第42話 私だって
海乃はトイレの個室で、1人項垂れていた。
今日は修学旅行3日目、明日はお土産を買ったらすぐに移動になるので、実質今が最後の自由時間だ。
学校全体で訪れたせっかくの嵐山。
なのに、海乃の心は深く沈んでいる。
静かな個室に、海乃の大きなため息が響いた。
「はぁ……」
なんで、あんなことをしてしまったのだろう。
昨日の班行動を思い出して、海乃はまた落ち込んでしまう。
せっかくの楽しい時間を自分が台無しにしてしまった。
紡も日鞠も、あれ以降そのときのことについては触れてこない。
ありがたい反面、気遣われているのが目に見えてわかってとても申し訳なかった。
澪のこと、祖父の葬儀のこと、宮杜の家のこと。
一気に蘇った記憶のかけら。
それ以上のことを思い出そうとしても胸の奥がざわざわして海乃を阻む。
だが、失った思い出たちは、逆に誤魔化しの効かない一つの事実を証明してくれた。
ここまできたらもう無視することはできない。
海乃は昔のことを忘れている。
しかも、何か大切なことを。
いったいそれは何なのだろうか。
膝の上に肘を立て、海乃は手の甲に額を預ける。
宮杜の家で何があったのだろう。
澪の弟妹と会ったのか。
はたまた、祖父のことで何か言われたのか。
いや、それよりもずっと気になること。
海乃が、あえて考えないようにしていた一つの可能性。
あの日、あの場所にお母さんは_____
青司はいたのだろうか。
_____ずきん
瞬間、海乃の頭に激痛が走る。
咄嗟に頭を抱えて目をギュッと瞑り、海乃は痛みに耐えた。
記憶の渦に彷徨っていた思考が、痛覚に支配され徐々に鮮明になっていく。
ゆっくりと瞼を開いて、海乃は唇を噛む。
思い出さないといけないはずなのに、思い出したくない。
強制的に暗い場所へと引きずり込まれるような感覚は、確実に海乃をじわじわと蝕んでいた。
しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。
戻ってくるのが遅くなれば、また紡たちに心配をかけてしまう。
よしっ、と意気込んで立ち上がった海乃が扉の取手に手をかける。
鍵を開けようとしたそのとき、聞こえてきた物音に海乃はその手を止めた。
海乃の耳に届いたのは啜り泣きと励ますような声。
その2つの声がだんだんと近づいてくる。
「……ほら、そんなに泣かないでよぉ〜」
「だってぇ、見たら思い出しちゃったんだもん」
「本当に、春樹くんのこと好きだったんだね」
海乃の肩がびくりと跳ねた。
いきなり飛び出してきた春樹の名前、そして話の内容。
思い出すのは子鹿と揃って首を傾げて見送った後ろ姿。
遠くから見えた女子生徒の涙。
間違いない、奈良公園で春樹を連れて行ったあの生徒だ。
身動きが取れなくなってしまった海乃は、じっと息をひそめて状況を伺う。
申し訳ないと思っているのに、耳は2人の会話に集中してしまっていた。
「……やっぱり春樹、あの子が好きなのかな?」
「代役で王子やってた子?偶然あんたが告る前にしゃべってただけでしょ!」
漏れでそうになった声を咄嗟に口を塞いで押し殺す。
_____私のこと?春樹くんが……?
扉を一枚挟んだその先で、海乃が混乱に陥ってることなんてつゆも知らず、女子生徒の反論が響いた。
「だって!……すごく嬉しそうだったんだもん。私、あんな顔見たことないのに……」
尻すぼみになっていく強気な声、それが鼻をすする音へと変わっていく。
「ずるいよ、あの子より私の方が絶対……」
「春樹のこと好きなのに」
涙に濡れた、悲しそうで切なくて、それでいて真っ直ぐな言葉。
痛烈なまでの春樹への気持ちを吐露して、トイレの中にまた泣き声が響く。
その子の友人が慰めているのだろうか。
背中を優しく叩くような軽い音が鳴る。
遠のいていく足音を最後に、再び静寂が海乃を包み込んだ。
その場に突っ立ったまま、一歩も動けない。
海乃は、いつのまにか鍵に伸ばしていたはずの手をポケットの中に入れていた。
その手のひらの中で、入れっぱなしになっていた紙袋がクシャリと小さな音を立てた。
沈んだ顔でトイレから出てきた海乃は、明るい日差しに片目をすぼめる。
すぐ目の前に広がる川辺の風景は、普段なら安らぎをもたらすのだろうが、今の海乃にとっては逆効果だ。
恨めしそうにキラキラと反射する水面をひと睨みして海乃はうつむく。
早く紡や日鞠と合流しなければと思うのに、見えるのは海乃の足元から伸びる影だけだ。
海乃は自分の影に吸い寄せられるように、その場にしゃがみ込む。
膝に顔を半分預けて海乃はじっと川のせせらぎに耳をすませた。
どのくらいそうしてたのだろう。
ふと、海乃の上に別の影がさす。
顔を上げたら眼前に、心配そうな春樹の顔がいっぱいに広がった。
「きゃっ!?」
「うおっ!?」
尻餅をついた海乃につられて、驚いた春樹も後ろに飛び退く。
春樹は慌てた様子で、海乃に手を伸ばした。
「ごめんっ!椋木たちに海乃ならトイレに行ったって聞いて……」
「立てるか?」
伸ばされた春樹の大きな手。
それを掴もうと伸びかけた海乃の手が、ぴたりと止まる。
_____春樹のこと好きなのに
その手を掴む権利は自分にはない。
「私、用事思い出して……」
海乃は春樹から目をそらすと、砂利が手のひらに食い込むのも構わずに無理やり立ち上がる。
「へっ?おい、海乃……」
「ごめんなさい」
戸惑う春樹の声から逃げるように、海乃は強く駆け出して行った。
揺れる視界の中で捉えた、橋の上に佇む見覚えのある2人の背中に向かって海乃はひたすらに走っていく。
「あっ、おかえりなさい!佐渡くんが海乃ちゃんの所に……って、え?海乃ちゃん!?」
驚いて目をまん丸にしている紡に、海乃は突進する勢いで抱きついた。
よろめく紡を後ろから支えた日鞠も、困惑して眉をひそめる。
「海乃ちゃん……?何かあったの?」
問いかける紡に、海乃は黙って首を振る。
私が悪いのだろうか。
でも、私だって限界なんだ。
春樹の手のひら、女子生徒の泣き声、澪の鋭い眼差し。
濁流のように押し寄せてきた、分からないこと。
海乃が向き合わなきゃいけないもの。
私だって頑張ってるのに_____
_____海乃
その時、なぜか青司の優しい笑顔を海乃は思い出した。
変わらず隣にいてくれる穏やかな温もり。
失うのが怖くて、甘えている自分。
そうだ、私だって同じことをやっているじゃないか。
「違うの……私が、酷いことしちゃったの」
苦しそうに告げた海乃を紡が抱きしめ返し、日鞠がぽんっと海乃の頭に手を置く。
紡の制服を握りしめている手のひらは、砂利のせいで凸凹と真っ赤な痕がついていた。




