第32話 水族館
熱い屋外とはうって変わり、水族館の中はとても涼しかった。
海乃は、うっすらとかいていた汗をぬぐって一息つく。
スカートをぱたぱたと仰いでいると青司から、こらっと声が飛んできた。
「お行儀が悪いぞ」
呆れたように笑う青司に、海乃は誤魔化すように肩をすくめてみせる。
きょろきょろと辺りを見まわせば、下っていく廊下の壁越しに魚が泳いでいるのが見えた。
海乃はアクリルガラスに近づき、じっと魚たちを観察してみる。
薄暗い室内とは裏腹に、水槽の中は明るく照らされていて眩しいくらいだ。
水中にさす光の柱。つられるように上を見上げれば、どこもかしこも魚が泳いでいる。
青い水の中で自由に動くそれは、泳いでいるというよりまるで空を飛んでいるみたいだった。
目を輝かせている海乃の隣に立った青司も、同じように水槽を見上げる。
青司の肘が少し海乃の腕に当たって、何となくどきりとした。
「……海乃は水族館、初めてか?」
「うん、お母さんは?」
聞き返されると思っていなかったのだろう。
青司は少し驚いたように海乃を見つめると、静かに目を伏せる。
やがて、水槽に目線を戻した青司は小さく微笑んだ。
「俺も、初めてだよ……水族館」
こっそりと覗き見た青司の顔に、揺らぐ水の影が映る。
いつもの大人びた横顔ではなく、どこかワクワクしているような表情。
幼い子供のように熱心に魚を見る青司を、海乃は思わずじっと見つめてしまっていた。
ふいに、こちらに視線を向けた青司と目が合って、海乃は慌てて水槽に目を戻す。
魚を見るふりをして、海乃は青司の言葉を噛み締めた。
_____初めて、なんだ
今までは、色々なことを青司に教えてもらってばかりだった。
でも今回は違う。知らないのは青司も一緒でお互い初めてで、その時間を共有できるのがうれしくてたまらない。
海乃はグイっと背伸びをする。
空をかけるように上っていった魚を追いかけて手を伸ばした。
水族館は見たことがないものばかりで、全てが目新しく楽しかった。
照明の光によって違う雰囲気を見せるクラゲの展示。
色とりどりの熱帯魚に波間を漂うウミガメ。
飼育員と息のあったアシカのショー。
時間を忘れて隅から隅まで館内を見て回った。
中でも一番面白かったのがペンギンだ。
よちよちと歩くかわいい動作からは想像もつかないほど、水中ではスマートな動きを見せるペンギン。
腕を上下させて進んでいく姿は、本当に空を飛んでいく鳥のようだ。
2人は夢中になって説明書きを読みながら、ペンギンを眺めていた。
そんな中で、ふと青司がおかしなことに気づく。
所々に点在するペンギンのグループ、その中から抜け出した1匹が青司の後をずっと追いかけていたのだ。
青司は恐る恐る右に左にと歩き回る。
すると、その子も岩場を飛び跳ね水中に潜りひたすら青司の後を追っていた。
「う、海乃……」
どうしたらいいものかと、助けを求めて振り返った青司。
だか、海乃は青司の服装に注目していた。
白いTシャツに黒のサマージャケット、同じく黒のズボン。
察した海乃は思わず吹き出してしまう。
公共の場だ、大声を上げてはいけないと思えば思うほどおかしくなって、海乃はついに笑い出してしまった。
ますます困惑する青司に海乃は必死になって伝える。
「お、お母さんの……ふふっ服っ、服がっ……あはは!」
青司は自分の格好を確認して、ゆっくりと顔に手をやる。
肩が細かく震え始め、笑いを押し殺した息が海乃の方にまで聞こえてきた。
「……っ!……ふっ、ははっ……ははは!」
とうとう笑い声を上げた青司につられて海乃の声も大きくなる。
笑い転げる2人を不思議そうに見つめていたペンギンは、こてんと首を傾げた。
「どうして、水族館に来たかったんだ?」
目的の場所を地図で確認していた海乃は、横を見上げる。
隣を歩いている青司の腕にはサマージャケットがかけられていた。
大騒ぎをしてしまったペンギンエリア。
上着を脱いだ青司をその後もペンギンが追いかけることはなかった。
海乃は、少し考えて口を開く。
正面に向き直れば、目当ての水槽が突き当たりに見えてきた。
「……本物の海の世界を、見てみたかったの」
アクリルガラスの前で海乃は立ち止まる。
