第27話 人魚姫
幕に入り観客から完全に姿が見えなくなる位置まで来たと同時に、海乃は止めていた息を吐き出した。
集中し過ぎたせいか海乃の舞台上での振る舞いは、ほぼ素の自分に近い。
さっきも無意識に春樹に駆け寄ってしまったが、大丈夫だっただろうか。
いざ自分がしてしまった行動を振り返ると、おおよそ演技とは言えないそれに頭を抱えたくなってしまう。
でも、今は反省している場合ではない。
ありのままでいいと言ってくれた紡を信じて最後までやり切るしかないのだ。
それに____
階段の上、一番高いところから見渡した観客席を思い返す。
結局見つけることはできなかったが、あの中にみんながいる。
お母さんがいる____
海乃は見守ってくれる誰かがいることが、こんなに自分を強くしてくれるなんて知らなかった。
青司がいる。それだけで、心が奮い立つ気がした。
最初は怯んでいたとはいえ、奇しくもマリーと同じように舞台に立つことになったのだ。
衣装だけではなくて、海乃も自分自身の姿で今度は青司に返したいと思った。
自分がどれだけたくさんのものをもらってきたのかということを____
頰に手を添え前を向いた海乃は、よしっとつぶやく。
胸の前で拳を小さく握りしめ、気合いを入れた。
「海乃」
「っふがぁ!」
不意打ちの声に、海乃の鼻が大きく鳴る。
ぎこちなく振り返ると、春樹が神妙な面持ちで立っていた。
「……どうかしたの?」
その表情にどこか違和感を覚えた海乃が聞き返すも、春樹はじっと海乃を見つめているままだ。
やがて、ふっと肩の力を抜いた春樹がいつものように明るい笑顔を見せる。
「何でもない、さっきはありがとうな!」
「う、ううん…私こそ合わせてもらってごめんね」
いいって、と手を振る春樹の向こうから町民や侍女役の生徒の声が聞こえてくる。
いよいよ次は人魚姫のドレスのお披露目だ。
春樹はマントを脱ぎ、ドレスの裾を下ろすと髪をほどいた。
一気に美しく変身した春樹の姿に、海乃も思わず息をもらす。
腕についているヴェールを流しながら、身なりを確認する春樹の姿は本当に人魚のようだった。
体にぴったり沿いながらもふんわりと広がるシルエット、春樹の肌によく映える白と青のコントラスト。
このドレスは間違いなく、春樹のために作ったものだ。
「うし、一条も心配してるだろうし頑張んねぇとな!いこーぜ、王子様」
こちらを向いた春樹に、上の空になっていた海乃はびくりと体を震わす。
慌てて海乃が下を向くと、春樹の大きな左手が差し出されていた。
一呼吸置いた海乃はその手を優しく、けれどもしっかりと握り返す。
並んだ2人の背中が階段へ続く暗がりの方へと向かっていった。
ステージには、大勢の人が行き交っている。
人数も合間って、まるで本当の城下町のようだ。
「あの怪しいやつ、なかなかいいパンチだったな……見直したぜ」
「泳ぎもうまいんだよ!俺、今度教えてもらうんだ!」
釣竿を肩にかけた町民たちが横切る反対では、かごを下げた侍女たちが噂話をしていた。
「王子様、今日も熱心にあの子に文字の読み書きを教えてあげてたのよ」
「歩くのもやっとだったのに、今ではあんなに走り回って……王子様の努力の賜物ね!」
1人、また1人とはけていき舞台上が落ち着きを取り戻せば、そこはもう屋敷の中だ。
海乃は春樹をエスコートしながらゆっくりと階段上に姿を現した。
海乃に手を取られた春樹も、後に続いて姿を表す。
海をそのまま纏ったようなドレスに、風に波打つヴェール。
自由になった長い髪が、春樹が動くのに合わせて水中にいるように揺れる。
照明の光の下、照らし出された人魚姫の姿。
観客はその姿を口を開けて凝視していた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、体育館中に響き渡ったのは観客の笑い声だった。
「あははははははっ!やばっ!うけるんだけど!!」
「似合わねぇ〜、きついって!罰ゲーム!?」
「きもっ!本当にきもい〜!!」
予想とは違うリアクションに海乃は困惑して固まる。
なぜ、みんな笑っているのだろうか。春樹の姿は、このドレスはそんなにおかしいのだろうか。
海乃は理解できない状況に、ふつふつと沸き起こるやるせなさに、我知らず唇を噛んだ。
