第21話 衣装
裁縫道具や布が入っている手提げを肩に下げ、海乃は渡り廊下を歩っていた。
これから被服室で、春樹の採寸をしなければならない。
デザインどころか使う生地だって決められてないのに、果たしてやる意味はあるのだろうか。
ここ最近、毎日ついているため息をつく。海乃の足取りはとても重かった。
前方から、ぱたぱたと首にメジャーをかけた女子生徒が走ってくる。
海乃と目が合うと、女子生徒は片手をあげた。
「小舟さん!ちょうどいいところに……一条さん見かけなかった?」
「ううん、どうしたの?」
首を振る海乃に女子生徒は頭を抱える。
「衣装を少し手直ししたから、着てみてもらいたくて……選ばれたからには完璧なものを作りたい!!」
正確には選ばれたわけではないのでは、と思いつつも海乃はその言葉を飲み込んだ。
「わかった、見かけたら声をかけるよ」
女子生徒は、ぱっと顔を輝かせる。
「ありがとう!小舟さんも何かあったら言ってね、相談乗るから!!」
言うが早いが走り出した女子生徒に、海乃は小さく手を振った。
ふと見上げた空は、灰色の雲に覆われ始めている。
湿った土や草のような匂いが、一瞬、海乃の鼻先を掠める。
もうすぐ雨が降りそうだ。
西校舎はどこも薄暗かった。
主要な教室は全て東校舎に集中しているため、ここはいつも人気が少ない。
海乃も1年生の頃はよくここに来て本を読んでいたが、2年生になってから西校舎に私用で訪れることはなくなっていた。
湿った生温かい風が海乃の髪を揺らす。
よく見ると、廊下に並ぶ窓の一つが開けっ放しのままになっていた。
この時期は急な雨が降ることもおかしくない。
特に、あまり人が通らない西校舎は窓を閉めておく決まりになっていたはずだ。
誰か閉め忘れてしまったのだろうか。
窓際へと歩み寄り、海乃が閉めようと手を伸ばしたとき、黒い後頭部が目に入った。
驚きに声もなく体を震わせ、海乃は静かに息を呑む。
窓の外、壁に寄りかかるように座っていたのは日鞠だった。
微動だにせず顔を伏せている日鞠の表情は、海乃からは見えない。
だが、その様子に少し違和感を覚えた。
日鞠の手足は、糸の切れた人形のようにだらんと垂れ下がり、体の力も抜けている。
何て声をかけようか?
考えるよりも先に、海乃は無意識に声を出していた。
「……あの」
瞬間、ばっと勢いよく日鞠が顔を上げる。
突然の日鞠の動きにびっくりした海乃もそのまま固まってしまい、しばらく2人で見つめあっていた。
「……何?」
訝しげに目を細め日鞠は海乃を睨む。
海乃は跳ねた心臓を落ち着かせるように一拍おいてから、ゆっくりと口を開いた。
「……雨、降りそうだから」
「それから、呼ばれてたよ。衣装合わせたいって……」
日鞠は海乃を硬い視線で見つめていたが、黙って立ち上がると東校舎へと歩き出した。
その背中をじっと見つめて、海乃は窓に手を伸ばす。
——————ごほっ
窓を閉め切る直前、聞こえた重い咳の音に海乃は思わず日鞠の方を見る。
しかし、そこにはすでに日鞠の姿はなく、強くなってきた風に吹かれる木がさわさわと揺れているだけだった。
被服室に海乃が入ると、窓の外を見つめていた春樹が振り返った。
「遅くなってごめんなさい」
「いや、俺も今来たところだから気にすんなって!」
嘘だ、海乃は瞬時に思った。
日鞠とのこともあり遅れてしまったのだから、本当に今来たのなら間違いなくすれ違っていたはずだ。
だけど、海乃は春樹の優しさに甘え微笑む。
春樹の顔は仄暗い教室の中で、少し赤く染まったように見えた。
「っよし!じゃあ、始めようぜ」
頷いた海乃は作業机の上に道具を並べていく、いつの間にか、外ではぽつりぽつりと雨が降り始めていた。
