第4話 お仕事
朝食を終えて、昨日よりも穏やかな時間が流れる中、青司の携帯が音を立てて震える。画面に映った文字に一瞥くれると、そのまま携帯を置いた。
取らなくてもいいんだろうか?そう思った海乃の目の前で携帯の震えが止まる。しかし、次の瞬間また振動し始めた携帯を、青司は乱暴につかみ上げると耳に押し付けた。
「何だ、しつこいぞ。今日は無理だと言っておいたはずだが」
いらいらしている青司を余計刺激してしまうのが嫌で、海乃は静かに後退ると距離を取り、フローリングに直に座った。温まっていたお尻が一気に冷やされる感覚が少し気持ち悪い。
「いや、他にもいるだろう。そんなこと言ったってだな……ああもう!わかった、この貸しは高くつくからな」
電話を切った青司は肩を揺らして大きくため息をつくと、海乃を振り返った。眉を下げて困ったような表情を浮かべながら、言葉を選ぶように口を開く。
「すまない、その、休みを取っていたはずなんだが急に仕事になってしまって」
「今から出なければならない。留守番、頼めるか?」
海乃は目を細め、小さくうなずいた。大丈夫、こういうのには慣れっこだ。
むしろ今まで1人でいる時間の方が長かったのだから、いまさら何を思う必要があるのだろう。
そう自分に言い聞かせて、海乃は座り込んだ自身の膝をじっと見つめる。
せっかく緩んできた表情が、また硬いものに戻ってしまったことに青司は気付いたが、そうなった原因も自分なので、何もすることができない。
「すまない、鍵と金はここに置いておくから。腹が減ったら好きな物を買ってくれ」
「明日の朝には帰るから」
海乃は黙って青司に頷き返すだけだった。
青司はそんな海乃の様子に後ろ髪を引かれながらも、足早に部屋を出ていく。
騒がしかった今朝の空気が嘘のように、部屋は静まり返っていた。
「海乃!ちょっと海乃!!」
大きな声と肩を激しく揺さぶられる衝動で海乃は飛び起きた。目の前には着飾り化粧をばっちり施した母がいる。
「ちょっと大丈夫あんた?全然起きないんだもん、さすがに心配するじゃん」
母の声が海乃の頭の中でぼんやり響く、何か忘れてる気がするが、何一つ思い出すことができない。
「お母さん、出かけるの?」
何とか絞り出した声はかすれていたが、母にはちゃんと届いていたようだった。
「え~?言ったでしょ、今日はデートだからっ」
「ほら、この服。気合い入れて買ったんだよ~」
丈の短いスカートを翻して、母は立ち上がる。そのまま、襖に手をかけた母の背中を見て、海野は思わず、母に向かって手を伸ばした。
なぜか海乃は二度と母に会えないような気がしてならなかった。
「……まって、今日はやめて、ねぇ」
伸ばした手は母には届かない。海乃は駆け寄ろうと足に力を入れるが、どうしても動かすことができなかった。
何もできず、もがくうちに母の背がどんどん遠くなっていく。
「まって、ねぇ、少しは話を聞いてよ!……まって、お母さん!!!」
海乃が伸ばした手が宙を掴んだ瞬間、海乃は目をばっと見開いた。
自分の荒い呼吸音が、耳の中を支配する。渇いた喉がこびりついて気持ち悪い。
震える手足で何とか体を起こす。フローリングに横たえていた身体はあちこちが軋み悲鳴を上げていた。
息を整えながら額を伝う汗をぬぐう。部屋の中はいつの間にか真っ暗だった。カーテンが開いたままの窓の向こうには、既に夜の街が広がっている。
おぼつかない足取りで、手探りに時計を探し時間を確認する。まだ22時、叔父さんが戻ってくるのは明日の朝だといっていた。
……本当に、帰ってきてくれるのだろうか
再び息が上がっていく。呼吸がうまくできない。ぐらぐらと揺れる視界の中で、海乃は押し出されるように廊下に出たが、そのまま転んでしまった。
大きな音を立て床に倒れ伏す。海乃は痛みに耐えるようにうめき声を漏らした。
痛い、痛い、全身が痛い__でも、怖い。
焦燥感、孤独が自分の心を締め付けていく。ゆっくりと頭を上げると、廊下の先の玄関、そこに1枚の紙きれが落ちているのが海乃の目に入った。
這うようにして廊下を進み、その紙を手に取る。
「これって……」
そこに書いてある文字を読み上げながら、海乃は小さく呟いた。
「……マリー」
誰もが夢とつかの間の休息を求めてやってくる、夜の街。
その街の一角に、人知れず営業している店がある。
一度体験したらもう戻れない。まるでおとぎ話のような夢物語を見せてくれる、魔法のお城。
「お待たせしましたぁ!!みんな、盛り上がる準備はできてるぅ~?」
美しく着飾ったMCの言葉に観客が沸き立つ。
小さいながらもきらびやかなミラーボールに反射する人々の顔は熱に浮かされ、これから始まるであろう出来事に対しての期待で瞳を輝かせていた。
「今日はちょっとプログラムが変わっちゃたけど、我慢できるわよねぇ?だって、あの子の歌が聞けるんだから!!!」
突如、ベルベットのカーテンを強い照明が照らす。徐々に静かになる観客のざわめきと共に、室内の明かりがゆっくりと落とされていった。
「知らないなんて言わせないわよ?知らない人がいるならむしろラッキー!」
勢いよく、カーテンが開かれる。きらびやかなドレスに豪華なファーを纏った後ろ姿がスポットライトに照らし出された。
「一度聞けば誰も忘れない声を持つディーヴァ、conte de féesの女王様……」
そこに立っていた女性は、こちらには顔を向けず勿体つけるように、ファーを肩から降ろしながら体をくねらせる。
それを合図にゆったりとした前奏が流れ始めた。
丁寧に、だけどどこか乱暴で蠱惑的に歌い上げながら、自身の腰をなぞり腕を伸ばす。
徐々に盛り上がりを見せる音楽に合わせるように、ステージの上の女も身体でリズムを刻み始める。
そして、音が最高潮に達したその時。
店の中を、いやその瞬間は世界を震わせたと言っても過言ではないほどのロングトーンが響き渡った。
観客が歓声を上げ、その女が勢いよく振り返る。耳の下にぶら下がった大きなピアスが揺れ、光を所々にまき散らし、高いヒールが小気味いい音を立てた。
「マリーの登場よ!!!アナタたち、今夜も最高の夜を約束するわ!!!」
その声は、女性から出るものにしては低く、太く、何より力強い。
そう、彼女こそがここ【conte de fées】の女王でありディーヴァ。
ドラァグクイーンのマリーだ。
今朝、「この家にはポン酢しかない」と言った同じ喉で響かせる歌声は、マリー自身でさえ戸惑うほど完成され美しく空間を震わせていく。
しかし、一瞬寂しそうな少女の顔が脳裏をよぎり、音に迷いが生じた。誰も気づかないような小さな揺らぎでも、マリーにとっては大きな失態。ステージに立つ者として、それはあるまじきことだ。
今は余計なことを考えるな、私はマリーよ。
マリーこと青司は、魅惑的な笑みを浮かべ、穏やかな朝の記憶をかき消し、自らマリーにおぼれていく。
観客の熱い視線を一身に浴びながら、鼓膜を揺さぶる音楽と、肌を伝う熱気に再び意識を集中させた。




