夜の船
夕方だった。
全員が片付けを終えていた。
ヴィクトルがブリッジから降りてきていた。
港に船が着いた。
ロープが結ばれた。
全員がデッキに立っていた。
タラップが下ろされた。
順番に降り始めた。
ユキナガが先に降りた。スピーカーを抱えていた。
フィンが続いた。
カラムが煙草を口に咥えたまま降りた。
アルノが端末を見ながら降りた。
カイがリヴァの腰を一度確認してから、先に降りた。
リヴァがタラップに足をかけた。
カイがリヴァに手を伸ばそうとした瞬間。
船に残っていたヴィクトルがリヴァの手を引いた。
軽く、でも確実に引いた。
リヴァが船の上に戻されて、背中からヴィクトルの胸に飛び込んだ。
「え」
「悪いな」ヴィクトルは全員に言った。「借りてく」
全員が止まった。
タラップの下で、五人が止まった。
「は?」とフィンが言った。
「…本気ですか」とアルノは言った。
「ああ」ヴィクトルはロープを解いた。「もう一回沖行ってくる」
「ヴィクトル」とカイが言った。
「三十分後には戻る」一拍。「多分」
「リヴァ」とカイは言った。
リヴァはヴィクトルを見た。それからカイを見た。
「……ちょっと行ってくる」
「リヴァ」
カイが何か言おうとした。
言葉が出なかった。
ヴィクトルがエンジンをかけた。
船が、ゆっくり港から離れた。
タラップの下に、男五人だけが残った。
「……マジかあ」とフィンは言った。
「資本主義…」とユキナガは言った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
船が小さくなっていった。
カラムが煙を吐いた。
「狙う?」
カラムが言った。
「やめろ」アルノが即答した。
カラムは煙を吐いた。
「……冗談」
少し間があった。
「冗談に聞こえませんでした」
「冗談」カラムは煙を吐いた。「…たぶん」
「たぶんって何だよ」
「八十パーセント」
「二割本気じゃん」
カイが船を見ていた。
「距離五百。風速――」
「待て待て」アルノが言った。「スポッター始めないでください」
「標的ヴィクトル。視認良好。船体安定。撃てる」
「撃たないでください」
アルノが少しだけ声のトーンを落とした。カラムは少し笑った。
「カイがふざけてる」ユキナガが笑う。
「本気だ」
「……」
「……やっぱあの船」とユキナガは言った。「女連れ込むようじゃんか」
「ユキナガ」
「どー見てもそうだろ」
「確かにパーティー用にしちゃおしゃれすぎたけど」とフィンは言った。「言うなよ今」
カイがそれを聞いた。
動いた。
ジャケットを脱ぎ始めた。
タクティカルパンツのベルトを外そうとした。
「カイ」
「泳ぐ」
「は?」
「泳いで追う」
「いやいやいや」フィンが止めた。「もう何百メートルも離れてる」
「泳げる」
「泳げても無理だって」
アルノが前に出た。
「カイ」とアルノは言った。
穏やかだった。でも、止めていた。
「諦めてください」アルノはもう一度言った。
「アルノ」
「カイ」
カイが少し止まった。
アルノの目を見た。
アルノはカイから視線を外さなかった。
カイがベルトの手を止めた。
「……」
「疲れました」とアルノは言った。「宿に戻りましょう」
カイはまだ船を見ていた。
もう、小さくなっていた。
リヴァの白いシャツが、夕陽の中で見えなくなった。
「……カラム」
「何…?」
「スコープあるか」
「いい加減にしなさい」
カイがジャケットを拾った。
着た。
ベルトを締め直した。
「戻る」
「はい」
アルノが歩き始めた。
全員が後ろを歩いた。
カラムが煙を吐きながら、最後に歩いた。
「ヴィクトル、三十分後には戻すって言ったぜ」
「ヴィクトルの言葉は」カイは前を向いたまま言った。「半分しか信用できない」
「……まあそうだな」とユキナガは言った。
「フォローしてやれよ」とフィンが言った。
「フォローできないって」
石垣の港の夕陽が、五人の背中に長い影を作っていた。
船上。
「ヴィクトル」
「ん?」
ヴィクトルは普段なら「何だ」と言う。
「ん?」と返すのは二人きりの時だけだと、最近気づいた。
「こういうのやめて」
「こういうのって?」白々しい。にこやか。
「無理矢理二人きりになること」
ヴィクトルが少し笑った。
「違う。夜の海を見せたかった」
