テタンジェ、コント・ド・シャンパーニュ・ブラン・ド・ブラン2014
閑話
石垣に来て、三日が経っていた。
港を出てから三十分が経っていた。
ヴィクトルのクルーザーは、白い船体に深いネイビーのラインが入っていた。デッキは広かった。船内にラウンジがあって、上層にブリッジがあった。後ろから引き出し式の滑り台が海に向かって伸びていた。
七月の石垣の海は、信じられないくらい青かった。
「天気よすぎだろ」フィンは言った。
サングラスをかけていた。半袖シャツの腕まくりが綺麗に揃っていた。
「これがイギリスにあったら、俺この海辺に家建てて住むぜ」
「住めばいい」ユキナガは言った。
「無理だよ。イギリスにこんな海ない」
「だから、住めばいいじゃん」
「沖縄に?」
「沖縄に」
「いいかもな」フィンは笑った。「マジでいいかも」
ヴィクトルがブリッジから降りてきた。
白いシャツの袖をまくっていた。サングラスをかけていた。普段とは違う顔をしていた。海の上のヴィクトルだった。
「ヴィクトルさあ」フィンは言った。「なんで船持ってんの」
ヴィクトルは笑った。
「気にするな」
「気になるって」
「気にするな」
話を聞く気がなかった。でも、機嫌がよかった。
ユキナガがバーカウンターで動き始めた。
「まずシャンパン開けない?任務お疲れってことで」
「いいですね」アルノは言った。端末から目を上げた。
「銘柄は?」
「ヴィクトルのストック」ユキナガは冷蔵庫を開けた。「テタンジェ、コント・ド・シャンパーニュ・ブラン・ド・ブラン2014」
「マジか」フィンが覗き込んだ。「いいやつじゃん」
「いいやつだよ」
「これ一本いくら」
「しらん」ヴィクトルは言った。
ユキナガが冷えたフルートグラスを七脚並べた。ボトルを開けた。音が小さく鳴った。泡が立ち上がった。
全員がフルートを持った。
「お疲れ様」アルノは言った。
「お疲れ」
七脚のグラスが、軽く合わさった。
リヴァが一口飲んだ。細かい泡が口の中に広がった。
「……おいしい」
「だろ」ヴィクトルは言った。「たまに飲むからいい」
ユキナガがスピーカーを繋いだ。Sonosの大きいやつだった。船尾と船内に四つ配置した。
「音、低音多めにしていい?」
「いいよ」
最初の曲が流れた。
Roses / The Chainsmokers
柔らかいシンセが、石垣の海風に溶けていった。
「あ」フィンが言った。
「知ってる?」
「知ってるも何も」フィンは笑った。「これ出た時、俺まだ訓練中だった。基地で死ぬほど聴いた」
「SASの基地でChainsmokers」
「かかってたんだよ。誰かが流してた」
「誰が」
「知らね。でも毎日かかってた。朝の体力練成の時間にも」
「やばい環境だな」
「やばかったよ」フィンは海を見た。「懐かしい」
ユキナガがシャンパンの後にカクテルを作り始めた。
「リヴァは何飲む」
「軽いのがいい」
「Gimletにする」
タンカレーNo.10のボトルを開けた。フレッシュライムを半個絞った。ジンとライムジュースを2対1。
氷を入れたシェイカーで十五秒。冷えたカクテルグラスに細かい氷ごと注いだ。ライムを縁に引っ掛けた。
「ライム強めで」
「はい」
リヴァが受け取った。一口飲んだ。冷たかった。ライムが鋭かった。
「フィンは」
「ジャックダニエルとコーク」
「……シャンパンの後にそれか」
「パブでいつも飲んでるやつ」
「それでいいの」
「それがいいんだ」
ジャックダニエルをロックグラスに。コーラを注いだ。レモンを絞った。シンプルだった。
「アルノ、ヴァルシュタイナーあるよ」
一瞬だった。アルノの表情が動いた。眼鏡の奥で、何かが緩んだ。
「……頂きます。でもどうして」
「なんとなく」ユキナガはグラスを取った。「アルノが喜ぶかなと思って」
アルノは何も言わなかった。
ユキナガがグラスに注いだ。アルノが受け取った。一口飲んだ。
小さく美味しいと言った。多分、ヴィクトルにしか聞こえていなかった。
「カラムは」
「……Whisky Soda」
「銘柄」
「ラフロイグ」
「シングルモルトをソーダで割るのか」
