第36話 修学旅行
夏休みが終わって、うだるような暑さがようやくおさまってきた頃。
高く澄み切った青空の下、吸い込む空気が涼しくなり、いつもの通学路に金木犀が香るようになった。
定期考査も無事に明け、どことなく解放された様子の生徒達。
その制服も半袖から長袖へと変わっており、秋の気配を感じる。
そんな季節に行われる一大イベント。
「それじゃあ、移動しますよ!」
担任の早川の号令に、クラスメイト達がぞろぞろと動き出す。
海乃はリュックサックを背負い直すと、修学旅行のしおりを片手に前の人の背中を追った。
バスに揺られ、新幹線に乗り換え、そしてまたバスへ。
みんなと過ごす長い移動時間に少し緊張していた海乃だったが、それは思いのほか快適で楽しいものだった。
紡や日鞠との他愛のないおしゃべり。
次々と前へ後ろへと回ってくる、席を飛び越えてのお菓子交換。
日常と非日常が入り混じる光景に、理由もないのに海乃は楽しくて笑ってしまった。
窓から見える景色を眺めながら撮った写真を青司に送っていれば、あっという間に目的地へと到着した。
初めて降り立った奈良の地。
周りを飛び交う聞きなれない方言に耳をそばだて、エスカレーターの止まる位置が逆側なことに戸惑う。
到着早々物珍しさにきょろきょろしていた海乃だったが、訪れた先の歴史ある風景にこれまた圧倒された。
大きな仏像や重厚な寺社仏閣は、目の前にするだけで時間の流れが違うように感じてしまう。
教科書の中でしか見たことがなかった景色に、海乃は夢中になっていた。
だが、そんな建造物よりも海乃に衝撃を与える場所が待っていたのだ。
今日の最後の行き先である奈良公園に足を踏み入れた海乃は、木々の間や参道を我が物顔で行き交う鹿の大群を呆然と見つめていた。
「ちょ……待って!紡、紡!助けて、ねぇ!」
「あわわ、日鞠ちゃんっ!私も今は無理かも……!」
鹿に囲まれた日鞠と紡がわたわたと逃げ惑いつつ鹿せんべいを与えている。
どちらかというとあげてるというより、奪われてると言ったほうが正しいほどの激しさだ。
まるでゾンビ映画のような有様を海乃は少し離れた場所から見守っていた。
それにしてもと、海乃は辺りを見渡す。
鹿という動物は、普通動物園なんかでみるような生き物なんじゃないのだろうか。
道端にいるカラスだってこんなにたくさんいるところなんて見たことがないのだ。
それが当たり前のように、しかも尋常じゃないほどの数でいるのだから海乃の驚きは計り知れない。
海乃はとっくに食い尽くされた鹿せんべいのかすを払って、いまだに悪戦苦闘している紡たちを後にして歩き出した。
木陰に入りながら、いそいそとスマートフォンの画面を見る。
表示された通知をスクロールしていけば、ようやく返ってきた青司からのメッセージに海乃は嬉々としてアプリを開いた。
_____楽しそうでよかった
綴られた短い言葉に、青司が苦笑して文章を打っているところまで想像できてしまう。
メッセージを遡っていけば、海乃が送ったたくさんの写真が履歴に残っていて我ながら恥ずかしくなった。
しかし、わかってはいても次から次へと伝えたい事ができるので送信する手が止まらない。
海乃は鹿に襲われている紡と日鞠の写真を送って、ポチポチと文字を入力し始める。
「何してんの?」
かけられた声に手を止め顔を上げれば、春樹がこちらの方へと歩み寄ってきていた。
しかも、鹿の集団を引き連れて。
さながらハーメルンの笛吹き男だが、春樹の手には笛である鹿せんべいは握られていない。
「少し連絡とってて……というか、すごいね春樹くん。動物に好かれるんだね。」
まだ子供なのだろうか。
比較的体の小さい鹿が海乃のスマートフォンにつけられたイルカのキーホルダーに鼻先を押し当てる。
ふすふすと鼻を鳴らす子鹿に、海乃はごめんね食べれないのと話しかけながらスマートフォンを胸に引き寄せた。
