第51話 特等席
conte de féesへ到着すると、店はすでに客で賑わっていた。
海乃は手際良く前掛けをつけ、髪を束ねると1階のフロアへと向かう。
バーカウンターの奥にいたアンが海乃の姿を認めると、ボトルを持っているのとは反対の手を口に添えた。
「海乃、着いて早々悪いんだけど、今日はホールお願い!」
「わかった」
そのやりとりに反応して、カウンターに座っていた男が椅子に腰掛けたままこちらを振り返る。
颯汰は片手をひらひらと振って、海乃を呼び止めた。
「海乃ちゃーん、大学おつかれさま!」
「そーちゃんさん、こんばんは。お仕事今日はお休みですか?」
グラスを傾けながら颯汰がいたずらっぽく笑う。
出会った当初から若々しい人だとは感じていたが、こうしていると本当に同い年のようだ。
「違う違う、マスターから依頼されて敵情視察中」
極秘ミッションだよ〜、と楽しそうに話す颯汰の後ろでアンが口角をひくりと上げる。
「ほぉーん、それなら都合いい。おめぇを摘み出す理由ができたな」
「冗談じゃん!勘弁してくださいよ!」
軽口を叩き合う2人を見て、海乃はくすくすと笑う。
颯汰は再び海乃に向き直ると感慨深そうに目尻を下げた。
「それにしても、海乃ちゃんが営業時間中にフロアに出てるの未だに慣れないなぁ」
「もう、いつまでも子供扱いしないでください」
前掛けを軽く整えて海乃は口を尖らせる。
高校生時代、未成年の海乃が客前に姿を見せるのはまずいということで片付けてもらった物置部屋にいることが常だった。
当時から開店前や閉店後の手伝いはしていたが、それだけではやれることも少ない。
大学進学を機に、自分も本格的に手伝いたいのだと頼み込んでこうして接客も任されるようになったのだ。
「まぁ、今となっては貴重な戦力の1人だからね。頼りにしてるけど何かあったら直ぐに言うんだよ」
優しいアンの言葉に大きくうなづけば、少し離れたところから声がかかる。
海乃は、それじゃあと踵を返し呼ばれた卓の方へと歩み寄った。
「お待たせしました、ご注文お伺いします」
丁寧に海乃が話しかければ、2人組の男はメニューを指し示しながら注文していく。
注文された品の確認を取ると、大丈夫だとうなづいた男が海乃へと身を乗り出した。
「ねぇねぇ、海乃ちゃん。今日はマリーいないの?」
嬉々として聞いてくる男に連れの男は不思議そうに首を傾げる。
「何でこの子に聞くんだよ?」
「お前知らないのか。この子はな、マリーのお気に入りなんだよ」
「えっ、あのマリーの!?」
目を見開いて見上げてくる男に、海乃は笑って誤魔化す。
海乃はマリーとの関係を客には伝えていなかった。
何となく、店に出始めたときに言わない方がいいと思ったからだ。
詳しく聞かれてもうまく説明できる理由がなかったし、何よりconte de féesのマリーはマリー以外の何者でもない。
そう感じて海乃は、店にいるときはマリーを「マリー」と呼ぶようになっていた。
結果、客どころか新しくきたキャストも海乃とマリーの詳しい事情は知らない。
傍から見たら、孤高の歌姫でありconte de féesの女王様であるマリーが、ただの小娘を気にかけるのが不思議でしょうがないんだろう。
「やっぱりマリーも別嬪さんが好きなのかねぇ〜羨ましいかぎりだ」
へらりと頰を緩める男に海乃も微笑み返す。
愛情のあるからかいを無下にできなくて、海乃は少し屈むとこっそりと伝えた。
「それは分かりませんが……マリーがいるかいないかは、もうすぐわかると思いますよ」
「へっ?」
2人組の男がきょとんと瞬きをしたその瞬間、高らかな声が降り注ぐ。
「ごっきげんよぉ〜!今夜はサプライズよ!」
バルコニーからフロアを見下ろして宣言するナイチンゲールの声が店内中に響いた。
「今宵訪れたアンタ達のためだけのスペシャルショーの幕が上がるわ!興味がある坊やとお嬢さんは急ぎなさい」
まさかの出来事に客達の熱気が一気に高まる。
ぞろぞろと階段へ向かう背中を見送りながら、海乃はあいた皿に手を伸ばした。
だが、海乃の手が届くよりも早く、大きな手が皿を持っていく。
「セルジュ」
海乃に視線だけ寄越して、セルジュは食器を片付け続ける。
器用に全ての食器を抱えると、セルジュは短く呟いた。
「……見たいんだろ、行ってこい」
言い当てられて海乃は戸惑ったが、その言葉に甘えて階段を上がっていく。
バルコニーにいたナイチンゲールが、海乃に気づくと見せつけるように髪をなびかせた。
「アタシの出番もあるんだから、ちゃんと目に焼き付けなさいよ」
「うん、楽しみにしてるね」
ナイチンゲールにエールを送り、海乃は小走りに客席へと急ぐ。
しかし、向かった先はホールに続く扉ではなく、スタッフ用の出入り口だ。
舞台袖に出て、キャストの邪魔にならないように鉄骨階段を登れば、楽屋と元物置部屋が見えてくる。
今でも課題が煮詰まっているときにお世話になっているが、今用があるのは物置部屋ではない。
ステージの真上を通るようにかかる欄干の中央。
そこが、高校の時からの海乃だけの特等席。
観客が全員入ったのだろう。
照明が暗くなると同時に、話し声がさざなみのように引いていく。
真っ暗闇に覆われたホール。
ゆったりとした静けさの中でサックスの音が響いた。
最初は小さかったそれが徐々に大きくなっていく。
幕が開かれていき、暗がりの中に背を向けた人影がぼうっと浮かび上がった。
音楽がやみ、その人物が妖艶に片手を上げれば、代わりに響き渡るのは美しいロングトーン。
増していく音圧に呼応するように、観客が興奮してきているのが伝わってくる。
やがて、歌声が頂点に達した瞬間、ドレスを翻してその人が客席を振り返った。
爆発的にかき鳴らされるサックス。
重なっていくコーラスの声。
スポットライトに照らし出されたその女が、にやりと笑えば観客が歓声を上げた。
「待たせたわね!特別な夢をあんたたちに魅せてあげるわ……」
「私がマリーよ」
指笛や拍手で埋め尽くされる会場。
おとぎ話に迷い込んでしまったかのような夢うつつな世界。
その世界の中心でマリーは高らかに歌う。
客席、舞台袖、ステージ。
この世界の全てを見渡せる、誰よりも高いところから海乃はマリーの姿を輝く瞳でじっと見つめる。
何度も聞いて覚えてしまった曲。
海乃は邪魔にならないように小さく口ずさみながら、マリーの歌声に耳を傾けた。




