司が海乃に目を向ける。
海乃は何も言わず、青司の手から荷物を取ると階段を数段上がり振り返った。
「お母さん、明日また一緒にゲームしようね」
楽しげに笑う海乃の姿に、青司は目を見開く。
視線を彷徨わせ下を向いた青司は、やがて海乃を見上げると目尻を緩めた。
「ああ、約束だ。海乃」
2人の足音が誰もいなくなったバースペースに響く。
今夜のconte de féesも素敵な夜になりそうだと、海乃は心躍らせた。




