石垣セーフハウス
石垣港に着いたのは、昼前だった。
タラップを降りると、白い舗装から熱気が返ってきた。七月の石垣島は那覇よりも光が強く、港の向こうには底の色まで透けるような海が広がっていた。
リヴァはミッドナイトブルーのシフォンを着ていた。肩から二の腕までを覆う薄い生地の下に、包帯は隠れていた。海から来る風が裾を揺らした。
日差しを避けられる場所まで移動してから、アルノが口を開いた。
「今後の動きを、石垣で決めます」
「リヴァは、東京拠点に戻ってください」
リヴァが顔を上げた。
「オラヴルに診せる必要があります」アルノは続けた。「グレイが何をしたか、詳細を確認する必要もある。拠点の方が安全です」
「嫌」
「リヴァ」
「帰りたくない」リヴァは言った。「逃げたくない」
「逃げることと、安全を確保することは違います」
「私がいないとグレイの件は進まない」
リヴァはアルノを見た。
アルノは眼鏡を押し上げて、カイへ視線を移した。カイは前を向いたまま、何も言わなかった。
「……わかりました」アルノは言った。「ただし、オラヴルと毎日通話してください。何かあればすぐに帰らせます」
「うん」
少し間があった。
「……俺も」カラムは言った。「…まだ聞けてない」
アルノがカラムを見た。
「そしたら、俺も残るよ」フィンは言った。「カラム一人にしたら何するかわからないし」
「…余計なお世話」
「心配だから」
「…黙って」
ユキナガが両手を頭の後ろに回した。
「俺も別に帰る理由ないかな」
アルノがユキナガを見た。
「拠点の管理が」
「リモートでできる」
ヴィクトルが煙草を取り出した。何も言わなかった。
アルノは全員を見渡した。
「……全員、残るということですか」
「そうなるね」フィンは言った。
「……この状況で、全員が同じ場所に集まることの危険性は理解していますか」
「理解してる」フィンは言った。
アルノは額に手を当て、そのまましばらく下を向いた。全員が黙ってそれを見た。
「アルノが頭抱えてる」ユキナガは小声でフィンに言った。
「初めて見た」フィンは小声で言った。
しばらくして、アルノが顔を上げた。
「わかりました」アルノは言った。「ただし条件があります」
「何」リヴァが言った。
「グレイの動向を常に監視します。ユキナガ、情報収集を継続してください」
「了解」
「船で回収した端末の解析も、ここで続けます」
ユキナガが頷いた。
「ホテルから出る際は必ず二人以上で行動すること。島内での単独行動は禁止です」
「わかった」リヴァが言った。
「カラム」
「…なに」
「あなたは残る、ではありません。こちらが同行を認めるかどうかです」
カラムは何も言わなかった。
「フィン、カラムのおもりを頼めますか」
「OK」
「あなたも単独行動は禁止です」
「…」
「返事をしてください」
「…うん」カラムが言った。
「以上です」アルノは言った。「ホテルを手配します」
踵を返し、端末を取り出しながら歩き始めた。
アルノが手配したアルカ管理の系列ホテルまでは、港から歩いて数分だった。
白い外壁が午後の光を返し、入口にはブーゲンビリアが咲いていた。外を歩いただけで首筋に汗が浮いていたが、ロビーに入ると冷房の風が肌を冷やした。自動ドアが開くたび、潮の匂いが入り込んできた。
アルノがフロントで手続きをした。全員分の部屋を、同じ階に取っていた。担当者は名前を聞かなかった。パスポートも求めなかった。アルノが封筒を渡すと、カードキーが七枚、カウンターに並んだ。
全員が廊下に並んだ。
「カラムの部屋はユキナガとフィンの間です」
カラムがキーを受け取った。
「……」
それぞれの部屋に消えていった。
リヴァは自分の部屋に入った。
白い壁だった。
一瞬、足が止まった。
部屋の奥には、海へ向いたバルコニーの窓があった。リヴァは窓から距離を取ったまま立っていた。
ノックが二回した。
「開いてるよ」
ドアが開いた。
カイが入ってきた。
「アルカ管理の施設でも、確認はいる」カイは言った。
言いながら、すでにバスルームから確認を始めていた。シャワーカーテンの裏、クローゼット、ベッドの下。まだ身体が戻りきっていないのか、床には膝をつかず、腰を折って覗き込んだ。
最後に窓へ近づき、カーテンを少し開けて外壁を確認してから元に戻した。
「大丈夫だ」
「うん」
「鍵かけろ」
カイがドアを出た。
足音が遠ざかった。
リヴァは少し待ってから、廊下に出た。
アルノの部屋は斜め向かいにあった。ドアが半開きで、その向こうからクローゼットや引き出しを順番に開ける音がした。バスルームではシャワーカーテンまで引かれている。
リヴァが隙間から少し覗くと、ジャケットを脱いだアルノが、立ったまま上半身を傾けてベッドの下を確認していた。
スーツケースは入口の横に立ったままだった。安全確認が終わるまでは、荷解きもしないらしかった。
リヴァはそっとドアから離れた。
フィンの部屋の前は静かだった。ドアの隙間から光も漏れておらず、中は真っ暗らしかった。
リヴァはそのまま離れた。
カラムの部屋の前を通ると、英語のロックが廊下まで漏れていた。
隣はユキナガだった。
ユキナガの部屋のドアが開いた。
「カラム」ユキナガが廊下に顔を出した。「音楽」