「割る」
ラフロイグ10年をハイボールグラスに入れた。氷、ソーダ。レモンピール。
「ヴィクトルは」
「操船中だから水でいい」
「真面目じゃん」
「免許持ちだからな」
「何回言うんだよ」
「一級だぞ」
ヴィクトルはミネラルウォーターをグラスに注いだ。レモンを浮かべた。
「カイは」
「ジンロック」
タンカレー、氷、それだけ。
「ユキナガは」
「俺は今からEspresso Martini作る」ユキナガは笑った。「自分で飲むため」
ダブルショットのエスプレッソを落とした。熱いうちにウォッカと混ぜた。カルーアを少し。
氷を入れたシェイカーで十秒。グラスに注いだ。
「泡きれい」リヴァは言った。
「コツがあるんだ」ユキナガは言った。得意そうだった。
甲板の隅で、カラムが横になっていた。
タープの下だった。日が当たらない場所を選んでいた。Rothmansを指に挟んでいた。
「太陽好きじゃない?」リヴァは聞いた。
「嫌い」
「なんで。中東の人日差しに強そうなのに」
「中東のやつは日陰にいる」
「そうなの」
「日向にいるのは観光客だけ」
「そんなもんなんだ」
カラムは煙を吐いた。
次の曲が流れた。
Wake Me Up / Avicii
イントロのギターが鳴った瞬間、ユキナガがバーカウンターの上に肘をついた。
「なんか、来るものがある」フィンが言う。
フィンがグラスを持ったまま少し黙った。
海を見た。遠くに船が一隻見えた。
曲が続いた。
カラムが煙を吐いた。タープの下で、天井を見ていた。
アルノがヴァルシュタイナーを一口飲んだ。端末を開いていたが、画面を見ていなかった。
リヴァが滑り台に向かった。
白いオフショルダーのフリルが、海風に揺れていた。上から羽織った白いシアーシャツが、ふわふわと広がっていた。袖が長かった。ハイウエストの下に、腰横に細いリボンがあった。
「行ってくる」
「日焼け止め塗ったか」カイは言った。
「塗った」
「耳も」
「んー」
カイがリヴァの耳を見た。
「塗ってないだろ」
「……後で塗る」
「今塗れ」
「もう滑る」
「塗ってからだ」
リヴァはため息をついた。日焼け止めを耳に塗った。
手を上げた時、少し顔を歪めた。
「腕、痛むのか」カイは言った。
「大丈夫」
リヴァは塗り終わった。
「行ってくる」
滑った。水しぶきが上がった。
カイが船尾に立っていた。リヴァが海面で手を振った。カイは手を振り返さなかった。でも、視線を外さなかった。
リヴァが海から上がってきた。
白に近い薄紫のフリルが水を吸って重くなっていた。長い薄紫の髪が、後ろで緩く結ばれていた。編み込みが少し解けて、毛先から水が落ちていた。
「魚いた」
楽しそうだった。シャツを肩に引っ掛けたまま、濡れた足で甲板を歩いた。
カイが眉を寄せた。
「滑るぞ」
「だいじょうぶ」
フィンがタオルを投げた。リヴァがキャッチした。
「ありがと」
「水分」カイが言った。水のボトルを差し出した。
「飲んだばっかり」
「もう一回」
リヴァはボトルを受け取った。一口飲んだ。カイが満足そうにした。
ユキナガがバーカウンターから言った。
「カイのうるささ、もう病気」
「うるさいよなあ」フィンも笑った。
「泳がないのか」ヴィクトルは言った。「もったいない」
カラムの方を向いた。
「俺泳げない」カラムは言った。
「カラム、泳げないの」リヴァは言った。
「…沈む」
「ユキナガは」フィンが言った。
「俺は飯の準備」ユキナガはカウンターの中から言った。「あとで考える」
「カイは入んないの。ダイバーの血が騒ぐんじゃないの」
カイが少し間を置いた。
「……入ってもいい」
「お、来た」
「リヴァが甲板にいる間だけだ」
「だから警護やめろよたまには」
カイがシャツを脱いだ。タクティカルパンツのまま、滑り台の方に行かなかった。船尾から直接海に入った。
動きが違った。無駄がなかった。水に入る瞬間、ほぼ音がしなかった。
「……うわ、なに手慣れてる」
「いやマジで」フィンが海を覗き込んだ。「SAS時代の水中潜入の連中見たことあるけど、あれより静かかも」
