第26話 開幕
真っ暗闇の中、コポコポという水音が遠くから聞こえる。
先ほどまで蒸し暑かった体育館は途端に海の世界へと変わり、空気が流れる水のように肌をなでた。
突然、その静寂を破る大きな声がスピーカーから響き渡る。
「なぁ、ばあちゃん!人間になれる薬くれ!!」
「何を言ってるんだい!馬鹿な真似はおよし!!」
「俺は人間になって王子様と結婚するんだぁ!!!」
絶叫と共にザパァーン!と波の音がする。
パッと明るくなったステージ上には、薄汚れたマントを羽織った春樹が立っていた。
青空と城が描かれた背景に、豪華な階段のセット。
長髪を一つに束ねてあるかつらを被った春樹は、階段にもたれかかり足をプルプルと震わせている。
「はぁ〜、これが陸の世界!身体おっも!!日差し眩しっ!!」
階段から手を離し一歩、また一歩と足を前に出した。
マントからちらりと素足がのぞいている。
「でも諦めないぜぇ、俺は。絶対、王子様に会ってやる」
「そしてゆくゆくは、あんなことやこんなことも……ふへへっ」
もじもじと体をくねらせた春樹が客席をくるりと振り返る。
「なぁ〜んちゃってねぇ〜!!!」
緩み切った顔を晒す春樹のどこか間抜けな声が体育館の奥までこだました。
ぽかんとした観客の空気が、辺りを包み込む。
春樹があれ?と固まっていると、町民が舞台の袖からわらわらと出てきた。
「こいつだ、こいつ!さっきから1人でぺらぺらと……怪しいやつめ!」
手に持った棒を春樹に向けながら、1人が声を張り上る。
春樹はむっとした表情で、相手を睨み返した。
「怪しいとは失礼だな!そんなんじゃねぇよ!」
「じゃあ誰なんだよ!?」
「誰って……」
別の町民の問いかけに、ため息をついた春樹が髪を肩から流す。
片手は頭の後ろに、もう片方は腰に当て、春樹はウィンクを飛ばした。
「姫に決まってるだろ♡」
「お客様ぁ!お客様の中に、お医者様はいらっしゃいませんかぁぁぁ!?できたら頭の!!!!」
町民の全力の呼びかけに、会場からどっと笑いが湧く。
一気に盛り上がった客席をよそに、舞台上では春樹が町民に詰め寄っていた。
「んだと、馬鹿にしてんのかコラァ!?」
「おまえこそ何言ってんだコラァ!?病院の前に檻ん中連れてくぞ!?」
「おうよ、やれるものならやってみなぁ!!」
取っ組み合い寸前の春樹と町民を止めようと、周りの町民たちも大混乱だ。
観客たちの笑い声が大きくなるとともに、春樹と町民の言い争いもどんどんヒートアップしていく。
「俺に喧嘩売ったこと、後悔させてやるよ……姫舐めんなぁ!」
「おまえこそ、庶民の底力見せつけてやる!」
「あの!2人とも落ち着いて……」
「おまえは黙ってろ!」 「てめぇは黙ってろ!」
「仲良しぃ!?」
わーきゃーお祭り騒ぎの舞台に観客は息も絶え絶えだ。
もはや誰にも止められない。
盛り上がりがピークに達したその瞬間、透明な声が空間を揺らした。
「いったい、何の騒ぎだ?」
発せられた言葉に、春樹たちが、観客が動きを止める。
全員の視線がその声に吸い寄せられるように一点へと導かれた。
コツリ、コツリ、コツリ……
鳴らす靴音が、静まりかえった空気に波紋のように広がっていく。
一滴の雫が落ちてきたように、暗闇から現れた背の高い少女。
髪を結んだリボンが風に揺れ、伏せられた瞳がゆっくりと瞬き光を反射する。
階段の上から、海乃はふっと観客席を見回した。
こちらを見ているようで、見ていない。
何かを探すような切望の眼差しに、観客の1人が思わず口元を手で押さえた。
吐息が漏れ出てしまうのさえ憚れるほどの緊張感。
それは、恐怖からくるものではない。
美しく、壊れやすいものを目の前にしたときの特有の張り詰めた空気。
