アンカー
石垣セーフハウス 地下 午前四時三十六分。
少し前。
ホテルの真下、図面に載っていない区画だった。リネン庫の奥に鉄の扉が一つあった。
漂白剤の匂いが、リネン庫から流れてきた。その奥に、コンクリートと消毒液の匂いがあった。
廊下にフィンとアルノがいた。
「一時間も掛からないかと」
「もしかして手伝って、って尋問?」
「ええ」
「俺、専門じゃないよ」
「知っています」
アルノが眼鏡を押し上げた。
「だからです」
フィンが、アルノを見た。
少しの間があった。
「……了解」
フィンが肩を落とした。
「あなたは、新人研修が得意なようでしたので」
「カラムのおもり頼んだの、アルノじゃん」
「ええ」
「俺は、自分がされたことしか出来ないよ」
エスポジトが、椅子に座らされていた。
手首が後ろで結束バンドに縛られていた。足首も、椅子の脚に固定されていた。確保された夜のシャツのままだった。汗で湿っていた。
四十八歳。中肉。額が後退していた。三日近く眠っていない顔だった。
アルノが正面に座った。
黒のスーツ。ネクタイはしていなかった。手元に、厚いファイルが一冊あった。
フィンは、少し離れた壁際に、椅子を置いて座った。
紙コップを持っていた。湯気が、細く上がっていた。
脚を組んでいた。
「Mr. エスポジト」アルノは言った。英語だった。「いくつか、確認させてください」
「……」
アルノが、ファイルを開いた。
一枚目を、読んだ。エスポジトの方は見なかった。
「あなたの娘さんは、二十一歳」アルノは言った。「シンガポール国立大学。情報工学科」
エスポジトが、止まった。
「ま、待ってくれ。なんでいきなり家族の…」
アルノからの返答はなかった。
ページをめくった。
「猫を飼っていますね」アルノは言った。「茶色の。名前は、私の資料には載っていない」
めくった。
「離婚した元奥さんとは、今も連絡を取っている」アルノは言った。「月に、二、三度。多くはない。でも、切れてはいない」
ファイルを、閉じた。
そこで、初めてエスポジトを見た。
「私たちは、彼女たちに危害を加える予定はありません」
エスポジトの呼吸が、変わった。
「あなたに聞きたいのは」アルノは言った。「コストフの端末の、暗号の構造です」
「If I talk」エスポジトの声がかすれた。「they’ll kill me.」
「誰が」
「Kostov——」
「コストフは死にました」
エスポジトの目が、止まった。
「ネットワークは、あなたを切りました」アルノは続けた。「IT担当が一人、消えた。彼らはそう処理した。あなたは、もう死んだことになっている」
「……」
「協力しても、あなたが助かる保証はありません。それは、私が決めることではない」
エスポジトが、アルノを見た。
「ただ」アルノは言った。「協力しなければ、ここで終わりです」
エスポジトは話さなかった。
唇を噛んでいた。
「そうですか」アルノは言った。
黙った。
三十秒、経った。
一分、経った。
壁際でフィンが紙コップを口に運んだ。一口飲んだ。
二分、経った。
エスポジトの呼吸が浅くなった。
「……本当に、知らない」エスポジトは言った。
「そうですか」アルノは言った。
また黙った。
三分、経った。
フィンがもう一口紅茶を飲んだ。
エスポジトはフィンを見た。
「なあ、もう」
縋るようにフィンに言った。フィンは何も言わなかった。
壁際で、フィンが立ち上がった。
三歩で、エスポジトの横に来た。
しゃがんだ。目線を合わせた。
紙コップをまだ持っていた。
「ミルク入れる?」フィンは聞いた。
言葉の発音が、上品な英国のものだった。
「……」
「いらない?」フィンは笑った。「人間売ってる方が好き?」
エスポジトがフィンを見た。
フィンが、エスポジトの後ろ手に縛られた左手を取った。
「君左利きだったね」フィンは言った。
「……っ」
「キーボード打つ手だ」フィンは言った。「指、十本ある」
「おい」エスポジトが言った。今度はすがるように、アルノを見た。「Call him off.」
「私は」アルノは言った。「彼を止める立場にありません」