立ち尽くす海乃の隣で、春樹の体がくらりと傾いた。
繋いだままの左手に海乃は、はっと気づく。
そうだ、今一番苦しいのは渦中にいる春樹だ。
自分がなんとかしなければ____
勢いよく海乃は春樹を見上げる。
しかし、その表情に大きく目を見張った。
悲しそうにしてると思った。怒っていると思った。……泣いているんじゃないかと思った。
でも、そのどれも違った。
春樹は明るい照明の中で、笑いの渦の真ん中で____
いつもの明るい笑顔で、笑っていた。
海乃は春樹の頰に手を伸ばす。
そのまま、ぐいっと引き寄せ自分に向き合わせた。
「きれいだよ」
叫びではない、観客に向かっての抗議でも非難でもない。
だけど春樹に、人魚姫ただ1人に向けられた言葉に観客から笑いが消える。
水を打ったように静まりかえった体育館の中、海乃は春樹だけを瞳に映してもう一度伝えた。
「あなたは、きれいだよ」
春樹の驚いた顔が、海乃の目の前いっぱいに広がる。
しかし、その顔はぼんやりと霞んでいき、海乃の意識はどこか遠くへ向かっていた。
体育館でもない、学校でもない、家でもない。
どこか遠く遠く、知っているようで知らない場所。
埃っぽい畳の香り、燃えるような夕焼け、遠くから聞こえるひぐらしの鳴き声。
目の前で震えている、赤い唇の小さな誰か____
そのとき、体育館の奥から一筋の光が伸びた。
見つめる海乃の視線の先で、誰かが扉の外に出ていく。
逆光で輪郭が曖昧な後ろ姿からは、それが誰だか判別できない。
でも、海乃はその人を行かせてはならない気がした。
どうしようもない焦り、焦燥感。
込み上がる感情のまま、海乃の足が一歩階段を降りる。
駆け出そうと膝を曲げ、足に力を込めたその瞬間、海乃は自分に突き刺さる大勢の目線に気づいた。
ぴくりとも動かない観客に、止まった舞台。
いつの間に出てきてくれたのだろう。
階段下の脇から、紡が青ざめた顔でこちらを見上げていた。
「……っ」
何も思いつかない。
どうしよう、自分が全部めちゃくちゃにしてしまった。
背中を冷や汗が伝っていく。
海乃は頭が真っ白になって指先一つ動かすことができなかった。
もうだめだ________
俯きかけたそのとき、大きな手が海乃の肩を力強く引き寄せる。
胸の中から顔を上げれば、春樹が優しくこちらを見つめていた。
春樹は高く腕を上げ、びしりと観客席を指差す。
「がっはははは!聞いたかおまえらぁ!!」
「王子様はこの俺がきれいなんだと!やっぱ見る目があるぜぇー!」
腰に手を当て高笑いした春樹が、軽々と海乃を横抱きにする。
海乃が小さく悲鳴をあげたのも束の間、階段から飛び降りた。
ばさっと尾鰭のように広がるヴェール。
舞台袖からか、観客席からか、はたまたその両方からか驚きの声が上がった。
スローモーションみたいに周りの動きがゆっくりに見え、舞っていたヴェールが重力に従い落ちると、その向こうから2人が姿を現した。
王子を抱きかかえたまま、しゃがみ込む人魚姫。
ちぐはぐながらも美しいその光景に観客は息を呑んだ。
春樹はにっと海乃に笑いかけ、おでこをこつんと付き合わせる。
「なぁ、このまま町へ行こうぜ!みんなに見せびらかしてやるんだ!!」
立ち上がった春樹は海乃を抱えて颯爽と舞台袖へと走り出す。
「よっしゃぁ!突撃ぃぃぃぃぃ!!!」
様子を見守っていた紡が口の横に手を添えて声を張り上げた。
「お、お二人ともぉ〜!お夕飯までには帰ってきてくださいねぇ〜!」
紡のセリフをきっかけに、観客から大きな拍手と歓声が巻き起こる。
いつのまにか客席は、最初以上の盛り上がりと熱気を取り戻していた。
薄明かりの中、春樹が丁寧に海乃を降す。
雨音のようにぼんやりと響く拍手がステージ袖からも聞こえていた。
海乃は下を向いたまま、頭を下げる。
「……ごめんなさい」
自分の身勝手で舞台を壊してしまうところだった。
ぎゅっと目をつぶった海乃が叱責を覚悟するも春樹からの言葉はない。
かわって頭に温もりを感じた。
目を開けた海乃の頭を春樹が優しく、だけど少し乱暴になでる。
ちらりと見上げた、春樹は笑っていた。
いつもの明るい笑顔ではなく、どこか嬉しそうな柔らかい微笑み。
それを見て、ようやく海乃はほっと息をつく。
乱れた髪もそのままに、海乃もへらりと笑い返した。