「海なら昼間見た」
「夜の海は違う」
「ヴィクトル」
断れる空気じゃなかった。
リヴァは少し息を吐いた。
ヴィクトルが操船席に立っていた。
港の灯りが、少しずつ後ろに消えていった。
「ここ」ヴィクトルが言った。「来い」
「何」
「舵触らせる」
「いい」
「来い」
ヴィクトルが手招きした。
リヴァは操船席の前に行った。
ヴィクトルの腕が、リヴァの後ろから舵に伸びた。リヴァの手の上に、片手だけ添えた。
距離が近かった。
エンジン音が低く鳴っていた。
ヴィクトルの声が、海風に消されないように、リヴァの耳の近くで聞こえた。
「力入れすぎだ」ヴィクトルの手がリヴァの手の力を確かめるように、少し動いた。「もっと抜け」
リヴァが手の力を抜いた。
「上手い」
舵が滑らかに動いた。
ヴィクトルは離れなかった。
離れる気がなかった。
「ヴィクトル」
ヴィクトルが笑った。
でも少し遅かった。
笑う前に、一瞬だけ何かを飲み込んだ。
沖に出た。
石垣の港の灯りが、完全に視界から消えた。
あたりが真っ暗だった。
月だけがあった。
ヴィクトルがエンジンを切った。
船が、ゆっくり止まった。
波の音だけが残った。
船のライトだけが光っていた。
リヴァが少し息を呑んだ。
「ヴィクトル」
「何だ」
「コパチェニのこと、思い出した」
ヴィクトルが少し止まった。
「もうしない」ヴィクトルはリヴァを見た。「あの時はおかしくなってた。今は違う」
「今は何」
ヴィクトルは少し間を置いた。
答えなかった。
風が吹いた。
リヴァが少し震えた。
海風が直接当たっていた。
濡れたシャツを羽織っていたので、体が冷えた。
「寒いか」
「…ちょっと」
ヴィクトルが自分のシャツを脱いだ。
下に黒いTシャツを着ていた。
脱いだシャツをリヴァに渡した。
「着ろ」
「いいよ」
「着とけ」
リヴァは受け取った。
大きかった。
袖がリヴァの手をすっかり覆った。
ヴィクトルの匂いがした。Sobranieの煙と、Comme des Garçonsの香水と、海の匂いだった。
ヴィクトルがリヴァを見ていた。
何も言わなかった。
ただ、リヴァが自分のシャツの袖を握っているのを見ていた。
「いい」
「何が」
「俺のシャツが」ヴィクトルは少し笑った。「ドレスもよかったが」
「…」
ヴィクトルが選んだドレス。結果汚してしまったが、リヴァも気に入っていた。
「似合ってた」
リヴァは少し間を置いた。
「クリーニングしてまた着る」
「だから。あの手のは一回着たらおしまいだ」
ヴィクトルは笑った。
「記憶にだけ残す」
でも、視線だけが外れなかった。
それが一番質が悪かった。
リヴァがタオルを取って髪を拭こうとした。
ヴィクトルが先に取った。
「やる」
「ねえ、」
「貸せ」
ヴィクトルがリヴァの髪を拭いた。
雑だった。
でも、手つきが優しかった。
力加減を知っていた。
女に何度も同じことをしてきた手だった。
「……」
「動くな」
ヴィクトルの手が、一瞬だけリヴァの頬に触れかけた。
止まった。
何かが違った。
距離の取り方だった。以前のリヴァなら、もう少し早く離れていた。今は離れていなかった。
離れていないことに、リヴァ自身が気づいていないようだった。
ヴィクトルは何も言わなかった。
タオルをリヴァの首にかけた。
止まった。
「ヴィクトル」
「ん?」
「やめてってば」そう言いながら、リヴァは離れなかった。
「はいはい」
ヴィクトルが下がった。
リヴァが手すりに寄った。
海を見た。
波の音だけがした。
「落ちるなよ」とヴィクトルは言った。
「落ちたら?」
「飛び込む」
軽口だった。
でも、言い方が違った。
冗談ではなかった。
「重いよ」
「何が」
「ヴィクトル」
ヴィクトルが笑おうとして、やめた。
笑っていなかった。
「悪いな」
近かった。
ヴィクトルがすぐ後ろにいた。
リヴァは振り返らなかった。
振り返れなかった。
「ヴィクトル」
「ん」
「このままつれてくつもり?」
少し間があった。
波の音だけがした。
ヴィクトルは煙草を指で回した。
「……今それを考えていたところだ」
「…みんな怒るよ」
「わかってる」ヴィクトルは静かに言った。「わかってるから、ここで止まってる」
リヴァが少し体を動かした。