一面が青に染まった空間、海乃に続いて青司も顔を上げれば、大きな影が2人の上を横切った。
体をくねらせ、尾鰭でぐんぐんと水をかき、力強く旋回するイルカたち。
吹き抜け構造になっている水槽の天井から太陽の光が差し込んで、時折イルカのつるりとした体の表面に反射した。
その姿形に、海乃は人魚姫を思い出す。
王子様に会うことと引き換えに、人魚姫が切り捨てた世界がどんなところだったのか海乃は確かめたかったのだ。
色々なことがあった。
色々な人の知られざる一面を知ることができた。でも____
海乃はアクリルガラスに映る青司の顔をちらりと見る。
あの日、終演後に会った青司に対するほんの少しの違和感。
それだけじゃない、今までも感じていた小さな引っ掛かりは海乃の心の底に降り積もっていた。
海乃は、たくさんの人と出会って変わることができたし、前よりも今の自分の方が好きだと自信を持って言える。
だけど、そうやって過ごしてきた日々の中で、切り捨ててしまった何かがもしかしたらあるのではないかと。
その正体を確認してしまったら、もう元に戻れなくなってしまうような、そんな気がして海乃はずっと何もできずにいた。
ショルダーバッグの肩紐をギュッと海乃は握りしめる。
すると、円形の水槽をふちに沿って回っていたイルカの1匹がゆっくりとスピードを緩め、2人の前で止まった。
突然のことに海乃も青司も呆気に取られて、目の前のイルカを見つめる。
イルカは噴気孔を見せつけるように、頭をこちらに向けるとそのままじっとした。
何をしているかは分からない。
でも、神秘的なその光景に普通ではないことが起こっている予感がして、海乃たちは息を潜める。
突如、響いてきた聞いたことがない音。
ジジジというような、ぶつぶつと切れる低い音が連続してイルカから発せられている。
海乃と青司は同時に、そっとガラスに触れた。
震えはあまり伝わってこないが、それでもさっきよりも音が体に響く感じがして、海乃は不思議な心地になっていく。
やがて、音を出すのをやめたイルカは、また水槽の中を周回し始める。
海乃と青司はしばらくその場から動けずに、ただ光の中を飛んでいくイルカを見上げていた。
夕暮れに染まった駐車場に停められた車に乗り込み、海乃は深く腰掛けた。
膝の上には、店のみんなへのお土産が乗っかっている。
箱の表面を手で撫でながら、海乃はあのイルカのことを考えていた。
あれは、イルカの声だったのだろうか。
何をしようとしていたのだろう、何を確かめようとしていたのだろう。
ぼーっとしている海乃の隣で、青司が運転席に乗り込んでくる。
そのままエンジンをかけるかと思われたが、青司はズボンのポケットに手を入れると、取り出したそれを海乃に差し出した。
「海乃、ほら」
驚いて海乃がそちらを見る。
青司の手からぶら下がっている、夕焼けにきらりと光ったイルカのキーホルダー。
それは、先ほどまでいた売店で海乃が見ていたものだった。
薄水色の透明なそれに、イルカとの不思議な体験が思い起こされて思わず足が止まってしまったのだ。
しかし、どうした?と聞いてきてくれた青司に対して、海乃は何でもないと首を横に振った。
こういった場所に売られているキーホルダーは高い。
ただでさえ、普段から金銭面的にも面倒を見てもらっている青司にこれ以上負担をかけたくなかった。
「何で……」
「俺があげたかっただけだよ」
青司は優しく微笑んで海乃を見つめると、そっと海乃の手のひらにキーホルダーを握らせた。
海乃はちょこんと手の内に収まったキーホルダーをじっと見つめる。
青司はすごい、まるで魔法使いのように海乃の心のうちを見透かしてしまう。
海乃には分からなかったイルカの言葉、あの子が何を思っていたのか青司には届いていたのだろうか。
海乃はキーホルダーを胸に抱いて、青司に向かって笑いかける。
「ありがとう……本当はね、これ欲しかったの」
「……そうか」
青司はそれだけ言ってエンジンをかける。
ハンドルを握る直前、小さな声が海乃の耳に届いた。
「それなら、よかった」
赤く照らされるコンクリートの道を車がゆっくりと発進して行く。
車体の振動に合わせて指で摘んだキーホルダーがゆらゆらと揺れ、その度に反射して光を透かしていた。




