第1話 とても寒い日
小舟海乃は交番にいた。
比較的落ち着いた様子で何やらメモを確認している女性警察官と、その横で居心地が悪そうに、ちらちらと海乃を見る新米警察官の視線を感じ取りながらも海乃は表情一つ変えることなく足元を見つめていた。
現在、2月中旬の深夜2時、真冬に素足で高校指定のローファーを履いてきた海乃の足先は冷え切っていた。
履き始めて1年近くたつというのに、未だにかかとの硬いローファーが皮膚に食い込んで血が滲みだす。それでも海乃はピクリとも動かなかった。
なぜこんなところにいるのかと問われれば、話は1時間ほど前までさかのぼる。
家で独り、コンビニで買ったゼリーを食べるでもなくスプーンでいじくりながら、時計の針が刻まれる音に耳を澄ましていた。
すると、その静寂を破るかのように電話のコール音が鳴り響いたのだ。電話を取ると、初めに聞こえたのは聞いたことのない硬い声。
「小舟海乃さんですね?」という確認の言葉に義務的にうなずけば次に聞こえてきた言葉は、少なからず海乃を動揺させた。
「落ち着いて聞いてください、お母さまが亡くなりました」
飲酒運転での交通事故だったらしい、カーブを曲がり切れずガードレールに激突。
道は車どおりがまばらだったこともあり、被害は最小で済んだが、発見が遅れた結果、母は亡くなった。
しかし、海乃は微かに瞳を揺らしただけだった。いつかこうなるんじゃないかとうすうす予感はしていたから。
海乃の母親、澪は自由奔放な女だった。夜な夜な恋人と出かけては、明け方になって酩酊した状態で帰ってくる。運悪く鉢合わせると、今日のデートはこうだったああだったと永遠に聞かされるため、海乃はいつも、母が眠ったのを確認してから部屋を出ていた。
めちゃくちゃな人だった、しかし娘の海乃が言うのもなんだが、愛嬌のあるかわいらしい女性だった。そんな母が死んだ。
海乃より困ったのは警察だ。
無意味に時間だけが過ぎる中、何度も女性警察官が電話をかけ、切り、もう一度かけるを繰り返す。その数が十を超えたとき、電話口の向こうで「はい」という声が響いた。
とうとうつながった一本に、女性警察官も声を少し上ずらせながら応答した。
「夜分遅くに申し訳ありません、私は…」
そんな女性警察官から目を離すと、海乃は窓の外を見つめる。いつの間にか降ってきた雪は、綿のようにコンクリートの道路を薄く覆っていった。
「はい、ありがとうございます。お待ちしております」
丁寧に受話器を置いた女性警察官がふーっと息を吐くと、海乃に優しく目を向けて話しかける。
「さっき、君の叔父さんにあたる人と連絡がついたんだ。数日間預かってもらえるそうだから、今日はその人のところに行こうか」
自分の親戚にあたる人なんているのだろうか。そもそもいたとしてこんな面倒ごとを引き受けてくれるような人はいただろうか。
海乃は母親から、親に勘当され高校卒業前に実家を飛び出したのだと聞いていた。
まぁ、「数日間」という期限付きだ。
相手も運悪く、厄介払いされた海乃を引き受けてしまっただけに違いない。海乃は肩からずり落ちた薄いカーディガンを引き上げ、再度窓の外へ目をやった。
少しすると、雪景色の中、一台の車が近づいてくるのがぼんやりとかすんで見えてきた。ヘッドライトが明るくなるにつれて大きくなる車体の影はやがて交番の横に着くと、その中からばたばたと一人の人が降りてくる。
「遅くなってすみません」
低く通る声が、小さな交番に響き渡る。思わず見上げた海乃の前には頭に少し雪をつけた男の人が立っていた。
背が高いせいか、一気に人がいっぱいになったように感じる。広い肩幅も相成って黒のロングコートがよく映えていた。
女性受けの良さそうな緩やかなカーブを描く瞳に太い眉。通った鼻筋と輪郭は硬い印象を与えるが、耳に薄くかかる横髪のおかげで幾分か丸みを帯びているようにも見え、近寄りがたさを消していた。
頬を染めた新米警察官が目を奪われたかのようにその男性を凝視する。女性警察官はそのわき腹を軽く小突くと、あらためて男性に向き合った。
「いえいえ、わざわざありがとうございます。寺山青司さんですね?」
「ああ、そうです」
男性、もとい青司はそう答えると、椅子に座ったままの海乃に目を向ける。
海乃は黙ってその瞳を見つめ返した。
青司が静かに海乃の前にしゃがんだ瞬間、頭に乗っていた雪が落ちて溶けた。その一瞬、わずかな一瞬だが男の息が小さく震えて吐き出された音を海乃は確かに聞いた。
詰めていたものを吐き出すような、緊張を落ち着かせようとする息の音色に似たものを聞いて、海乃はあらためて男の姿をじっと見つめなおす。
しかし、いざ顔を上げた男の顔には、先ほど感じたような動揺の色はない。人好きのしそうな微笑みが浮かんでいるだけだった。
「久しぶり、覚えてるか?……海ちゃん。青司だ、君の叔父さんだよ」
少しの違和感だが目の前の男、青司の様子に引っ掛かった海乃は見つめ返すだけで返事はしなかった。
それに、青司のことは覚えていなかったし、仮に覚えていたとしてもどう返すのが正解か分からなかったから。
青司は眉を下げて笑うと、立ち上がって新米警察官が手に持っていた海乃の私物が入ったバッグを受け取った。
家に一人でいさせるわけにはいかないからと、準備をさせられたものだった。
「ありがとう。それでは、遅くまで失礼いたしました」
「いえいえ、とんでもないっす!お気を付けて!」
お辞儀をしながら、海乃に立ち上がるよう促すと青司は海乃の荷物を抱えたまま車の方へと戻っていった。
海乃は女性警察官とまだ夢見心地な新米警察官に軽く会釈をして、青司の後を追う。
「どうぞ、海ちゃん」
荷物を後部座席に放り込むと、青司は助手席の扉を開け海乃に呼び掛ける。
海乃は車へと向かっていった足を少し止め、空を見上げた。
灰色の薄い雲は空全体を覆いつくしており、まだ夜空は見えそうにない。
上を向いたまま、海乃は開かれたドアの方へと歩みを進めていく。歩くたび、積もった雪がサクサクと音を立てて潰れていった。