「今度は、止まってる」
ヴィクトルが少し下がった。
でも、半歩だけだった。
ヴィクトルがSobranieを取り出した。
コンビニのライターで火をつけた。
ジッポを使わないことが習慣になっていた。
煙を吐いた。
月が、煙を照らした。
「リヴァ」
「うん」
「やる」
一本差し出す。金色が綺麗な煙草。
「私、それ吸ったことない」
「試せ」
リヴァに渡した。
リヴァが咥えた。
ヴィクトルがポケットからライターを取り出そうと体を傾けた。
やめた。
自分の煙草を咥えたまま、近づいた。
「ん」
リヴァの煙草に、火を移そうとした。
近かった。
「ねぇ、」
「吸えばいいだけだ」
顔と顔が、近かった。
人の煙草から火をもらうことは、リヴァはやったことがなかった。
「……」
リヴァは息を吸った。
ヴィクトルの煙草の先の赤い火が、リヴァの煙草の先に触れた。
火が移った。
甘い煙だった。Sobranieの金のフィルターの、独特の匂いがした。
ヴィクトルが少し離れた。
でも、視線は離さなかった。
「……」
「……」
波の音だけがした。
ヴィクトルは煙草を咥えたまま、何も言わなかった。
リヴァの唇を見ていた。
疲れていて、指先が重かった。
「照れたか」とヴィクトルは言った。
「照れてない」
「冗談だ、怒るな」
ヴィクトルが笑った。
でも、目は笑っていなかった。
リヴァが息を吐いた。
「おいしくは、ない」
「そうか」
「いい匂するけど」
「似合ってるのに」
煙が月の光の中に上がった。
また二人で黙った。
リヴァが声を出した。
「ヴィクトル」
「ん?」
「最近、疲れてる?」
少し間があった。
「お前の方が疲れてるに決まってる」とヴィクトルは言った。「捕まってたし」
ヴィクトルは笑わなかった。
煙だけ吐いた。
「俺はもう大丈夫だ」
「…そう」
「最近じゃ猫の検疫の書類が一番大変だった」
「それは…ありがとう」
「戻りたくねえな」とヴィクトルは言った。
「そろそろ戻らないと」
「もう少し沖にいたい」
「みんなが心配する」
リヴァも、戻りたくなかった。
このまま沖にいたら、何もかも、忘れられる気がした。
あの時みたいに、ヴィクトルに誘導された考えじゃなかった。
今の本心だった。
「……あと十分だけ」
「ヴィクトル」
「十分だ」
「五分」
「じゃあ七分」
「……わかった」
ヴィクトルが船尾に寄りかかった。
Sobranieを吸い続けた。
リヴァの隣にいた。
すぐ隣だった。
でも、それ以上近づかなかった。
リヴァはそれを見ていた。
体が、疲れてすごく重たかった。
ヴィクトルは静かだった。
急に黙っていた。
軽口が消えていた。
ただ、隣にいた。
「ヴィクトル」
「ん?」
「7分経った」
煙草を消して、ヴィクトルが立ち上がった。
「戻る」
操船席に向かった。
リヴァはそれを見ていた。
ヴィクトルが操船席に立つ前に、一度だけ振り返った。
「リヴァ」
「…」
「シャツ、返さなくていい」
それだけだった。
ヴィクトルは前を向いた。
エンジンが鳴った。
船が港に向かって動き始めた。
リヴァはヴィクトルのシャツを着たまま、海を見ていた。
港の灯りが、少しずつ近づいてきた。
ヴィクトルの匂いが、まだ袖の中に残っていた。
リヴァはそれをぎゅっと握った。
港に着いた。
ヴィクトルが船を停めた。
ロープを結んだ。
慣れた手つきだった。
リヴァが船から降りようとした。
ヴィクトルが先に降りた。
手を差し出した。
「自分で降りれる」
「掴め」
リヴァが掴んだ。
ヴィクトルがリヴァを降ろした。
降りた瞬間、ヴィクトルがリヴァの腰を支えた。
「酔ったか」
「酔ってない」
「じゃあ疲れてる」
「疲れてもない」
ヴィクトルはただ、笑った。
いつもの軽い笑いではなかった。
もっと静かな笑いだった。
ホテルに戻った。
廊下を二人で歩いた。静まり返っていた。
「リヴァ」
「うん」
「シャツ、本当に返さなくていい」
ヴィクトルが自分の部屋の前に着いた。
ドアを開けた。
振り返らなかった。
「おやすみ」
「おやすみ」
ドアが閉まった。
リヴァの部屋に入った。
ドアの前で少し立っていた。
まだ、海の香りがした。
海の香ではなく、ヴィクトルの香水の香りだった。
リヴァは、シャツをまだ握っていた。




