第3話 ポン酢か、ポン酢か
朝。
海乃がそう気づいたのは瞼の裏に差し込む明るい日差しのせいだった。
瞬きをし、目を細めながら起き上がる。自分が一瞬どこにいるか分からなかったが、目の前にある大きな窓から見える景色は明らかに自分の部屋から見えていたものとは違った。
見下ろした先には、規則正しく敷かれた道路、カラフルな遊具のある公園、小さい林に囲まれた神社がある。
ランドセルを背負った子供たちが列をなして歩いており、スーツ姿の人がその横をせかせかと追い抜かしていく。ゴミ収集車が音を立てながらいくつもの袋を飲み込んでいき、次の目的地へと走り去っていった。
見慣れない景色をぼーっと眺めている海乃に、不意に背後から声がかかる。
「おはよう、海ちゃん」
海乃が振り返ると、小ぎれいなエプロンを身にまとい両手にお皿を載せている青司が立っていた。
そうだ昨日、叔父さんの家に来たのだった。
昨夜の出来事を静かに思い出しながら、海乃は小さな声で「おはようございます」とつぶやいた。
だが、青司には届かなかったようで海乃の言葉に反応する様子もない。
青司はお皿をローテーブルに置くと、エプロンを脱いだ。お皿の上には、目玉焼きがのっている。白みが朝日に反射して、眩しいくらい白く見えた。
「ブランケットどかしてもらってもいいか?ここしか食べる場所がないんだ」
海乃はブランケットを丁寧に折りたたんで、邪魔にならないようソファーの背面にかける。
空いた場所に座った青司はあらためて海乃を見た。
「よく眠れたか?」
海乃は正直分からなかったが、一度も目が覚めなかったということはそう言うことなのだろう。
海乃はうなずくと、青司はにっこりと笑ってフォークを並べ始めた。
「学校には連絡入れといたから気にせず、ゆっくりしてくれ。今は体を休めるんだ」
何かを思い出したかのように立ち上がった青司が、キッチンへ向かうのを見送りながら、海乃は心の中で言い返した。
別に体は疲れてない。
そう言ったら強がっているように見えるだろうか、でも本当にそうなのだ。むしろいつもよりいい寝床で眠れたおかげで、体はすっかり元気を取り戻している。ただ__
強いて言うなら、まだ少し寒いだけだ。
海乃が背を丸めて腕をさすっていると、「ああーっ!!」という叫び声がリビングにこだました。
反射的に海乃は顔を上げると、冷蔵庫の扉を開けたまま固まる青司の後ろ姿が目に入る。
青司は静かに冷蔵庫を閉めると、ふっと笑って海乃を見やった。
「いいニュースと悪いニュースだ。いいニュースは、目玉焼きを食べる際、勃発率ほぼ100%だと言われている何をかけるか論争だが、今日行われることはない」
「悪いニュースは……」
ゆっくりとローテーブルへと足を進めながら、青司は瞑っていた眼を開ける。
固唾をのんで見守る海乃に、ばっと勢いよく顔を向けると、その眼前にずいっとあるものを突き付けた。
「……ポン酢?」
「そのとおりだ!!」
青司はぱちんと指を鳴らすと、ポン酢を片手に軽くポーズを決めた。
「この家にはポン酢しかない」
海乃と青司の間に何とも言えない空気が流れた。
やがて、ちゅんちゅんという雀の声しか聞こえなくなったころ。青司の額にうっすらと冷や汗が伝った。それはそうだろう、海乃は下を向いて固まっており、一言も発さないどころか指先一本動かさない。
先に耐えられなくなったのは青司の方だった。
「う、海ちゃん……?」
ともすれば泣き出す直前のような震えた声で、海乃に呼びかけながらその肩に手を伸ばす。
つられるように、海乃が顔を上げた。ふっと、吐き出すような息が唇から漏れた次の瞬間、大きな笑い声が室内を埋め尽くした。
「ふふっ、へへっ、あははっ!」
けらけらと抑えきれない笑いをすべて吐き出すように笑う海乃を、青司はポカンと見つめる。
海乃は涙をぬぐいながら、必死に言葉を紡いだ。
「だって、叔父さんがすごく必死だから……本当はお料理、普段しないんでしょ?」
「なっ!?何故、分かった!?」
驚く青司の横に置いてあるエプロンを海乃は指さす。
「だって、エプロンがすごくきれいなんだもん。なんか焦げ臭いし、目玉焼き。本当は失敗したんでしょ?」
図星だった青司の顔にかっと熱が走る。後ろのキッチンの死角には、失敗した黒焦げ目玉焼きのタワーが出来上がっていたからだ。
居心地悪そうに頬をかきながら青司は目をそらした。
「そうか、ばれてたのか……格好悪いことをしたな」
その様子に海乃は、慌てて笑い声を引っ込める。海乃にとっては、大人にこんな反応をさせてしまうことは、何かまずいことのように感じてしまう。
海乃は机に置いてあったポン酢を手に取り、目玉焼きにかけると勢いのまま口に放り込んだ。
唖然として様子を見ていた青司をしり目に、しっかり咀嚼して飲み込むと、目を反らしながらも海乃は青司に向き直った。
「……思ったよりおいしかったです。ポン酢、初めてだけどさっぱりしてていいと思います」
それから__
そうつけ足して、今度こそ海乃は真っ直ぐ青司を見た。
「私、こんな風に朝ごはん作ってもらったの初めてで……だから、ありがとうございます。ごちそうさまでした」
頭を下げる海乃に、青司の表情は見えない。だが、その声は海乃の耳にはとてもうれしそうに聞こえた。
「そうか、こちらこそお粗末様でした。」




