第50話 大学生
プロジェクターの横に立った天野は、腕時計を確認した。
映し出されているのは、やっと使い慣れてきたパソコンで天野が作ったという資料。
見栄えはそれなりだが、しっかり勉強してくださいねと宣言してた通り内容は濃密だ。
要点をノートに書き終えた海乃は、顔を上げる。
鎖骨あたりまで伸びたまっすぐな髪が、それに合わせてさらりと揺れた。
同じように手を止める学生たちが多くなってきたところで、天野が手を叩いた。
「それじゃあ、今日の講義はここまでにします。お疲れさまでした」
解放され一気にざわつき出した教室で海乃は、ほっと息を吐くとリュックサックに荷物を詰めていく。
立ち上がった海乃に上品な声が飛んできた。
「小舟さん」
ちょいちょいと手招きしている天野に海乃は内心身構えてしまう。
講義は難しい上に厳しいが、天野自体の人柄は優しく丁寧だ。
教授の中では接しやすい方ではあるものの、必要以上に話したことはない。
返事をしながら、海乃はそさくさと天野の方へと歩み寄った。
「この間、提出してくれたレポートのことなんだけど……」
レポート、確か太宰治の水仙について書いたものだ。
何か不備があったのだろうか。
緊張しながら続きを待っていた海乃に、天野はにこりと微笑んだ。
「とても興味深かったわ。早川さんの教え子とは聞いてたけど、貴女も面白い人ね」
あの子も学生時代から面白い子だったから、と思い返すように天野は笑う。
まさかこんなふうに褒められるとは思えなくて、海乃は上がりそうな口角を必死に抑えてお礼を言った。
高校卒業後の進路。
迷いに迷った海乃は、早川の母校だという大学の受験を決めた。
正直、最初はかなり厳しい状態だった。
文学部を志望していたため、文系科目だけを集中的にやるだけでよかったものの、いかんせん大学自体のレベルが高い。
早川先生はもちろんだが、海乃の勉強に一番協力してくれたのは意外にもナイチンゲールだった。
英語の本を読んでいたのを見たときから薄々感じていたが、ナイチンゲールはすごく勉強ができる。
海乃の質問には大抵答えてくれたし、何をどう考えていけばいいのかも丁寧に教えてくれた。
「だって、自分でやんなきゃ意味ないじゃないの!……受験は話が別よ♡」
どうして夏休みの宿題は助けてくれなかったのかと抗議しても、返ってくるのは相変わらずの返事で。
不貞腐れたまま海乃は、ペン先でノートを叩く。
「でも、ナイチンゲールがそんなに頭がいいの知らなかった。だって普段は……」
「ちょっとぉ!?言うようになったじゃない!?!?」
あんまりな物言いに全力でツッコミつつも、ナイチンゲールは机に肘をついた。
「……まぁ、これでも昔はお医者さんの卵だったからね」
聞いたことのない静かな低い声。
伏せられたまつ毛がナイチンゲールの瞳に影を落とす。
驚いた海乃は勢いよく隣を向くと、ナイチンゲールを凝視する。
目が合ったナイチンゲールはいつもの調子で、明るい瞳を片方つぶってみせた。
「なぁ〜んちゃって。ほらほら!喋ってる時間が惜しいわ!!」
「アタシが教えるからには、合格以外は許さないわよぉ!!」
大学も今年で2年生になるが、今思い返してもあの頃は大変だったと思う。
それでも、こうして褒められると頑張って良かったと心の底から思うことができた。
「これからも頑張ってくださいね、小舟さん」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
海乃はもう一度丁寧に頭を下げると、教室を後にする。
天野から言われたことを反芻し、一人でにやにやと廊下を歩いていった。
講義棟から一歩外に出ると、眩しい西日が海乃の目をさす。
日も暮れてきたが、エアコンの効いた室内と比べるとまだまだ暑い。
もう直ぐ本格的な夏がやってくる。
海乃が手で顔を仰ぎながら校門を出ると、突然横から飛び出してきた人物とぶつかりそうになった。
「っ、すみません!」
「うわわっと、悪い!!」
お互い反射的に謝りながら振り返る。
相手が誰なのかわかった海乃は、思わず笑ってしまった。
「なんだ、春樹くんか」
その一言で、春樹にも相手が誰か分かったのだろう。
ぽかんとした後、逆光で眩しいのか目を細めると春樹は納得したように声をあげた。
「海乃!ごめん、俺急いでて……」
申し訳なさそうに頭をかく春樹に、海乃は首を振る。
動きやすそうなジャージに肩から下げたエナメルバッグ。
その格好を見れば、春樹がどこに行こうとしているのかはだいたいわかった。
「部活?今から練習なの?」
「そう!今日は夜練なんだけどさ、なかなか課題終わんなくて気づいたらこんな時間に……」
照れくさそうに笑った春樹に海乃は感心してうなづいた。
「そっか、大変だね」
「まあな、でもバレーは楽しいしスポーツ推薦できたんだからそんくらいは頑張らないと……」
ぐっと意気込む春樹が、また大きな声をあげる。
あたふたと足踏みをはじめて海乃に背を向けた。
「ってだから練習!ごめんっ、もう行くわ!!」
「あっ、うん!頑張ってね!」
海乃の声に片手をあげて春樹は走り出す。
と、思ったら勢いはそのままUターンして帰ってきた。
「忘れてた!あのさっ、椋木に舞台行けなくてごめんって改めて伝えといてくれるか?」
_____舞台
言われて海乃も合点がいく。
そうだ、確か来週は紡が所属する演劇サークルの公演があるのだ。
紡が脚本を担当したということで、文化祭のこともあり春樹にも連絡したと言っていたことを思い出す。
別大学のイベントに行くのは海乃も初めてで、その日は日鞠と合流して観劇に向かうつもりだった。
人魚姫主要メンバー再集結かと日鞠と言っていたこともあり、叶わなくなったのは残念だがまた集まればいいだけの話だ。
「大丈夫だよ、ちゃんと伝えるから……ほら、遅れちゃうんでしょ?」
「うわぁ!そうだそうだ!」
走り出した春樹がぐるりとこちらを振り返る。
夕日に照らされた春樹は大きく海乃に向かって手を振っていた。
「ありがとう海乃!気をつけて帰れよ!!」
転ばないだろうかと心配しつつ海乃も笑って手を振り返す。
実は、まだ家には帰らないのだがこれは春樹には秘密だ。
海乃はイルカのキーホルダーがついたスマートフォンをポケットから取り出す。
メッセージアプリの一番上に表示されていた名前をタップすれば、朝のやりとりが目に入った。
ポン酢が切れてしまったから、できれば買っておいて欲しいという内容にスタンプで返してある。
リュックサックに入っているポン酢の重みを感じながら、海乃は慣れた手つきでいつもの文章を打ち込んだ。
_____今、大学終わったから向かうね。
スマートフォンをポケットの中に戻し、海乃は駅へと向かう道を下る。
だんだんと足取りが早くなっていく海乃の背中を伸びた影が一生懸命追いかけていた。