何かの拍子に、淡く溶けてしまいそうで、はじけて消えてしまいそうで、だからだろうか、目が離せない。
誰もが固唾を飲んでその挙動を見守っていた。
海乃の視線が静かに舞台上に戻る。
その瞳がとうとう、たった1人を捉えた。
「お、王子様……」
ポツリとつぶやかれたセリフは、もはや誰が発したものかも分からない。
町民たちは無意識に、海乃が通るための道を開いた。
階段から降りてきた海乃は、まるでその人より他は誰も見えていないとでもいうように、迷いなく歩いていく。
やがて静かにその瞳が人魚姫を、春樹の姿を捉える。
真正面に立った海乃から春樹は目を逸らせないでいた。
今まで経験したことのない、不思議な感覚。
海乃は今、王子を演じているはずだ。
現に、春樹はこれまでの稽古で日鞠を通して、王子の姿を見てきた。
だけど、海乃は違う。王子には見えない。
なのに、王子を通して海乃を見ているような。
王子と海乃の境目が、寄せては返す波のように曖昧になって分からなくなる。
春樹はただ、じっとその瞳を見つめ続けていた。
「……どうやら大変な目にあったようだ」
春樹の格好を確認した海乃はぽつりと呟く。
小さく囁かれたはずのセリフなのに、不思議とちゃんと聞き取れた。
春樹は己のみすぼらしい出立ちを確認して、とっさに後ずさる。
役でやっているはずなのに、海乃にこんな姿を見られたくないと思った。
「それなら私の屋敷にきなさい」
くるりと振り返った海乃が侍女たちを見る。
ばちりとぶつかった視線に、紡は小さく肩を震わせた。
「馬車をここへ、この子を案内するんだ」
「私は先に馬で向かう」
海乃の言葉に紡を含めて侍女たちは、無意識に背筋を伸ばす。
「はっ、はい!!」
がばりと勢いよく頭を下げる侍女たち。
通り過ぎていく海乃を紡はちらりと覗き見た。
おかしい、さっきまでの海乃とは何も変わってはないはずだ。
脚本家兼演出家として紡はこの舞台を、特に王子役である日鞠と話し合いながら、少しずつ組み立てて行った。
日鞠は立っているだけで周りの目を奪う、生まれながらに華があるのだろう。
光を受けて輝く宝石のように、その存在は他を圧倒し、誰も彼もを魅了していた。
でも_______________
「あっ、あのっ……うわっ!」
海乃の後を追おうとして、春樹の体がぐらりと傾く。
気付いた海乃は即座に春樹の元へと駆け寄った。
重なり合う2人の影がぶつかる音を最後に、しんとした静寂が会場全体を包み込む。
抱き止められた腕の中で春樹は動かずにじっとしていたが、やがて我に返り体を離した。
「ご、ごめん俺……」
下を向いた春樹の顔に手を添え、海乃は春樹をじっと見つめる。
次の瞬間、ふわりと海乃が微笑んだ。
紡だけではない、春樹も、クラスメイトも、観客も。
安心させるように曲線を描く、慈愛に満ちた瞳に。
ほんのりと上げられた口角に、心を奪われる。
海乃と春樹は真っ直ぐに見つめ合っていた。
「……焦らなくていい」
目を伏せた海乃は、春樹の手を優しく包み込む。
大丈夫だよと言うように、柔らかく握られた手のひら。
春樹が落ち着いたことを確認すると海乃は顔を上げ、もう一度しっかりと見つめ返した。
「気をつけてきなさい」
前を通り過ぎ、はけていく海乃の後ろ姿を、紡は呆然と見送る。
________海乃ちゃんは、星だ。
光を飲み込みその内側で生命を燃やす夜明けの星。
空を見上げれば確かにそこにある、遥か遠くから放たれる優しい光。
脚本通りじゃない、稽古通りじゃない、想定通りじゃない。
だけど、目が離せない。
異様な雰囲気を残したまま立ち去った王子様。
でも確かな熱気に浮かされた観客は、その影の先をまだ追っている。
紡はひそやかに熱くなった息を吐いた。