カイが海面から顔を出した。水を払った。深緑の髪が水に濡れて、いつもより暗く見えた。
リヴァが船尾から見ていた。カイがリヴァを見上げた。
「素潜りする」
「素潜り」
「十メートルくらい。心配するな」
カイがそのまま潜った。
しばらく上がってこなかった。
カラムが煙を吐いた。
「やばいな」
「やばい」
カイが上がってきた。手に何かを持っていた。貝だった。大きかった。
「……何それ」
「夜光貝」カイは言った。「身が食える」
「持ってこい」ヴィクトルが言った。
カイが船に上がった。貝をデッキに置いた。水滴が落ちた。
筋肉のついた背中に、貝殻の影が落ちた。
「カイ、すごいじゃん」フィンは言った。
「貝拾っただけだ」
カイがタオルで髪を拭いた。また座った。リヴァの近くだった。
「フィンは入らないのか」ヴィクトルは言った。
「入る入る」フィンが立ち上がった。「ちょっと待って」
フィンがシャツを脱いだ。全員が止まった。
「……お前」ユキナガは言った。
「何」
「服着てる時と全然違うじゃん」
「そう?」
「そうだよ。鍛えすぎ」
肩幅が広かった。腹筋が割れていた。背中に古い傷が二本走っていた。左腕に刺青があった。元SASだった。
「ピアノで鍛えた」
「ピアノのせいじゃないだろ」
フィンが船尾の手すりに登った。両手を広げた。
「いえーーーい」
飛び込んだ。大きい音がした。水しぶきが上がった。
「うわっ」リヴァが少し笑った。
「カイと全然違う入り方」
「派手好き」カイは言った。
「うるさい」海からフィンの声がした。「気持ちいいぜマジで」
ヴィクトルもシャツを脱いだ。
「俺も入る」
「アンカーは」アルノが声をかける。
「下げてる。船任せた」
ヴィクトルが船尾から飛び込んだ。慣れていた。
三人が海にいた。リヴァが船尾で見ていた。
その時、フィンが船尾の近くまで泳いできた。リヴァを見上げた。
「リヴァおいでー」
「うん、待って」
リヴァが少し笑った。
フィンの手が伸びた。腰を掴んだ。
「ちょっ——」
フィンが片手でリヴァを持ち上げた。そのまま海に投げた。
水しぶきが上がった。リヴァが海に落ちた。
「フィン!」海面に出てリヴァが叫んだ。
「投げないでよ」
カイが船尾で眉を寄せていた。動きかけた。
でも、リヴァが笑っていた。
カイは止まった。
次の曲が流れた。
Chandelier / Sia
「あ」フィンが海から言った。
「これも知ってる?」
「知ってる知ってる」フィンが水を払った。「俺SiaのライブDVD持ってんだぜ」
「お前、本当に何でも好きだな」ユキナガが言った。
「いいじゃん。声がいい」
曲が続いた。Siaの声が、海の上に広がった。
ヴィクトルが船に戻ってきた。タオルで体を拭きながら、ブリッジを確認した。それからデッキの少し離れたところに椅子を持っていった。海がよく見える場所だった。
Sobranieを取り出した。火をつけた。煙を吐いた。
甲板の方を見なかった。ただ、海を見ていた。
全員が緩んでいる時間を、ヴィクトルは静かに守っていた。
カラムが船首にいた。タープの下から、場所を移動していた。
柵の外側に腰を下ろしていた。足が海の上に出ていた。煙草を吸っていた。
リヴァが近づいた。
「カラム」
「うん」
「危ないよ」
カラムがリヴァを見た。一秒だった。
手首を掴んだ。引いた。
気づいたら柵の外側にいた。さらにカラムが腰を引き寄せた。リヴァがカラムの膝の上に座っていた。
風が正面から来た。水平線だった。空との境目がなかった。足の下に何もなかった。海だけだった。
「……カラム」
カラムは海を見たまま言った。
「怖いかなと思って」
「え?」
「でも、怖くなかった」
煙草を吸った。
カラムの腕が腰に回っていた。
リヴァは下を見た。波が来ていた。船体に当たっていた。船首は高さがあった。落ちたら、と思った。思っただけで体が固まった。
カラムは普段通りだった。
フィンが海から戻ってきた。柵の内側から二人を見た。
「……おい」
カイが来た。声が低かった。
「戻れ」
カラムが煙草を一度見た。吸いきっていなかった。海に落とした。柵の内側に足をかけた。
