第48話 あの子のおかあさん
異様な緊張感に包まれた教室は冷たい空気を纏っている。
早川との間に流れた沈黙は重く青司にのしかかっていたが、それで黙っているわけにもいかない。
青司も成人した大人であり、立派な社会人だ。
早川に悟られぬよう、短く息を吐いて青司は深々と頭を下げた。
「すみません、ご迷惑をお掛けして……」
くすりともれた笑い声につられて青司が頭を上げれば、顔をほころばせた早川が口元に手を当て小さく笑っている。
「ごめんなさい、ただ驚いてしまって……」
「小舟さん、あんなに大きな声出せたんですね」
青司が瞬きして見つめると、柔らかく微笑んだ早川は懐かしむように瞼を伏せた。
「一年時の小舟さんは、とても静かで……いつも1人でした。まるで、それが当たり前だと思っているみたいに」
青司は、交番で海乃と再開した当時のことを思い出す。
口を閉ざし、人形のようにこちらを見つめ返すだけの海乃。
かかとから血を流していても、気にせず歩いていた痛ましい姿を。
黙って話を聞く青司に、早川は遠慮がちに続ける。
「こんなことをお話するべきか分かりませんが、私も不安だったんです」
「……小舟さんのお母様が亡くなったと聞いて、学校に戻ってきたときあの子はどうなってしまうんだろうって」
それまで教師として座っていた早川の仮面がほんの少し外れた。
不安げに揺れる瞳に、明かされる本音はどこか弱々しい。
他人から見たらこんな風に映っていたのだろうかと、早川に自身の姿を青司は重ねてしまう。
青司もずっと同じ気持ちだった。
再会して海乃に何て言うべきなのか、どんな風に振る舞えばいいのか。
すべてが正解なようで何もかも間違っているような、答え合わせのできない日々。
だが、今にして思えば海乃も同じだったのだろう。
自分の気持ちがわからなくて、どうしようもできずに苦しくて。
_____私があんたの叔父さんになる
そう告げたとき、海乃は声をあげて泣いていた。
胸に縋り付いてきた小さな背中に、心が締め付けられたのを覚えている。
あそこまで苦しんでいた海乃に、自分は何かできたのか。
いや、それ以前にその約束はちゃんと果たせているといえるのだろうか。
じわじわとまた襲ってくるどす黒い不安の波。
蘇ってくる鋭く冷たい幸斗の声。
_____おまえだよ、青司
わかっている、向き合わないといけないことくらい。
でも、どうすればいいんだ?
だって俺にはもう_____
そばにいていい資格なんて
「ありがとうございます」
「……え?」
急な早川の言葉に青司が呆けた声を漏らせば、早川は優しく目を細めた。
「始業式のあの日、小舟さんが私に言ったんです。ありがとうございますと」
「私だけじゃありません。お友達とクラスのみんなと、さらには舞台に立ってたくさんの人の前で声を上げられるようになった」
「楽しそうに笑うあの子は、年相応の子供に見えました。私はそれに安心したんです」
早川がじっと青司の瞳を見据える。
硬直する青司に早川はふわりと微笑みかけた。
「……あなたのおかげだったんですね」
どくんっと上がっていく体温。
冷え切った心が急激に熱を取り戻していく。
第三者として、ずっと海乃を見守ってきてくれた大人からの素直な賞賛に青司は胸を震わせた。
母親としての自分が認められたという事実に、だめだと思いつつも喜びが抑えられない。
だが_____
チラリと隣に目を向ければ、あるのは空になった海乃の席。
これが現実だ、青司は思い直すように首を振った。
「いや、でも、俺は……どうすればいいのかわからなくて……」
言い淀む青司に、そっと早川の声が重なる。
「小舟さんと話してみてください。これからのこと、未来のことを。あなたにならきっと小舟さんは話してくれるはずです」
未来のこと_____
早川が伝えてきたその言葉に、青司は顔を上げた。
今まで、考えたことがあっただろうか。
この先のことを、どうしたいのかを。
ずっと、過去のことばかりに囚われていた。
_____俺も、海乃も。
一歩先を覆い尽くす深い闇。
想像すらしてなかった将来への道が急に開けたようで青司は言葉を失う。
何も返せない青司を、早川は穏やかに見つめていた。
やがて、静かな声が2人だけの教室に落ちていく。
「あなたは、あの子のおかあさんですから」
その瞬間、柔らかな枷が青司にかかった。
先ほどまでは嬉しさしか感じていなかった。
喉から手が出るほど欲していた母親の称号。
だからこそ、裏切ってはいけない。
自分の中に生まれているコレは殺さなくてはならない。
薄寒い室内で、唯一温かい早川の言葉。
知らず知らずのうちに、強く握りしめた手のひらがズボンに深いシワを作っていく。
噛み締めた唇は鈍い痛みを訴えていたが、青司には届かなかった。