「そうか?どっちかつうと、捕食対象として見られてる気がしないでもないんだけど……」
ぐいぐいと制服を引っ張る鹿を優しく制して困ったように春樹が笑う。
構ってほしそうな鹿たちの視線を一心に受けている春樹を見て、海乃も穏やかな気持ちになった。
スマートフォンを制服の上から羽織ったカーディガンのポケットにしまえば、かさりと軽い感触の何かに当たる。
渡せるときに渡そうと入れておいたそれは、春樹のために用意しておいたものだった。
その存在を思い出した海乃は、はっと気づく。
_____今がチャンスなのではないか
春樹とはここ最近、むずがゆい空気が流れる事が多かった。
でも、鹿たちのおかげで今はだいぶ落ち着いた雰囲気になっている気がする。
海乃は少しざわつく胸を落ち着けて、鹿と戯れる春樹に向き直る。
「あの、春樹く……」
「おいっ!そんなに引っ張るなって、もうせんべいは持ってな……」
海乃の声が聞こえなかったのか。
けらけら笑いながら春樹が振り返れば、制服の裾を引っ張っていたのは鹿ではなく女子生徒だった。
隣のクラスの生徒だろうか、海乃には見覚えがない。
思わぬ登場にぽかんと口を開けた海乃と春樹とは違い、頬を赤らめ緊張した面持ちのその子は唇を震わせた。
「春樹、今大丈夫?」
キッと若干厳しい視線を海乃に向けて、女子生徒は春樹を見つめる。
「えっ、俺?あ、えっと……」
伺うように海乃を見た春樹に応える代わりに手を振って促すと、春樹は戸惑うようにうなづいた。
「うん、いいけど何の……」
「こっち、来て」
困惑する春樹の手を強く握り、向こうの方へと引っ張っていく女子生徒に連れられ春樹も海乃から遠ざかっていく。
鹿たちも空気を読んだのか、やれやれと言わんばかりにばらけていった。
子鹿だけはそばに居座ったまま、じっと海乃と一緒に嵐のように去っていった2人の背中を見送っている。
海乃と子鹿は顔を見合わせると、お互い何が起こったのか分からないとでもいうように首を傾げた。
「海乃ちゃん、お待たせぇ……」
「勢いすごすぎるでしょ、テオの5倍はある……というか、テオに会いたい……」
制服や髪を乱した紡と日鞠が、よろよろと戻ってくる。
海乃と子鹿の視線の先に気付いたのか、2人も遠くの方で何やら話をしている春樹と女子生徒に目をやった。
「えっ、あれって……その、もしかして……」
「告白でしょ?」
「ちょっと、日鞠ちゃん!」
告白という単語に顔を真っ赤にして紡が声を上げる。
つられたのか日鞠も顔を赤らめて反論した。
「照れないでよ!こっちまで照れるわっ!」
日鞠の大声に驚いた子鹿は体を震わせると、ぴょんと跳ねてどこかへ行ってしまう。
「あっ……」
3人から一斉に漏れ出た声が秋の空に吸い込まれていった。
「おーい、人魚姫トリオ〜そろそろ集合だから移動しとけ〜」
肩を落とす海乃たちの背中に気の抜けた声がかけられる。
振り返れば、文化祭に引き続き実行委員になっていた委員長と副委員長が立っていた。
「ん〜?」
はーい、と言葉を返す海乃たちの向こう側に委員長も気づいたのか。
手でひさしを作って観察していたが、状況を察してにやにやと笑い出した。
「おっ、おぉ〜……これはこれは、あそこに声をかけるのはやめといたほうがいいかね〜?」
後ろに控えていた副委員長が嗜めるように脇腹をこづけば委員長は笑いを引っ込める。
「いやいや青春だねぇ、若さとは素晴らしいものだ」
うんうんとうなづく委員長に、同い年では?と内心突っ込んだのはおそらく海乃だけではないだろう。
副委員長は学ランの首元を緩めながらため息をつき、委員長を引っ張って他のグループの方へと向かっていった。
「……私らも行こっか」
「……うん、そうだね」
歩き出した日鞠と紡の後ろに続いた海乃は最後にちらりと後ろを振り返る。
春樹の背中から覗き見える女子高生の瞳から光ったものが流れ落ちた気がして、海乃はポケットの中のものをぎゅっと握りしめた。