リヴァを抱えたままだった。
滑った。
音がした。
カラムの腕がリヴァから離れた。重心が崩れた。リヴァも落ちかけた。
カイの腕が来た。腰を掴んだ。そのまま引き戻した。降ろさなかった。リヴァがカイの肩に手をついた。
リヴァは落ちなかった。カラムだけ、海に落ちた。
「……あ」ユキナガは言った。
誰も最初は動かなかった。
海面にカラムがいた。沈んでいた。浮いていなかった。
「泳げないとか言ってなかったかあいつ」
フィンが走って飛び込んだ。
カラムの腕を掴んだ。上がらなかった。193センチが沈んでいた。
「カイ、手貸して、駄目だ上がらん」
一拍あった。
「カイ?」リヴァがカイを見上げた。
カイはリヴァを抱えていた。
抱えている腕に、力が入った。
眉を寄せた。嫌そうだった。
「カイ」リヴァは言った。「行ってきて」
カイがリヴァを降ろした。飛び込んだ。
また水しぶきがなかった。
二人がカラムの下に入った。浮かせた。船縁まで運んだ。ヴィクトルとユキナガが上から引いた。
カラムがデッキに上がった。水を吐いた。
右腕だけを支えにして、そのまま起き上がった。
髪から水が滴っていた。
「…冷たかった」
フィンが息を整えながらカラムを見た。
「今度はスリル感じたか?」フィンが言った。
「…残念」
誰も答えなかった。
「残念って、感じなかったってこと?」リヴァが言った。
アルノがタオルをカラムに渡した。それからリヴァの隣に立った。
「感情が遮断されていくんです」アルノは言った。「気づいた時にはそうなっている」
リヴァはカラムを見ていた。
フィンに何か言われながら、カラムは濡れた煙草を探していた。表情が変わらなかった。
「わたしも」リヴァは言った。「続けてたら、ああなる?」
「あなたは、そうならないことです」
アルノはそれだけ言った。願いではなかった。指示だった。
リヴァは何も言わなかった。
フィンがポケットからCamelのメンソール・ワン・ボックスを取り出した。緑のパッケージだった。一本抜いてカラムに渡した。火をつけてやった。
「銃拭かないと…めんどい」
一拍、止まった。
誰も何も言わなかった。
カラムが吸った。
いつもと表情が変わらなかった。
料理がブッフェスタイルで並び始めた。
フィンが釣ったばかりの魚を捌いていた。手元が綺麗だった。動きに無駄がなかった。包丁の入れ方が、料理人の動きだった。
「フィン、上手」リヴァが聞いた。
「軍隊で習った」
「軍隊で料理」
「野外で何でも作れるようにってな。意外と本格的なんだ」
刺身が並んだ。マグロ、カンパチ、それからその場で釣った魚。薄く均一に切られていた。
ヴィクトルが船内のキッチンから出てきた。
大きな板に、パンが並んでいた。フォカッチャだった。表面に粗塩とローズマリーが散らされていた。指の跡が等間隔についていた。
ヴィクトルが朝のうちに焼いたものだった。オリーブオイルがまだ表面で光っていた。
「ヴィクトル、これ作ったの」
「焼いただけだ。生地は昨夜仕込んだ」
「本格的じゃん」
別の皿には、薄く切ったブルスケッタが並んでいた。バゲットの上に、潰したトマトとガーリック、バジルが乗っていた。オリーブオイルが滴っていた。
もう一皿。カプレーゼ。水牛モッツァレラを厚く切って、太陽で熟したトマトと交互に並べていた。バジルの葉が一枚ずつ乗っていた。
「このカプレーゼ、トマトが本物だから」ユキナガが言った。「スーパーのトマトじゃこうはならない」
「どこで買ってきたの」
「沖縄の農家から直接」ヴィクトルは言った。「朝に取ってきた」
「いつの間に」
「お前らが寝てる間だ」
さらに別の皿。プロシュートを薄く切ったものに、メロンを添えていた。脂が透けていた。
最後に、オリーブとアーティチョークのマリネ。瓶詰めじゃなく、ヴィクトルが自分で漬けたものだった。
「カルボナーラは」リヴァが言った。
ヴィクトルは笑った。テキサスでリヴァが食べたがっていたことを思い出した。
「いつでも作ってやる」
ユキナガが船内のキッチンから戻ってきた。両手で何かを抱えていた。