「…静かだと落ち着かない」
「いつもそうなの」
「…うん」
「リヴァ、うるさくない?」
「平気」
ユキナガがドアを閉める時、部屋の中が少し見えた。壁際からコードが引っ張り出され、机には端末が三台並んでいる。
画面の一つに海図のようなものが映っていた。石垣より、さらに西に印がついていた。
リヴァは自分の部屋に戻った。
ドアを閉めて鍵をかけ、カーテンも閉じた。窓が見えなくなると、少しだけ楽になった。
ベッドに座り、壁へ背を預けた。隣からカラムの音楽が薄く聞こえていた。完全な静寂ではなかった。
しばらくすると、廊下からアルノの声がうっすら聞こえた。少しして、カラムの音楽が小さくなった。
石垣の午後が、静かに流れていた。
ノックがした。
「リヴァ、オラヴルに電話してください」アルノの声だった。「今」
「うん」
「彼…カラムのことですが、携行品は預かりましたが、十分注意してください」
足音が遠ざかった。
リヴァはしばらくそのままでいた。
それから端末を取り出した。電話した。オラヴルの声が来た。
いつもと変わらないオラヴルの低い声が、心地よかった。
端末を置いた。
壁に背をついたまま目を閉じ、しばらく眠った。
廊下に全員が集まった。
リヴァは白いリネンのワンピースを着ていた。袖が短く、膝丈だった。薄手の紺の上着を羽織った。
腕の痛みはまだあった。でも、昨日よりは動いた。ポケットに端末だけを入れた。
アルノが全員を見た。
「食事に行きますが」アルノは言った。「二、三人ずつに分かれた方が」
「いや、全員で行こうぜ」フィンは言った。
「目立ちます」
「観光客だって言えばよくない?」
「……」
アルノは全員を見た。
その間に、カラムが先に歩き出していた。
「カラム」
「おなかすいた」
ホテルを出ると、夕方になっても舗道には昼の熱が残っていた。白いリネンの裾に、生ぬるい風が入った。
路地へ入った時には、カラムがもう先頭を歩いていた。
「何でお前が先頭で歩いてんだよ」ユキナガは言った。
「おなかすいた」
「カラム、うしろ」リヴァは言った。
カラムが振り返り、リヴァの後方に来た。
カイが一歩前に出た。カラムとリヴァの間に入る位置だった。
カラムがカイを見た。カイがカラムを見た。どちらも何も言わなかった。
入ったのは、観光客と地元客で賑わう大きな店だった。
引き戸を開けて七人が入った瞬間、入口近くの話し声が少しだけ静かになった。
先頭からアルノ、ヴィクトル、フィン、ユキナガ。リヴァのすぐ後ろには身体の大きいカイが続き、最後に二メートル近いカラムが入ってきた。
店員が来た。全員を上から下まで見た。もう一度見た。
「……何名様ですか」
「七名です」アルノは言った。
店員は、日本語で返ってきたことに驚いていたように見えた。
「……少々お待ちください」
店員が奥に消えた。別の店員が顔を出した。全員を見た。また消えた。
「ぎょっとされた」リヴァは小声で言った。
アルノはため息をついた。
奥のテーブルに案内された。
席につく前だった。
カイがリヴァの隣の椅子を引いた。
フィンがリヴァの反対側に回ろうとした。
カラムが先にそこにいた。
「カラム、いつの間に」
カイがカラムを見た。何も言わなかった。
フィンはカラムの隣に座った。
「リヴァの隣の隣でいいや」
アルノが残った席を見た。窓際だった。
アルノは一拍だけそこを見てから座った。外壁と隣のビルの窓を確認し、射線になりうる角度を目で追ってからメニューを開いた。
ヴィクトルはドアと窓が両方見える位置に自然に座り、カイはリヴァと窓の間に入っていた。
リヴァはそれを見ていた。
「え、窓側か」フィンは言った。「奥にしてもらう?」
少し間があった。
「まあいっか」フィンは続けた。「ちょっと落ち着くわ」
アルノが窓から視線を外した。ヴィクトルが煙草を取り出すのをやめた。
冷えた水が運ばれ、グラスの表面にすぐ細かな水滴が浮いた。
メニューが来た。
「カイ、おすすめは」フィンは言った。「地元でしょ?」
「ソーキそばとゴーヤーチャンプルー」
カラムはメニューを見ていた。
「海ぶどうって何」
「沖縄の海藻だ」カイは言った。
「嫌い」カラムが言った。
「まだ食べてないじゃん」ユキナガは言った。
「……ソーキそばにする」
料理が来た。
カラムがソーキそばの葱とかまぼこを丁寧に端に寄せた。
フィンがレンゲですくって自分の皿にのせた。カラムは何も言わなかった。
リヴァがゴーヤーチャンプルーを食べていた。
「リヴァ、ゴーヤーいけるの」フィンは言った。
「うん。…でも、今はもういいや」
リヴァは箸を置いた。
フィンのところに少し寄せた。
フィンがゴーヤーチャンプルーを一口食べた。少し止まった。
「苦い」
フィンがカイに皿ごと渡した。
「言っただろ」カイは言った。自分の茶碗に全て乗せた。
食事が続いた。
カイが時々リヴァを見ていた。アルノも同じだった。二人とも何も言わなかった。
しばらくして、リヴァは窓の方を見た。
カイが少しだけ身を引いた。
窓の外には海があった。夕方の光が水面で細かく揺れていた。
「……海、きれい」
誰にともなく、リヴァは言った。
カイはリヴァを見てから、同じ方へ視線を移した。
リヴァはしばらく海を見ていた。




