第16話 クッキーの動物園
海乃は放課後の教室で黒板を消していた。窓の鍵を確認し、学級日誌に今日の出来事を書き記す。
日直当番の相手が休んでしまったため、全ての作業を海乃のみでやらなければいけない。
いつの間にか、太陽は地平線に近づいており、沈む直前の最後の輝きを放っていた。
日誌を書き終えた海乃は机の上に置いてあったお菓子の箱に目を落とす。
動物のクッキーが入った箱の表面には、ゆるいタッチのイラストで笑顔の動物たちがひしめき合うように描かれている。
青司が小腹が空いたときのためにと渡してくれたものだが、中身は減ったどころか開けられてさえしていない。
何かと疲れる学校生活、空腹を感じていないこともないが、1人で食べる気は今の海乃には起きなかった。
日誌を胸に、教室をぐるりと一周見まわす。
夕暮れ時の一番明るい日差しが窓から差し込んだそのとき、教室後部に並べられたロッカー。
その間に、1冊のノートが挟まっていることに海乃は気付いた。
細い隙間に指は入りそうにない。海乃は筆箱から定規を持ってくると、ノートを傷つけないように優しく引き出していった。
やっとのことで取り出したそれは、埃で少し汚れてしまっていた。海乃は丁寧に誇りを払いながら、表、裏と確認する。
名前もクラスも書いてない、何の変哲もないただのノート。海乃は何気なくその表紙を開いた。
ぺらぺらとページをめくる海乃の目がだんだんと見ひらかれていく。ロッカーの傍らに座り込んだまま、海乃は夢中でノートを読んでいた。
そこに書かれていたのは授業のメモでも数式でもない、物語だった。人間に片思いした蝶が人へと姿を変え、思い人に会いに行く優しくも切ない恋物語。
ぺらり……ぺらり……
海乃のノートをめくる音だけが、静かな教室の中で響く。
海乃が最後の1行を読み終えた瞬間、大きな音を立ててドアが開いた。
後頭部で結ばれた髪を乱れさせ、肩で息をしながら立っていたのは、同じクラスメイトであり以前廊下でぶつかった紡だった。
紡は、はぁはぁと息を整え海乃を見つめていた。ずれた眼鏡をかけ直すと、その視線がゆっくりと海乃の手元へと向かっていく。
「あ、あぁ……あぁ!!」
震える手で指さしながら紡は海乃へと歩み寄った。少し汚れたスカートから伸びる足は小さく震えているようにも見える。
「よ、よんっ読んで……」
口を開いた紡を遮るように、先に言葉をかけたのは意外にも海乃の方だった。
「面白い」
「へっ?」
せっかく直した紡の眼鏡がまた鼻からずり落ちる。海乃はしゃがんだまま紡をまっすぐに見つめた。
「これ、すごく面白い。椋木さんが書いたの?」
「へっ、あ、えっと、はい……僭越ながら……」
海乃はノートを見返しながら、いつもより高い声で続ける。
「蝶が星の観測者と恋に落ちるっていう設定が童話的なのに、細部の表現が細かいから話としてはずっしりしたものを感じる落差がいい」
「それにここ、観測者が天秤で星を量る場面。天秤の傾きで蝶は人間でいられなくなる時間を確認するから、嬉しそうに星を調べる観測者を見つめるシーンがすごく意味のあるものになってて……」
そこまで言って海乃は、ぴしりと固まる。
気まずそうに本を閉じて立ち上がふと、呆然と海乃を見上げる紡にノートを差し出した。
「ごめんなさい、勝手に読んで」
それじゃあと、背を向けた海乃の手を紡が力強くつかんだ。
「待って!!!」
驚いて振り返った海乃の目に、顔をまっ赤にした紡の顔が飛び込んでくる。その赤さは夕焼けのせいだけではないような気がした。
「わたっ、わた……私、ずっと」
紡は震える声を落ち着かせるようにごくりとつばを飲み込むと、あらためて海乃を見つめた。
「ずっと、小舟さんに憧れてて!!」
「えっ……」
動揺する海乃にかまうことなく、紡は早口にまくしたてる。頭で思いつく言葉が、抑えていた気持ちが溢れて止まらない。紡のしゃべりからはそんな熱意を感じた。
「大人っぽいし、美人だし、いつも静かで、儚くて繊細で……まるで、ガラスの動物園のローラみたいで!」
「違う世界の人みたいって思ってた。でも……」
紡は目線を下げ、ぐっと唇を嚙む。そのしぐさは勇気を出せと己を鼓舞しているようだ。
「自己紹介の時の小舟さん、すごくかっこよかったから」
その言葉に海乃は目を瞠る。紡のきらきらとした眼差しが夕日と重なった。
「話しかけたいって、仲良くなりたいって、ずっと見てたの。なのに……」
こらえきれなくなったのか、紡の瞳にみるみる涙がたまっていく。海乃を握る手が細かく震えていた。
「私っ、あんな失礼な態度を取って……本当にごめんなさい」
とうとうこぼれてしまった涙を隠すように、紡は黙ってうつむいた。
ひっく、ひっくと紡が喉を鳴らして泣いている。
「私も……」
「私も、好き。ガラスの動物園」
小さく呟いた海乃は、つかつかと自分の席に歩いていきお菓子の箱をつかみ取る。
ぽかんと立ちすくむ紡の元に戻っていくと、箱を開けてクッキーを取り出した。
HORSEと書かれた馬の形のクッキー。それが紡の眼前に差し出される。
海乃の意図が分からず流れる涙をそのままに、紡はただ海乃を見つめていた。
「これ……」
海乃は大きく息を吸い、涙でぬれた紡の瞳を見つめ返す。
その顔は紡に負けないくらい真っ赤に染まっていた。
「これで、みんなと同じに……普通になったかな?」
その言葉に、セリフに気付いた紡が息を呑む。
海乃の手も紡と同じように小さく震えていた。
紡は静かにクッキーを受け取り、大事そうに優しく握るとにっこりと笑って見せる。
「うんっ……うん!!」
日が完全に沈んで暗くなり、日誌を取りにきた早川が声をかけるまで2人は夢中で語り合っていた。
空になったクッキーの箱に描かれた動物たち。何故だかその笑顔はずっと輝いてるように見えた。