炊飯器だった。
日本の、普通の炊飯器だった。
全員が止まった。
「ユキナガお前、それ何」フィンが言った。
「炊飯器。刺身には米いるし」
「クルーザーに炊飯器持ち込んだの」
「持ち込んだ」
「マジか」
ユキナガがカウンターに炊飯器を置いた。蓋を開けた。湯気が立った。米の匂いが広がった。
「お米だ」リヴァが言った。
ユキナガは茶碗を三つ取り出した。米をよそった。リヴァに一つ、カイに一つ、自分用に一つ。
「ご飯ですよも持ってきた」
小さい瓶を出した。海苔の佃煮だった。緑の蓋だった。
「なんで」
「なんか食べたくなって」
リヴァが茶碗を受け取った。ご飯ですよを米の上に乗せた。一口食べた。
「……おいしい」
「だろ」
「なんか落ち着く」
「そういうことだよ」
カイも茶碗を受け取った。無言でご飯ですよを乗せた。食べた。
「うまい」
「だろ」
ユキナガが満足そうにした。
「...それは何」フィンが覗き込んだ。
「海苔の佃煮」
「うまいの」
「お前らはこれを理解できない」
「は?」
「これは日本人の郷愁だから」
「俺も食いたい」
「やめとけ。外人には消化酵素無いとか聞いたことある」
「知らない。食わせろ」
フィンが箸を取った。茶碗を奪った。一口食べた。
止まった。
「……ふうん」
「ふうんって何だよ」
ヴィクトルが笑った。アルノも端末から目を上げて、少し笑った。
カラムは何も言わなかった。プロシュートを食べていた。
「カラム、お米いる?」リヴァが聞いた。
「…もらう」
「ご飯ですよ、いる?」
「………いらない」
リヴァがカラムにご飯をよそってあげた。
カラムはバーカウンターからスプーンを拾って、お茶碗の白米を小さくすくった。
「…なんか米、濡れてる…」
フィンは笑ってそれを見ていた。
食事が終わった。
ユキナガがEspresso Martiniをもう一杯作って飲んでいた。
甲板に座って、スピーカーから流れる音を聞いていた。
Paloma Rumba / Simon Hovhannisyan
ラテンっぽいリズムだった。ギターが軽かった。
「これは知らね」フィンが言った。
「最近のやつ」
「踊れるじゃんこれ」
「踊れば」
フィンがリヴァに「踊ろ」と声をかけて、微妙な顔でリヴァに見られていた。
一人で踊り始めた。
ユキナガが目を細めた。少し笑っていた。
視線を少しずらす。タープの下には、カラムがいた。
ほんの数日前、豪華客船で、あいつに銃を突きつけられていたのが嘘みたいだった。今は、こうして海の上で同じ音を聞いている。
変だった。
ヴィクトルが船を完全に停めた。あたりに何もなくなった。他の船が、視界から消えた。水平線だけが続いていた。周りに何も見えなかった。
「……ここまで来ると」アルノは言った。「電波が悪いですね」
「衛星通信に切り替えてるよ」ユキナガは言った。
「切り替えた後でこれですか」
「沖だから」
「……」
アルノは端末を閉じた。タブレットも閉じた。書類を膝の上に置いた。
外を見る。
360度、海。何も見えなかった。
船の一隻もいない。
目を一度閉じた。また開いた。
ペンを取った。書こうとした。書けなかった。ペンが落ちた。
アルノが書類に突っ伏した。眼鏡が少しずれた。
その音に、全員が止まった。
「……寝た?」フィンは言った。
「寝た」ユキナガは言った。
「アルノが」
「珍しいね」
「疲れてたんだよ」ユキナガは言った。
ユキナガがそっと書類をアルノの下から引き抜いた。アルノは動かなかった。深く眠っていた。
ユキナガはタオルケットをアルノに掛けた。眼鏡をそっと外した。テーブルに置いた。ヴァルシュタイナーの瓶を、アルノの手元から離した。
「重症だな」
「ぐっすり」
ユキナガがプレイリストをループにしていた。
「これ、もう二回目」フィンが言う。
「一周しちゃった」
「ユキナガ、お前のプレイリスト古いんだよ」
「いいんだよ。…」欠伸をしながら言った。
ユキナガがスピーカーに寄りかかった。目を閉じた。
そのまま、動かない。眠ってしまった。
Espresso Martiniのグラスが、まだ手にあった。