フィンは口角を上げた。
「残念だったね」
エスポジトの歯が鳴った。
フィンが中指をもって、力を入れた。鈍い音が響いた。
エスポジトの声が響く。
「話す」エスポジトは言った。「今すぐ、話す」
フィンが首を傾げた。
「じゃあなんで、さっき話さなかったの」
今度は人差し指を取った。
エスポジトがフィンを見た。
「お前!ピアノ弾きじゃねえのかよ!」
「話す気無い?」
もう一度、音が鳴った。
エスポジトの悲鳴がまた響いた。
「鍵の構造は」アルノが言った。
エスポジトが肩で息をしていた。
アルノが顔をフィンに向けた。
その動きを見て、エスポジトが話し始めた。
「三重に、なってる。全部話す。全部話すから」
アルノは瞬きもせず、エスポジトを見た。
「それで?」
「一層目はコストフの生体認証、二層目は時刻ベースの鍵。三層目が、物理トークン」
フィンはエスポジトから手を離した。
ハンカチを出して指を拭いた。
『トークン、回収済み』ユキナガの声。別室からだった。『生体認証は遺体から取れてる。経路、見えてきた』
エスポジトは、話し続けた。
話すほど、声が早くなった。
アルノはメモを取らず、ただ聞いていた。
二十分が経った。
「移送記録の受け先は」アルノは言った。
「…全部は知らない。でも、一つ見た」エスポジトは言った。「VRG」
アルノは一瞬止まった。
「……Valerian Resource Groupですか」
「…そうだ。沖縄の、西の島」
「座標は」
エスポジトが、座標を言った。
『出た』
ユキナガの声が、少し低かった。
アルノが顔を上げた。
「どこですか」
『…やっぱここ。与那国』
アルノは画面の座標を見た。
「何を送っていたんです」
エスポジトが唇を噛んだ。フィンを一度見た。汗が頬を伝った。
「…人だ」
アルノがファイルを閉じた。
「他に」アルノは聞いた。「話したいことは」
エスポジトは、答えなかった。下を向いていた。
アルノが立ち上がった。フィンがドアの方を見た。
その時だった。
「……あんたら」エスポジトは言った。「本当に知らないんだな」
アルノが止まった。
「何をです」
「アンカー」
部屋が静かになった。
空調の、低い音だけが残った。
「説明してください」アルノは言った。
「知らない」エスポジトは言った。
「では、なぜ口にした」
「二年前、聞いただけだ」エスポジトは言った。「コストフから。一度」
「どういう文脈で」
エスポジトが少し黙った。
「電話してた」エスポジトは言った。「相手は、知らない。でも、コストフが、怯えてた。あの男が、怯えてた。初めて見た」
声が裏返った。
「『アンカーを見つけた』」エスポジトは言った。「そう言ってた。それから、『何人持っていかれた』と」
「何人」アルノは聞いた。
「数えてなかった」エスポジトは言った。「でも、コストフは、続けて言った」
エスポジトが、顔を上げた。
「『次は、こっちが消される番だ』」
それきり、口を閉じた。
「それ以上は」エスポジトは言った。「本当に、知らない」
「It’s the kind of thing——(それは)」
言葉を、探した。
「you don’t ask about.(聞いてはいけない種類のもの)」
それだけ言って、エスポジトは下を向いた。
もう顔を上げなかった。
アルノがドアに向かった。
フィンがその後ろについた。
エスポジトを、椅子に残したまま部屋を出た。
鉄の扉が、閉まった。
リネン庫の明るい廊下に出た。
漂白剤の匂いが強くなった。
アルノが立ち止まった。
ジャケットの内ポケットから、左手でライターを出した。煙草は、出さなかった。手の中で、一度だけ握った。
「フィン」アルノは言った。
フィンがアルノを見た。
「今の件は、私が預かります」
「…」
「確認したいことがあります」
「……いいの?」
フィンはそれ以上聞かなかった。
指を、一度開いて閉じた。
「俺さ」フィンは言った。「ピアノ弾いてる方が、好きなんだよね」
アルノは、答えなかった。
ライターを、内ポケットに戻した。
二人は廊下を歩き出した。
上の階では、まだ誰も起きていなかった。