「……あの、無理なら大丈夫なんだけど」
「ん?」
海乃はメジャーを片手に春樹を見つめた。
「服、脱いでもらってもいい?」
「はぁ!?」
飛び退いた春樹が、胸を隠すように両腕をクロスさせる。
口をぱくぱくと開閉させながら、海乃を凝視した。
「な、ななな、なな、何で……」
「何でって……ちゃんと測らないと駄目だから……」
海乃は、春樹に見せつけるようにメジャーを引き延ばした。
へ?と、固まった春樹の顔から、ぽんっという爆発音とともに湯気が出る。
その顔は、先ほどまでと打って変わって明らかに赤くなっていた。
「あぁ!!うん平気、大丈夫!!」
「本当?難しいなら別に……」
「いいから、大丈夫だって!」
大声を上げた春樹が、ぷちぷちとシャツのボタンを外していく。
最初はじっと見つめていた海乃だったが、黙って服を脱ぐ春樹のいつもと違う雰囲気に、何となく目を逸らした。
強くなってきた雨が、窓を叩いて跳ね返る。
拍手にも似た雨音が、静かな教室の中に響いていた。
海乃は肌着の上から、春樹の採寸を進めていく。
腕上げて、という海乃の言葉に春樹は両腕を横に挙げて応えた。
雨音のほかには、メジャーを引き出す音と、衣擦れしか聞こえない。
背後から腕を回す海乃に、春樹はおもむろに声をかける。
「海乃はさ、何で俺のドレス作りたいって言ったの?」
「え?」
思わず採寸の手を止めた海乃に、春樹が向き直る。
外から漏れるわずかな光が、春樹の横顔を照らしていた。
「いや……その理由に、ほんの少しでも俺がいたらいいなって思ったからさ」
春樹のまっすぐな瞳に、海乃は思わず下を向いてしまう。
それはそうだ。
人魚姫の衣装を作っているはずなのに、脳裏に思い描くドレスを着ているのは、いつだって春樹ではなくマリーだった。
作り手として着る人を蔑ろにしてしまっている事実が、海乃の心を責め立てる。
海乃は思わず、唇をギュッと噛み締めた。
そんな海乃を見て何を思ったのか、春樹は急に海乃の肩を掴んだ。
あまりの強さに、弾かれるように海乃は顔を上げる。
春樹は海乃をじっと見つめると、目を細めてにかっと笑った。
「俺、頑張るから!だから……」
「だから舞台、楽しみにしてくれよな」
力強い春樹の声に、海乃は目を見開く。
こういう春樹の優しさが、海乃にとってはとても眩しい。
「……うん、応援してるね」
目を伏せしっかり春樹を見た海乃は、今度こそ笑顔で答えた。
へへっと、満足そうに鼻をかいた春樹の視線がゆっくりと海乃の肩へと向かう。
思わず触れてしまっていた事実に気付いたのか、凄まじい速さでその手を離した。
「い、いやぁー、でも本当に頑張らないと」
あせあせと体を忙しなく動かしながら、春樹はそっぽを見る。
「文化祭のこと、母さんたちに話したら絶対行くって聞かなくて……本当、まいっちゃうよなぁ〜!」
「海乃は誰か……」
そこまで言った春樹の顔から笑みが消える。はっとして口を抑え、恐る恐る海乃を見た。
「ご、ごめん俺、そんなつもりじゃ……」
「来るよ」
海乃の呟きに、春樹は目を丸くする。
目線を逸らした海乃は、恥ずかしそうにもじもじと指先を動かし、改めて春樹を見上げた。
「お母さん……文化祭、見にきてくれるって……」
「お母さんのお友達も……」
照れくさそうにはにかむ海乃を、春樹は真剣な眼差しで見つめる。
「……そっか」
やがて、顔の力を緩めた春樹が拳を握った。
「なら、尚更頑張らないとな!!絶対成功させようぜ」
「うん、頑張ろう」
海乃と春樹の宣言が教室内で反響する。
雨はそんな2人を讃えるかのように、ずっと降り続けていた。