フィンがそっとグラスを取った。
「ユキナガも落ちた」
「二人目が落ちたな」ヴィクトルが言った。
「相当疲れてたんだろ」
「ああ」
次が再生されなかった。
ユキナガがスピーカーを抱いて寝ていた。誰も次の曲を入れなかった。
カイがリヴァを見ていた。
リヴァが髪を乾かしていた。
カイは座っていた。ソファに座って、リヴァを見ていた。ずっと見ていた。
いつの間にか、見ていない瞬間があった。目を閉じていた。
「カイ」リヴァは小さく言った。
答えなかった。
「カイ?」
答えなかった。寝ていた。
突然、糸が切れたみたいに。豪華客船で、毒で動けなかった。今は、海の上で。
リヴァは静かに近づいた。バスタオルを取って、カイに掛けた。
その瞬間だった。
カイが飛び起きた。目が一瞬で開いた。リヴァを探した。リヴァが目の前にいた。
「ごめん」リヴァは言った。
カイがリヴァを見た。息を整えた。
「……寝た」
「うん」
「悪い」
「いいよ。寝てなよ」リヴァは笑った。「私が安全か見ててあげる」
「…逆だ」
「たまには逆」
カイは少し間を置いた。
「……すぐ起きる」
「いいよ。寝てて」
カイは座り直した。タオルを膝にかけた。目を閉じた。また寝た。すぐだった。よほど疲れていた。
リヴァはそれを見て、少し笑った。
甲板が静かになった。
アルノが寝ていた。ユキナガが寝ていた。カイが寝ていた。
カラムが煙草を吸っていた。フィンが料理を片付けていた。ヴィクトルがブリッジで海図を見ていた。
誰も急がなかった。
リヴァがスライダーを滑って、戻ってきた。甲板に上がった。
カラムがリヴァの方を向いた。
リヴァがそれに気づいて、カラムの近くに来て座った。
「ねえ」カラムは言った。
「うん」
「このあともついて行っていい」
リヴァが少しカラムを見た。
「いいんじゃない?」
「……うん」
「アルノが起きたら話してみよ」
「うん」
カラムが煙を吐いた。アンバーが海を見ていた。
フィンが少し離れたところでその様子を見ていた。笑った。
「カラム、ついに居場所できたな」
「黙って」
「俺も寝ていい?」
「寝れば」
「じゃあ寝るわ」
フィンがそのままデッキに横になった。目を閉じた。ほぼ同時に寝落ちした。
「……早い」カラムは言った。
「うん」リヴァは言った。
リヴァが立ち上がった。
カイの近くに行った。カイは座ったまま、目を閉じて寝ていた。
リヴァはその隣に座った。タオルで髪をもう一度拭いた。肩がうっすら赤くなっていた。
眠かった。シュノーケルで体力を使った。シャンパンも飲んだ。
体が、ゆっくり傾いていった。
カイの膝の上に、頭が落ちた。流れ込むように。
その瞬間、カイの目が開いた。反射だった。
目だけで状況を確認した。リヴァが膝の上にいた。
危険ではなかった。
カイが、少し笑った。ほんの少しだった。でも、笑った。
カイは、ユキナガを見た。
また目を閉じた。手だけ、リヴァの肩に置いた。
「……逆だ」
小声でそう言って、また寝た。
ヴィクトルがそれを見ていた。
ブリッジから降りてきていた。無言だった。
甲板の少し離れた場所に椅子を持っていった。海がよく見える、誰の視界にも入らない場所だった。
Sobranieを取り出した。火をつけた。煙を吐いた。
甲板の方を見なかった。ただ、海を見ていた。
海しかなかった。
リヴァが眠っていた。カイの膝の上で。
ユキナガがスピーカーを抱いて眠っていた。
アルノが書類を膝に乗せたまま眠っていた。
フィンがデッキで眠っていた。
カイが、リヴァの肩に手を置いたまま眠っていた。
ヴィクトルは煙を吐いていた。
静かだった。
静かすぎた。
カラムは煙草を口に咥えたまま海を見ていた。
誰も追ってこない。
それが、まだ少し信じられなかった。
”Frozen” / Sabrina Claudio
ユキナガプレイリスト:
"Roses" / The Chainsmokers
"Wake Me Up" / Avicii
"Chandelier" / Sia
"Paloma Rumba" / Simon Hovhannisyan




