WaltherPPK
アルノが車を降りた。
建物の北側に回った。
屋根の縁を見上げた。
月明かりがわずかに反射した。
ヘリポートだった。屋根全体が、ヘリポートとして設計されていた。
建物の規模に対して、これは大きすぎる施設だった。
「屋根が、ヘリポートになっています。資材倉庫の体裁を取っているが、定期的に人を運ぶ施設です」
『……報告しないと』
「はい」
アルノが端末をポケットから出した。
地下の保管庫で、フィンが書類をケースに詰めていた。
ケーブルを巻き取った。端末を一台、防水袋に入れた。
手が早かった。アルノの「五分で戻ります」という言葉を、反芻していた。
カラムはサーマル単眼鏡に切り替えていた。
1500メートル先。建物の北側にアルノ。その向こう、北側の藪。
熱源があった。四つだった。
動いていなかった。じっとしていた。アルノの方を向いていた。
『見えた』カラムの声だった。早口だった。『北側、茂みに熱源。四』
アルノが止まった。体勢を低くした。
WaltherPPKに手を伸ばした。
その時だった。
背後に気配があった。
アルノが振り返る前に、計算が動いた。
藪の四人。正面。距離六メートル。視認済み。カラムが見ている。
だが、背後の気配は、藪の四人ではなかった。
建物の壁の死角。風よけの金属板の陰。
そこから、もう一人。
カラムが見ていない、五人目。
WaltherPPKまで0.8秒。一人目を取れる。二人目には届かない。背後の五人目には、振り返る時間が足りない。
計算が、続いた。間に合う手を、探した。
銃口が、アルノの後頭部に当たっていた。
冷たかった。
低い声がした。
「Keine Bewegung.」
スイスのアクセントだった。ドイツ語だった。日本語で組んでいた思考が、一瞬、母語に持っていかれた。
「…Scheiße.」
思わず声が出た。
アルノは動かなかった。
カラムのサーマルに、五つ目の熱源が浮いた。
建物の壁際。アルノの真後ろ。今、出てきた。
射線を引いた。
1500メートル。アルノと、五人目が、重なっていた。
リヴァからも、射線は通っていない。そもそも見えていない。
アルノの後頭部に、銃口。
サーマルでは二つの熱源が一つに潰れて見えた。
撃てなかった。
撃て、と言われた時のフィンの声が、一瞬だけ戻った。
風、秒速3.2。誤射の危険性がある。
『アルノ、後方』
カラムの声が入った。
『一名。距離ゼロ』
一秒あった。
『撃てない』
地下の保管庫で、フィンの顔から温度が消えた。
「……撃てない?」
返事はなかった。
「アルノ」
カラムも、アルノも、何も返さなかった。
返事がなかった。
「ユキナガ、どうなってる」
『……繋がってない』
「繋がってない?」
『カラムの報告のあと、アルノの無線、切れてる』
フィンがケースを置いた。
男が左手を上げた。
茂みの四人に、合図を送る動きだった。
その瞬間、後頭部の銃口がわずかに浮いた。
アルノの目の奥が、冷えた。
WaltherPPKを抜いた。振り向きざまだった。
一発目、正面に出てきた一人目の肩。倒した。
二発目、背後の男の頭を狙った。
外した。
読まれていた。
三発目を撃つ前に、男の手がアルノの手首を取った。
骨が軋んだ。
「……っ」
アルノは銃を離さなかった。離さないまま、左手で男の喉を狙った。
左手を払われた。同時に、別の男が背後から来た。腕を回された。首を絞められた。頸動脈を圧迫する位置。
アルノは手首を回して、男の指を外そうとした。
膝を蹴り上げた。男の体勢を崩そうとした。
崩れなかった。
背後の男の体重が、完全に腰に乗っていた。
視界が霞み始めた。
頭の中で計算が動いていた。圧迫の角度、男の体重のかかり方、自分の意識が落ちるまでの秒数。
あと六秒、と思った。違う、四秒。
左手をもう一度動かそうとした。
動かなかった。
顎を固定され、呼吸まで潰されていた。
助からない。
それだけは計算できた。
「……っ、」
無理に喉から声を出そうとした。出なかった。
引き継げる情報を頭の中で並べた。
回収データはユキナガが持っている。
カイは動く、フィンも動く。
問題は、リヴァだった。
彼女に説明していなかったことが、いくつか残っていた。
それが少しだけ気になった。
並べながら、視界が落ちた。
"Eden" / Hania Rani




